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歴史で南北朝時代がありますが日本が二つの国に分かれてたんですか?分かれてたんであればどの県は北朝か南朝か解る地図とかありますか?

A 回答 (3件)

これを理解するには「統治」というものを考える必要があります。



日本の歴史では、日本統一は大和朝廷が行い、日本全体の統治は大和朝廷が行っていました。これが平安時代まで続いたわけです。しかし、その間に、大和朝廷の統治に不満を感じた武士たちが「自分たちで統治する」と言って、朝廷はこれを認め征夷大将軍に鎌倉幕府の開闢(かいびゃく)を認めました。これからしばらくは鎌倉時代・武士の統治の時代、になるわけです。

この幕府というのは今でいう軍事政権のことです。戦後しばらくの間日本はGHQに統治され、その後も1972年まで沖縄は米軍が統治しました。アメリカ合衆国ではなく「米軍」が沖縄を管理したのです。これを軍事政権といいますが、幕府も征夷大将軍という軍事司令官が統治する「軍事政権」であったわけです。

これにより元々大和朝廷に不満が多かった東国(関東や甲信越・東北など)は鎌倉幕府の統治に賛成しましたが、元々歴史が長く朝廷と一緒に国家統一をしてきた西国には「鎌倉幕府よりも朝廷(天皇)のほうが大切」と考える人たちも一定数いたのです。

そのため、鎌倉末期には「鎌倉幕府の統治能力が下がっている」と見た朝廷と公家が、承久の乱を起こし、朝廷が統治権を取り戻す動きをみせました。鎌倉幕府は六波羅探題という監視組織を京都において、その後の朝廷を監視することになったのです。

後醍醐天皇の時代になると、朝廷側は建武の新政として「天皇自ら政治を行う(大和朝廷が統治する形に戻す)」にしてしまいます。鎌倉まで軍隊を引き連れ、当時鎌倉幕府執権だった北条家と戦って、勝ったのです。

実力で朝廷に統治権を取り戻した後醍醐天皇ですが、この政権はとても評判が悪かったのです。なぜなら、鎌倉幕府が立った理由が「自分で開墾した土地を守るため」だったように、朝廷が法律を変えて、土地が取り上げられてしまう事態が続いたからです。これにより、朝廷と武士との間を取り持っていた足利尊氏まで蜂起し、室町幕府が成立していくことになります。

武士側が幕府を開くためには「天皇の勅許、征夷大将軍への任命」が必要になります。しかし、後醍醐天皇は武士が嫌いだったため「多くの武士がその命令を聞く総司令官=征夷大将軍」に武士、つまり実力者である足利尊氏を任命することを拒否していました。

これに困った尊氏は、後醍醐天皇を武力で退けて、別の天皇を立て、その天皇から征夷大将軍の勅許を受けて幕府を開いたのです。これによって一応統治権は「武士政権である鎌倉幕府」に移り、内乱は一旦収まります。
南北朝時代と言うのは「室町幕府時代」の前半60年程度です。

これらの史実から、
>日本が二つの国に分かれてたんですか?
と言う問いに対しては「一応、統治は室町幕府が行っていたので二つに割れているとはいえない」のですが、実際には南北朝は日本の天皇が二人、外国でいえば王様が二人いる状態ですから、統治をしている幕府はひとつでも「国の実力者たちが二つに分かれて紛争している時代」とはいえました。

実はこの紛争が元で、応仁の乱が起こり、応仁の乱は戦国時代を呼ぶことになります。

そして、南北朝の時代は、武士は一応征夷大将軍である室町幕府の言うことを聞くものの、南朝に味方する実力者(武士だけでなく公家なども含む)、北朝に味方する実力者が国内に分かれていました。その分布はこのような感じです。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisigazou …
(青:北朝・赤:南朝)

全国に敵味方がいたので、南北朝の対立が終わって、朝廷が一つに戻っても、火種はくすぶったままで、これが応仁の乱から戦国時代になっていくわけです。


具体的に南朝を支える勢力と統治はどういうモノだったかというと、かなり専門的になるので書ききれませんが、要するに「俺は後醍醐天皇が正しいと思うから、何かあったら後醍醐天皇側で戦う」という意思を表した武士などがたくさんいた、ということです。そうなると隣が北朝派ならすぐに紛争になってしまいます。これをしないようするためには、南朝の後醍醐天皇をなんとなく生かしておくほうがよかったのです。

ですから「朝廷は二つに割れているけど、実質的な統治は幕府がやっているので国は割れていない」ということになるわけです。

結局、南朝は後醍醐天皇が死んだことで勢いを失い、崩壊することになり、足利尊氏が支えた北朝が生き残ります。ただ、これにより武士の権力が強くなり、朝廷は権威を失っていきます。また、日本各地に「南朝が正しい(北朝と北朝が任命した幕府は正しい統治権をもっていない)」と思っている勢力が残ったため、それが争いの火種としてくすぶり、結局戦国時代という「日本で誰が一番偉くて、朝廷から統治権を任命されるのは誰か」という戦国時代になっていくのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます☺

お礼日時:2017/10/20 11:30

建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝(奈良吉野)第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。



要するに、朝廷が北の京都と南の奈良吉野に分かれていた時代のことを言います。日本が二つに分かれて争っていたということではないです。

参考まで。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます☺

お礼日時:2017/10/19 21:35
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