dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

0. ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみではないか?

1. まづ ほかにブッダター(仏性)の理論があるはずです。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定命題は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出しているものである。ならば 仏性ないし仏界の提示だけでは ほとんど意味がない。

2. あるいは 《空(シューニャター)》観がよく引き合いに出される。けれどもこれも けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての《世界‐内‐存在 In-der-Welt-sein 》である――と明らかにしたまでである。



3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。と考えます。

3-1. 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ
  
  【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】
   https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9354024.html

3-2. 《非知》とは ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   経験
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと証明された)
   非経験
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
 
3-3. 非知なる非経験の場 ⇒ 《非思考の庭》 ~~~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ____________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる)      :思想・宗教
  感性の原野(センスス・コムニス=かんじる) :共通感覚
  ____________________________

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。

 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然およびその分身たる自然)
   霊:われ(自然本性)


4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方(梵我一如)を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは 別様にしかも同じ位置にブッダターを立てた。これは アートマンのことである。

4-2. その《無い神》は やはり梵我一如の《有る神》とまったく同じく 絶対性たる普遍神のことを言っている。



☆ 自由なご批判を歓迎します。

質問者からの補足コメント

  • №45つづき


    ★ 脱皮の話。・・・古い皮と言うのは、古い生き方の事だと考えます。今世とか来世とかを逡巡する生き方を辞めて、一なる世界で本来的に生きる事。
    ☆ 前史と後史と言っています。ウソ・イツハリによって自己から自己が遊離する これをどうするか どうにかし得る状態になれば 後史に入る。(?)


    ★ 解脱・・・は心身の脱落と言われます。・・・脱落を経過すると、心身が解きほぐされた状態になり、完全に安らぐと言う事だそうです。
    ☆ ウソによって負った負い目 これがやわらぐものと思われます。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/12/30 20:03
  • №7つづき

    ☆ 《現実への立ち帰り》があやふやでは?
    ★★ 私の見立てでは、今世や来世こそが概念的、理念的であり、それらを捨て去る事の方が、質実な在り方に思えます。

    ★ ~~~
    例えば飾りをつけたもみの木の、飾りを外そうと言った場合、残るのはただのもみの木です。それは大体は言わなくても分かることです。

    今世や来世を捨て去った時に、必然残るものがある。それが円い世界だと言う事なのですが、脱皮の譬えではそこまでは描かれていません。

    必然、新しい皮に生まれ変わった蛇がそこにいるわけですが、それは脱皮することを言っている時点で自明だとも思えます。
    ~~~
    ☆ 了解しました。そして 《中諦》に行きつくようです。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/12/30 22:43
  • №10つづき

    ★ 前史から後史に移り行くのに、"柔軟でしかも芯がある"と言う指標が機能するのは、不思議な事です。あたかも闇雲に探し物をしている時に、「こっちだ」と知らせる声の様です。

    ☆ この《指標》が ふつう一般には《後史(=〈 1 〉)を生きる人》であるのでしょう。しかもおそらく 自分と同じ《前史(=〈 1 ± α 〉)の人》であり得る。そうであっても みづからの内の《 ± α 》の部分についてよく分かるかたちになり得る。

    あるいはひょっとして《 ± α 》の部分を生じたときの事件のようなものごと〔の再現〕であったりする。

    しこうして:
    ★ 縁にまつわって、法が全体としても、局地としても、顕れると。後史の者にとっては全体として当たり前に顕現し、前史の者にとっては局地として稀有に顕れる(様に見える)


    ☆ うまくまとまりましたと自分でも思ったりします。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/12/31 18:09

A 回答 (11件中1~10件)

中核は広い、私もそう思う。

塊では無いですね。本体はあるけど、広い。

この素直を、私は通常と呼んでいます。前史においてはこれは聖だったかも知れないが、後史においては通常なのです。
ここから振り返るに、前史とはなんであったと言えるのか?一言で言うなら、苦しみであったと言える。自分ならざる事であったことの、苦しみです。自由では無かった。後史を生きる者にとって白鳥の様に遠ざかり離れる事は自然であり、その極地として、執って離さないと言う自らを縛る行いを為さない(維摩詰のように世間に顕現することも可能)。
では何を為すのか?
そこに縁というものを語ることができるのでしょう。
そしてこの縁にまつわって、法が全体としても、局地としても、顕れると。後史の者にとっては全体として当たり前に顕現し、前史の者にとっては局地として稀有に顕れる(様に見える)

前史から見た形を言うなら、柔軟でしかも芯がある様に見えるかもしれない。後史を生きる本人には、そうあろうと言う意識はないし、そんなつもりもないのですが。

前史から後史に移り行くのに、"柔軟でしかも芯がある"と言う指標が機能するのは、不思議な事です。あたかも闇雲に探し物をしている時に、「こっちだ」と知らせる声の様です。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 中核は広い、私もそう思う。塊では無いですね。本体はあるけど、広い。
☆ はい。まづ ここですね。

★ この素直を、私は通常と呼んでいます。
☆ ベースというのは もともと《歩き》です。
▲ https://www.etymonline.com/word/base#etymonline_ …
☆ 歩きの《通常》の調子やあり方(またその広がりとしての世界。なぜなら 《基礎》でもあるから)。というふうにも感じられます。

★ 前史においてはこれは聖だったかも知れないが、後史においては通常なのです。
☆ なるほど。この感覚は いいですね。何かを特別視して《聖別》するのは まだ心が狭い。

★ ここから振り返るに、前史とはなんであったと言えるのか?一言で言うなら、苦しみであったと言える。
☆ まぁ そうでしょうね。あるいは《思うようにならなさ》。

★ 自分ならざる事であったことの、苦しみです。
☆ 文体にからめてまとめたものがあるんです。

【Q:《わたしはわたしである》という文体論について 批判はありますか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10518357.html?pg=1
☆☆3.《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》:
     1 x 1 x・・・x1=1

☆ このとき 具体的には わたし=1 が 1 ± α のように要るものを無くしていたり要らぬものを着飾っていたりするわけです。その状態に ひとつには 強引に 1 を掛けて 1x1=1 としてわれに還る。

むろんそれでは乱暴すぎますから 夾雑物や喪失物である ± α をどのように処理するかが問題になります


★ 自由では無かった。後史を生きる者にとって白鳥の様に遠ざかり離れる事は自然であり、その極地として、執って離さないと言う自らを縛る行いを為さない(維摩詰のように世間に顕現することも可能)。
☆ はい。佳境に入ってきました。

★ では何を為すのか?
そこに縁というものを語ることができるのでしょう。
☆ お話の順序を変えますが:
★ 〔☆ そのよき縁は〕前史(=《 1 ± α 》)から見た形を言うなら、柔軟でしかも芯がある様に見えるかもしれない。後史(=《 1 》)を生きる本人には、そうあろうと言う意識はないし、そんなつもりもないのですが。

つづく

お礼日時:2020/12/31 18:06

> ☆ うまくまとまりましたと自分でも思ったりします。



僕も同感です^_^
これまで培った洞察と、此度、平静さがあって為せたことなのでしょう。手柄はお納めください。

では、良いお年を^_^
    • good
    • 1
この回答へのお礼

おつかれさまです。

これはむつかしいと思ったことが たのしく思い出されるのは ひとしおうれしいです。今回。


そうですね。2020年を見送ることになりますね。よいお年を!

お礼日時:2020/12/31 21:54

綱渡りですか。

私の方から見れば、一歩一歩確認しながら渡ってくださっているな、と言う印象でした。ありがとうございます。

> ①われについて確認した中核の状態と ②あらたな主題へのベクトルの始動があるかと。次は おもに②のことなのかなとは思います。

そうです。話の繰り方がスムースで助かります。
さて、ここで問題にしたい事は、その中核の状態で働く力学は、果たして(前史にあったような)ベクトルによる力学なのであろうか?ということです。
想像してください。素直な自分になった、意を発すればすぐに、言葉や行動となる。ラグが無い。思慮する時にも、雑念が無い。
私の考えでは、中核は中核のままに威力を発揮するのだと思われます。そこで働くのは、ベクトルと言うよりも、法則ではないかと。いや、これは難しい事を言おうとしてるので伝わり難いとは思うのですが。
つまり平易に申しますと、自身の生き方、ルールが備わるという事です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

いやあ 一山越えてまた一山ですかぁ。ま おもしろい主題でたのしい思索になると思うのですが。

★ 私の考えでは、中核は中核のままに威力を発揮するのだと思われます。
☆ 直感および直観で そうだと思います。

そして――議論のやり取りとしては しばしば極論めいたことを話が進むと思われ差し挟むのですが―― 好みで言うとすれば 中核のもみの木は 能天気ですね。

★ 想像してください。①素直な自分になった、②意を発すればすぐに、言葉や行動となる。③ラグが無い。④思慮する時にも、雑念が無い。
☆ ①の《すなほ》は 広い場です。(誰かさんの言い方で エネルギーであるとも言ったほうがいいですかね)。④の雑念をもみづからの内にむしろ抱えています。③ラグが無いとも大きなラグをやはり抱えているとも見られます。
②は わたしの感じでは 世界からの刺激を受けて発動する。・・・


★ そこで働くのは、ベクトルと言うよりも、法則ではないかと。いや、これは難しい事を言おうとしてるので伝わり難いとは思うのですが。つまり平易に申しますと、自身の生き方、ルールが備わるという事です。
☆ ここが むつかしい。

次のように結論づけました。

ここはやはり飛躍しちゃいます。想像です。

①の《すなほ》は 要するに 世界と一体なわけです。認識しうる法則を超えたダルマと――あるいは ブラフマンと――ともに生きている。

(だからと言って 何かが分かったというようでもない。ただし 世界は開けている。そのように見えている)。

そこでは:
★ 自身の生き方・・・が備わる
☆ でしょうね。
★ ルール
☆ は ルールを超えたルールたるダルマさんが 面倒を見てくれている。わたしは 無ないし能天気。

そこで確立するのは:
○ 文体
☆ ですかね。
○ 文は人なり( Le style, c'est l'homme même. / The style is the man 〔 himself 〕. ):文体は 人間なり。
☆ 自己表現におけるわが歩き方?

確立は 固定では必ずしもなくて 柔軟なかたちのようにも想像されます。

《確立する sancire 》の過去分詞が《確立された sanctus 》ですから セイントあるいはサンタさんになります。《聖なる》と言うと 《聖俗》の対立がからまって来るんですけれどね。

お礼日時:2020/12/31 05:13

もし本題と言うものがこの話にあるとするならば、それは次のようなものでしょう。



素直な自分になった時、自分はどうするのか?どうしたいのか?
(ただのもみの木になった時、本性の明らかになたっとき、それはどの様なものを顕すか?)

それは予想できなくはないですが、その予想は正当性を欠く性質のものです。なぜなら、予想したとたん、それは新たな飾りをつけるに等しいことになるからです。

しかしたとえしがらみ(飾り)の中でも、自分の本心を問い続けると言うことは確かなベクトルとしてしがらみの除去に作用すると思われます。

ここら辺は微妙と言うべきでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

▼ 1
体中に広がった蛇の毒を、〔すぐに〕薬で取り除くように、怒りが起こったのを〔その瞬間に〕取り除く修行僧は、「今世」も「来世」もともに捨て去る。──蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように。


★ もし本題と言うものがこの話にあるとするならば、それは次のようなものでしょう。
★ ここら辺は微妙と言うべきでしょう。

☆ ひじょうに微妙な問題として指摘されましたね。


★ 素直な自分になった時、自分はどうするのか?どうしたいのか?
(ただのもみの木になった時、本性の明らかになたっとき、それはどの様なものを顕すか?)
☆ この場合は われに還っている状態が中核としてあり そのことを確認しつつあらたな主題に向けてどう動くかといったベクトルが始まる・・・でしょうか。

だとしますと ①われについて確認した中核の状態と ②あらたな主題へのベクトルの始動があるかと。次は おもに②のことなのかなとは思います。

★ それは予想できなくはないですが、その予想は正当性を欠く性質のものです。なぜなら、予想したとたん、それは新たな飾りをつけるに等しいことになるからです。
 
☆ しかも次のように捉えるなら ②の始動に当たっても ①のもみの木状態をつねに意識している。ですかね。
★ しかしたとえしがらみ(飾り)の中でも、自分の本心を問い続けると言うことは確かなベクトルとしてしがらみの除去に作用すると思われます。
 


☆ わりあい早くまとめることが出来たのですが 何だか綱渡りをしているみたいな感覚が残りました。

お礼日時:2020/12/30 22:57

>~スッタニパータでは言っていません。

《捨て去った》ままではないですか?

そうかもしれません。或いは、皮を脱ぎ去るなら、新しい生活がありますから、その新しい生活については各々の自由の為すところであって、言内に含める必要はないのかも知れません。
スッタニパータの文章を記憶しているわけではないので直ぐには応えられないですが、経典を読めば、ここなどは、捨て去った後のことであると指摘する事も出来るかもしれません。今は、パッと思いつかないですね。

怒りを制するとは、我執を制することでもあります。それは自分を無くすのではなく、自分の方にのみベクトルが向かっているその内的ベクトルを消却することだと思います。これは、気持ちが励起して尖がっている状態から、均された状態になるという結果を生じるでしょう。それは、尖っている部分を切り落とすのではなく、あくまでも炎症の元を治癒する様なことであります。

渇愛や欲望と言った、膨らみだせば限りなく再生産される心の仕組みを見て、そのある種こんがらがった機構を正常にすると言うのが仏教の伝える所なのかなと思います。

>☆ 次の一文では 《現実への立ち帰り》があやふやなんですが?
>>★ 私の見立てでは、今世や来世こそが概念的、理念的であり、それらを捨て去る事の方が、質実な在り方に思えます。

例えば飾りをつけたもみの木の、飾りを外そうと言った場合、残るのは何か?と言う事なのです。残るのはただのもみの木です。それは大体は言わなくても分かることです。

今世や来世を捨て去った時に、必然残るものがある。それが円い世界だと言う事なのですが、脱皮の譬えではそこまでは描かれていません。

必然、新しい皮に生まれ変わった蛇がそこにいるわけですが、それは脱皮することを言っている時点で自明だとも思えます。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

▼ (スッタニパータ 冒頭) ~~~
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8 …
1
体中に広がった蛇の毒を、〔すぐに〕薬で取り除くように、怒りが起こったのを〔その瞬間に〕取り除く修行僧は、「今世」も「来世」もともに捨て去る。──蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように。
~~~
☆☆ 怒りも喜びも空だとただちに見る・その意味でこの現世も空であるというのは いいのですが そのあとさらに《空が 色である》という――煩悩即菩提・娑婆即浄土なる――高いところの命題があるはずです。
☆ この般若心経の理論は 《空仮中の三諦》として考えなおしたいと思います。

★★ 《常に捉えられざる全体性(実体)の在るのを認めること》を 
☆☆ スッタニパータでは言っていません。《捨て去った》ままではないですか?

★ 皮を脱ぎ去るなら、新しい生活がありますから、その新しい生活については各々の自由の為すところであって、言内に含める必要はないのかも知れません。
★ 捨て去った後のことであると指摘する事も出来るかもしれません。

▲ コトバンク:空仮中の三諦 ~~~
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%AB%A6-70984
① 空諦とは あらゆる物事にはおよそ実体というようなものはないという真理。
② 仮諦とは すべての存在はいろいろな構成条件によって成立しているから,存在するといっても仮りの存在であるという真理。
③ 中諦とは,あらゆる存在は空や仮で一面的に考えられるべきものではなく,真理は言葉では言い表わせないということ。
~~~
☆ この③《中諦》をおっしゃっていたのだというように思われます。そのように わたしも全体をまとめればよかったのだと。



★ 怒りを制するとは、我執を制すること・・・自分を無くすのではなく、自分の方にのみ向かっているその内的ベクトルを消却すること。
★ 渇愛や欲望と言った、膨らみだせば限りなく再生産される心の仕組みを見て、そのある種こんがらがった機構を正常にする
☆ あり得ると見ます。ただしわたしの場合 怒りや我執をしかるべき目的に利活用するという言い方が好きです。

つづく

お礼日時:2020/12/30 22:42

>《「今世」も「来世」もともに捨て去る》が17項にわたって説かれている~こういう純粋理念のほうへ飛んでいくというような思潮はあると思うんですが。



bragelloneさんもたまに思われるかもしれませんが、今世とか、今生と指し示すところの実体とは何であろうかと考えるに、その様なものは別に無いのであると、私などは見るのです。来世とか来生についても、その様なものの実体は別に無いと見るのです。

概念によって個別に捉えたものはすでに幻であると知って、常に捉えられざる全体性(実体)の在るのを認めること。これが、余計な考えを捨て去る事なのだと。
つまり余計な考えとは、ここで言う今世とか来世のことになります。

これを別の言い方にすると、過去を悔いることなく、未来を憂うことなく、ただ今という永遠(久しく遠大)なる地平に基づいて生きる事(つまり水平的)、だと思うのです。

私の見立てでは、今世や来世こそが概念的、理念的であり、それらを捨て去る事の方が、質実な在り方に思えます。


しかしここで私は弁明しなければならないことがあります。
以前、来世について、あるかないかは分からないが、あってもおかしくはない。宇宙の仕組みのことはほとんど分かっていないから。と言うようなことを述べたことがあります。それは実に、余計な物言いであったでしょう。当時、輪廻説に忖度が無かったか?と言えば、少しはあったと言わざるを得ない。

追伸:
昨日と今日、などと言うのも、別に実体は存在しないものです。只、地球がぐるぐる回っているので、影と日向が繰り返されているだけで、時の流れに区切りがあるわけではありません。昨日、今日と言うのは、我々の概念です。もし、昨日や今日、明日と言うものが無く、その様な区切りが存在しないとすれば、生きると言う事はどういうものであるか。やはりその一様性、一体性を回復するのではないだろうか。同じく、今は年末であるけれど、去年とか、来年と言うものが存在しなければどうだろうか?我々の一生は、一つなぎになるのではないだろうか?

今世と来世という概念を捨て去ることで、円い世界が現れないだろうか?

追伸2
脱皮の話。これらの概念への囚われを捨て去ることは、果たして蛇の脱皮のようだと言えるだろうか?
古い皮と言うのは、古い生き方の事だと考えます。今世とか来世とかを逡巡する生き方を辞めて、一なる世界で本来的に生きる事。とも言えなくもないかなと。ちと説得力はないですが。

もう一つ考慮すべき点があります。この点は私は解説を出来ないのですが、解脱と言うのは自身に起きる確かな現象であり、それは心身の脱落と言われます。心とは名称(nama)、身とは形態(rupa)と言われます。これらの脱落を経過すると、心身が解きほぐされた状態になり、完全に安らぐと言う事だそうです。

まぁ、そんなこともあるやろなぁ、と言う感じです。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

☆☆ 《「今世」も「来世」もともに捨て去る》

★ 今世とか・・・来世とか来生についてその実体は別に無いと見る
☆ という見方をすることが 《捨て去る》という意味だ――ということでしょうか。

だとしますと その命題は――色即是空の段階を言ったまでであって――なおまだ 《空即是色》の段階を言っていないですね。《実体のない現世》は空であるがしかし それは空として現実なのだ――と説くなんはずです。

▼ 1
怒りが起こったのを〔その瞬間に〕取り除く修行僧は、「今世」も「来世」もともに捨て去る。

☆ 怒りも喜びも空だとただちに見る・その意味でこの現世も空であるというのは いいのですが そのあとさらに《空が 色である》という――煩悩即菩提・娑婆即浄土なる――高いところの命題があるはずです。


★ 概念によって個別に捉えたものはすでに幻であると知って、常に捉えられざる全体性(実体)の在るのを認めること。これが、余計な考えを捨て去る事なのだと。
☆ この《常に捉えられざる全体性(実体)の在るのを認めること》を スッタニパータでは言っていません。《捨て去った》ままではないですか?

つまり 次におっしゃるごとく ほんとうは必ず現実に戻ってくるはずなんです。
★ これを別の言い方にすると、過去を悔いることなく、未来を憂うことなく、ただ今という永遠(久しく遠大)なる地平に基づいて生きる事(つまり水平的)、だと思うのです。


☆ 次の一文では 《現実への立ち帰り》があやふやなんですが?
★ 私の見立てでは、今世や来世こそが概念的、理念的であり、それらを捨て去る事の方が、質実な在り方に思えます。


★ 弁明: 来世について・・・あってもおかしくはない。 / 輪廻説に忖度
☆ うけたまわりました。



★ 昨日と今日、などと言うのも、別に実体は存在しないものです。
★ 時の流れに区切りがあるわけではありません。
★ その一様性、一体性を回復するのではないだろうか。
★ 今世と来世という概念を捨て去ることで、円い世界が現れないだろうか?
☆ 世界は 《場》であるそうです。エネルギーの波だとか。波とは そのそれぞれの小さな場が次々に励起するだけだとか。生物は 移動しますけれど。

時が流れるというように感じるのは 《生まれると死ぬ》とが起きるゆえではないかと。

つづく

お礼日時:2020/12/30 20:02

追記


今経典をぱらぱらとネット上で読んでいたのですが、鳥になることについて、白鳥の譬えがいくつかあったのを思い出しました。厭離、遠ざかり離れることについて、白鳥に譬えた詩がいくつかあります。

ただぞれは、鳥になる(上昇志向、上方向の移動、地上から離れる事)ではなく、白鳥のようにとは、水平移動だと思われると良いと思います。

「譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。」

「こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。(温かい春が来たのに)白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。」

これは、鳥になる、即ち地上を離れる超越ではなく、”遠離”を示した言葉でしょう。

追記2
維摩経では、白鳥の様に俗世から遠離した修行者が維摩に諭される描写が沢山ありますが、この維摩詰というのは、菩薩の形をした如来であります。
菩薩や如来においては、慈悲を備えて、世俗にあっても汚れることなく、つまり馬鹿になることが無く、智慧のままに生きることが出来るのでしょう。

これは、遠離の真髄が、水平移動だけではなく、心の立ち位置の変化であると見ることが出来ると思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 鳥になることについて、白鳥の譬えがいくつかあった / 厭離、遠ざかり離れることについて、白鳥に譬えた詩

★ ただぞれは、鳥になる(上昇志向、上方向の移動、地上から離れる事)ではなく、白鳥のようにとは、水平移動だと思われると良いと思います。
☆ あぁ 微妙ですか。

▼ 221 
「譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。」
☆ なるほど このタトへは 修行の進み具合いのことですかね。

あっ。でも・しかし その章の初めを見てくださいよ。

▼ 207
親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである。

☆ どうですかねぇ。

▼ 91
「こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。(温かい春が来たのに)白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。」

★ これは、鳥になる、即ち地上を離れる超越ではなく、”遠離”を示した言葉でしょう。
☆ あぁ。ぢゃあ 先ほどの207にしても《家を去って林の中に住む》というヨコの移動なんですかね。林住期というのが インド人にとって普通一般だと言えば そうらしいですが。



★ 追記2 ~~~
維摩経では、白鳥の様に俗世から遠離した修行者が維摩に諭される描写が沢山ありますが、この維摩詰というのは、菩薩の形をした如来であります。
菩薩や如来においては、慈悲を備えて、世俗にあっても汚れることなく、つまり馬鹿になることが無く、智慧のままに生きることが出来るのでしょう。

これは、遠離の真髄が、水平移動だけではなく、心の立ち位置の変化であると見ることが出来ると思います。
~~~
☆ 維摩詰については もろ手を挙げて 賛成です。山上憶良のように娑婆世界にあって 地道に一歩一歩あゆむ姿が思い描かれます。
▼ 184
「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」
☆ というように。

お礼日時:2020/12/30 15:38

この4つの徳は、アーラヴァカ経に書いてあります。


https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/li …

私は、20年ほど前、徳とは何かの答えを求めていました。そして、このアーラヴァカ経にある4つの徳をもとに、徳を解説した回答に出会いまして、その時こう思ったのです。これは本物だと。徳とは何か?勇気とか、智慧とか、漠然と思っていたのですが、それは世俗においては4種あるとか、それはこれこれであれそれで、と言う話を殆ど聞いたことがなかったのですね。ギリシャでもプラトンの四元徳がありますが、私にはブッダの四つの徳の方が、地に足ついてる、つまりリアリティがあるように感じられたのです。
で、色々な仏教について勤勉な人達の見解を聞いて、また考究し、誠実とは、堪え忍びとは、物惜しみしないとは、自制するとは?などについて理解を深め、修して行ったわけです。

円い心については私が思うところなのですが、円というモチーフは仏教中に度々出てくる様です。寺にも円い窓の空いた部屋があったりします。悟りのモチーフなんですね。これは、完全なるもの、例えば球体に非常な関心を抱いた古代ギリシャの学者達の志向性とリンクしそうなのですが、仏教のそれは幾何学的な円さではなく、円満、全き安らぎの形容を指している様です。

どちらかと言うと、鳥になろうとすると言う誤解は、西洋のイデア的な考えに近しく、仏教の何処までも苦と言う現実に寄り添った見解にはあまり起こらないのだと思います。あくまで修行者の立場では、ですが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうですね。議論をふっかけたのは わたしですが 一方でキサラギさんの精神の遍歴にケチをつける気も謂われもないのですが 他方で理論の問題としては 問題ですね。

だって スッタニパータでは 冒頭からおおむね《鳥に成る》たぐいの説が出て来るんですから。

▼ (スッタニパータ 冒頭) ~~~
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8 …
1.1 蛇
1 体中に広がった蛇の毒を、〔すぐに〕薬で取り除くように、怒りが起こったのを〔その瞬間に〕取り除く修行僧は、「今世」も「来世」もともに捨て去る。──蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように。
~~~
☆ だって この《「今世」も「来世」もともに捨て去る》が17項にわたって説かれているんですから。

まぁ 表現のあやだという見方は できなくないですが こういう純粋理念のほうへ飛んでいくというような思潮はあると思うんですが。



たましいの遍歴が あくまで主観的なものだという点については重ねて述べつつ 次のご回答に移ります。

お礼日時:2020/12/30 15:18

私がブッダの教えの中で価値があると思うのは、徳についての箇所がそうです。

それは四つあり、曰く、誠実と、忍耐と、物惜しみしない事と、自制することです。それに、禅定(静止)と智慧(光明)を加えた六波羅蜜は、良い事を説いたと思います。

或いは時代は降って中国の話。禅宗の六代目と言われる慧能曰く。
徳とは素直な心のことである。
と。
直き心は菩薩の浄土とも言います。

これはブラジェさんのもみの木の話に似ている。
余計な飾りを捨てて、自己に立ち返り、素直な心でいること。

菩薩が直き心、即ち自由な心であるならば、なら、仏はどんな心なのか?
私が思うに、それは円い心なのだろうと思う。その有り様を観照と言うのではないだろうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ふむ。まづは ご回答をありがとうございます。

ゴータマ・ブッダ葬送論をぶっている手前 敢えていじくりまわしてかき回しますか。お相手に不足はない。

倫理思想は どなたでも自己表現すると思われるという反論です。



▲ (山上憶良 巻五 893番) ~~~
世の中を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ
鳥にしあらねば
~~~
☆ 徳俵に足をかけ主体性に立って踏ん張る実存のすがただと思われます。

安易な《さとり》なら:
▼ (聖徳ぼんくら太子) 世間虚仮 唯仏是真
☆ となります。

ニーチェでさえ ツァラトゥシュトラの中で《鳥になる》という思想をしりぞけている。

森の中で出会った老隠者がこう言った。:
《人間たちのところへ行くな。森にとどまるがいい。・・・なぜ君はわたしのようになろうとしないのか――熊たちのなかの一匹の熊 鳥たちのなかの一羽の鳥に?》

と。いいや それは 現実存在ではないというわけである。世俗を去ることは 人間性になじまないと。

ツァラトゥシュトラ自身は この隠者は《まだ 神が死んだということを聞いていないのか》とつぶやいて しりぞけている。

初めは ツァラトゥシュトラは 三十歳のとき故郷を捨て山に入った・すなわち一たんは 鳥に成ろうと思ったようです。十年ののち かれの心に変化が起こった。

△ ツァラトゥシュトラ ~~~
《見よ わたしはいまわたしの知恵の過剰に飽きた。蜜蜂があまりにも多くの蜜を集めたように。
わたしはわたしに差し伸べられるもろもろの手を必要とする。》 
~~~
☆ すなわち・つまり 実存の問題としては 《超俗の思想》をしりぞけた。しかるに今度は 《超人》の思想に衣替えした。人びとを束ねと寄せるスーパー歴史知性でないとよいのですが。

・・・


★ ~~~
仏はどんな心なのか?
私が思うに、それは円い心なのだろうと思う。その有り様を観照と言うのではないだろうか。
~~~
☆ 《円い心》にドラマが欲しいところですね。


四苦の中の《生苦》が どうも――超俗理論の匂いがして――いただけないですね。

お礼日時:2020/12/30 09:37

古いゲルマン語の勉強の仕方がわもかなくて


ドイツ語化英語なのでh装花。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

いや 英語が あとで発展したものです。

ゴート語の参考書は ありました。いま どこへ行ったか。・・・

お礼日時:2020/12/28 21:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!