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ブッダの本当の言葉(原始仏教)ダンマパダやスッタニパータなどに詳しい方に質問です。ブッダは宗教をもつな。と言われているブッダの言葉があるようですが、調べても出てきません。知っている方は具体的な文章を教
えて下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

私はダンマパダは知らないですが、スッタニパータは20数年前信仰の書と


して何度か繰り返し読んだことがあります。
この経で注意しなければいけない所は、出家に対する教えと、在家信者に対
する教えとに分かれていることです。
出家に対するおしえは、最初の「蛇の章」でわかるように非常に厳しいもの
です。
また「犀の角」では「犀の角のようにただ独り歩め」と言われています。
46で、「賢明で・・・・明敏な同伴者を得ないならば、・・・・・・・・
犀の角のようにひとり歩め」と言われています。
どの章か忘れましたが、悟りを開いた聖者は神をも指導できる存在となると
言われています。
つまり、信仰も超越した立場だと思います。
ただ、これは出家修行者の道であり、在家信者に対する教えとは違います。

在家に対する教えで、チュンダの所に興味ある事が書かれています。
90で、学識があって聡明な在家のすぐれた信徒は・・・・・彼らを洞察し
、このように見ても信徒の信はなくならない。・・・・・・
つまりこれは、信仰の対象である出家修行者の修行のありかた、生活のすべ
てを見て、「清くない」と思われる僧侶は批判をしてもいい、という事です。
「批判をしたらばちが当たるんじゃないか」などと思う必要は無い。という
事です。
これを仏教では「指弾」というらしいですね。だらしない僧侶の額を指では
じいても信はなくならない、ということでしょうか。

小なる章の「こよなき幸せ」という所で、在家の信徒に対する教えが述べら
れています。ただ、これだけだと倫理をよく守り、質素な生活をしなさい、
程度でくわしいことはわかりません。
「宝」では、三宝と思われるところがありますね。
236・・・・・・・完成した目覚めた人(仏)を礼拝しよう。
237・・・・・・・完成した真理を礼拝しよう。
238・・・・・・・完成したつどいを礼拝しよう。

質問に「具体的な文章を教えて下さい」とありますが。直接的な表現はない
と思います。
ただ、間接的にそうではないか、という言葉はあります。
最初の「蛇の章」で・・・・この世とかの世とを共に捨てる。とあります。
この世とは言葉通り俗世間に対する執着の事でしょうね。かの世とは天上界
の存在に対する信仰ではないでしょうか。私のかってな解釈ですが。
出家修行者に対しては、いったんすべて捨て去って自分の心の奥底から出て
くるもの(真理)を大切に、という事では。
13に「・・・一切のものは虚妄であると」と知って迷妄を離れた修行者と
あります。
55で相争う哲学的見解を超え、・・・・・「われは知恵を生じた。もはや
他のものに指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
とあります。
この状態に至った人を「プラティエーカブッダ」というらしいですが、この
仏陀は悟りを自分だけにとどめ、説法などしない、という事です。
その仏にとって信仰は存在しない、と解釈できます。

いずれにしてもこの問題は、出家修行者のものであり、在家信者に対しては
信仰の大切さを説いておられます。その信仰は自分より上位の知恵者である
僧侶に対するものです。
想像上の仏や菩薩に対する信仰は後の大乗仏教で出てきたようです。
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ようするに仲良くするという事


仲良くするためには自分のルールと相手のルールを大切にしなければいけません
その為には時には自分のルールを曲げなければならない
これが調和

宗教は仲良くするために「こうしなければならない」
となるのでそれがそぐわない場合対立をしてしまいます

牛は食べて良いが豚は食べてはいけない

豚は食べて良いが牛は食べてはいけない
この両者が対立して喧嘩になる

ブッダは宗教を持ちながら宗教にこだわるな、という教えを言いたいのだと思います
なので自ら戒律をしきながら戒律にこだわるな!っと述べられています
なので肉は食べてはいけないと言いながら托鉢にお肉が入っていた場合
食べているようです

「空」の教え、つまりここの空の中には何が入るかはわからない
全体に合わせなさいという教えという宗教
その宗教は宗教を持たない宗教なのだと思います
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> 「宗教」という語は中国製で、インドでは「宗」のような感覚はなかったのだと思います。


https://kotobank.jp/word/%E5%AE%97%E6%95%99-76838
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99 …
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150427/14 …

祖霊、宗(そう)
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訳によって和文が違うようです。



荒牧訳の第5章第九経バラモンの門弟ヘーマカの問いの1086は次のようになっています。
ヘーマカよ、この世間において見た真理であれ、聞いた真理であれ、思考した真理であれ、認識した真理であれ、わがものとして大切にしている宗旨があるであろうが、それにひかれる関心やそれらを求める貪欲を絶滅させることこそが、涅槃の静寂であり不死の生命ある実在である。

http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/51 …

「宗教」という語は中国製で、インドでは「宗」のような感覚はなかったのだと思います。
宗派、宗教、信仰、religionなどの言葉で示していることが、ヘーマカの問い(1084)で取り上げられているような教説を指していると考えるのならば、{以前から説かれている教説だけを避けよ、今後も説かれるだろう教説も避けよ、真理を求める気持ちを捨てよ、見たり聞いたり考えたり識別することの中に知的快楽、真理に近づきつつあると感じ快感を得ようとするのを避けよ、、、、、}という部分は、そうした意味を持っているとも考えられると思います。
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「信仰を捨てよ」と言う言葉が、たびたび出てきます。


スッタニパータにも、以下の文があります。
1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
釈迦牟尼は、別に宗教を持つなと言っているわけでは無いです。
ただし、覚者となる為には、盲信をやめ、自ら悟りの境地に至る必要があると言う事です。
これが、信仰(先入観に基づく断見や常見に偏る事です)を捨てよと言う事の意味です。
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