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歴史上の出来事で、時々わからなくなることがあります。

古代、最初に日本を治めたのは朝廷(天皇家)であることに異存はありません。しかしその後、平安時代の末頃から朝廷は武士にその地位を奪われてしまいます。特に、戦国時代に旧来のシステムを次々に壊していった織田信長でさえ、朝廷そのものには手出しをしなかったようです。秀吉、家康といった天下人も朝廷には一定の敬意を払っていたようです。
なぜ、朝廷は明治維新まで武士に滅ぼされずに存続できたのでしょうか?
当時は一般庶民も天皇を武家よりも非常に尊敬していたのでしょうか?
お詳しい方、どうかお教えください。よろしくお願いします。

なお、誤解を招かないために申し上げますが、私は天皇制に反対している立場ではありません。
あくまでも、歴史についてお尋ねしているだけです。

A 回答 (8件)

日本の統治に必要だったからです。



天皇は「エンペラー=皇帝」と翻訳されます。現在の世界でエンペラーは天皇ただ一人、なぜ天皇だけ「エンペラー」なのかというと、天皇は統治に必要な政治支配権・軍事指揮権それに宗教儀式権の3権をもっているからです。

皇帝というのは、秦の始皇帝に始まりますが、彼は中国でこの3権を独占した初めての「王」です。ですから始皇帝→初めての皇帝と呼びます。エンペラーはローマのアウグストスに始まりますが、これも3権を初めて独占した人です。ローマは王政ではないのですがエンペラーはこれを独占したので、非常に強い権力を持つことに成功しました。

日本の天皇は、大和朝廷が日本統一をする時代に支配下においた豪族たちの神様を集め「天皇による宮中祭祀」を始めました。統一された日本で唯一宗教儀式権をもつ「祭司長」が誕生したのです。

 この祭祀を天皇が独占的に行うことで、当時の感覚では「うちのクニの神様を天皇に差し出したから、うちらは天皇の家来。うちらが戦争などで滅んでも、天皇がうちらの神様を祭祀してくれる限り、うちのクニと民族は滅ばないで日本の中で生き続ける」ということになりました。

つまり天皇による統一国家日本とは「各豪族の神々を人質にとることで日本を統一し、日本国が生き残る以上参加した豪族たちは生き残れるので、天皇の命令に従って日本国のため(天皇のため)に命を懸けてこの国を守る」と言う約束を各地の人々がした、ということなのです。

今でも天皇はこの約束を守り、日課としての礼拝と時期の決まった宮中祭祀を行っています。

つまり、日本人にとって天皇とは「この国が各地の豪族や武家の領地に分割されているわけではなく『日本』という一つの国である要(かなめ)」なのです。
もし、天皇が廃止されたなら、この島国は一つの国である意味を持たなくなるほど重要な地位であるといえます。

これを分かりやすく説明できるのが、スコットランドやカタルーニャの独立紛争です。
イギリスは日本と違って「イングランド・スコットランド・ウエールズ・アイルランドは各独立国であり、その王はイングランド王が兼任する」と言うやり方で統一国家を作ってます。だから「連合王国」と呼ばれるわけで、スコットランドは「イングランド王は認めるが、民主政府は自分たちで運営する」としているわけです。
カタルーニャはもっと複雑で、スペインも王権が及ぶ17の自治区で構成されていて、各自治区は元々それぞれが王国だったので「スペイン王やスペイン政府から独立する」といっても、元々の一つの国に戻るだけ、なのです。

しかし、日本がこのような「元の一つの国」に戻るには、6世紀以前の大和朝廷になる前のクニ(豪族が支配する国)まで戻る必要があります。でもそれは無理ですよね。武士が出てきた時点で豪族→公家の家系は整理されたでしょうし、戦国時代はさらに国盗合戦でごちゃごちゃになり、江戸幕府は改易を実施して、土地と統治権を分離してしまったからです。

具体的な日本での統治というのは「土地に根付いた有力者がその土地を支配して政治を行う」という形からはなれてしまったのです。

となると、日本の有力者(武士や民主政府など)が政治を行い、税を徴収し警察による取り締まりや裁判などを行うのは「どんな正当性な理由に基づくのか?」という問題に突き当たります。

ちなみに、イギリスは長い時間をかけてイギリス王が他の3か国の王を滅ぼして国を乗っ取ったこと、スペインはスペイン王がイスラム勢力を追い出して統治を回復したことなどがあります。中国共産党は「共産党が日本を追い出して国土を回復したから、一党独裁で政府を運営できる」という理由で戦後70年やってきているわけで、その国には必ずその国の「統治の正当性」があるのです。

日本は政治的統治権を持っているのが天皇・軍事指揮権を持っているのも天皇・国家祭祀権を持っているのも天皇です。この3権が天皇にあるから「日本」は「日本と言う国」なのです。

これを、鎌倉幕府以降は天皇が「征夷大将軍という軍事指揮権を与える」として幕府を許可しました。これにより普通の政府とは別に「軍事政府」が可能になったのです。
軍事政府ってなに?と思うかもしれませんが、米軍が1970年代まで沖縄を統治していましたよね。あれと同じです。

軍というのは元々自分の国の外に出た時にその場所でも通用する「ミニ国家」だったので、それを応用して開いた軍事政府が「鎌倉幕府」ということになります。鎌倉幕府の公式な法律「御成敗式目」にも「武家以下庶民は幕府の法律に従う。公家や天皇は別(律令が生きているので律令に従う)」と書かれています。

また鎌倉幕府以降、すべての幕府は征夷大将軍が変わると、毎回天皇から勅許をもらっていました。将軍というのはあくまでも「天皇が、その個人に与えた役目」だったので、その人が死んだりして、入れ替われば毎回勅許をもらう必要があったのです。

鎌倉時代に後醍醐天皇が「建武の新政」を行ったのは、簡単に言えば「武家に将軍職を許さず、自分で統治する」ということであり、これに困った幕府側は北朝を作って「こちらが正当な天皇なので、この天皇から勅許をもらえばOK」ということにしたわけです。

これが南北朝の本質ですし、鎌倉幕府のあった東国は武士たちが「公家たちの好き勝手は許さん」と言っていたのですが、西国は当時でも豪族時代からの有力者(つまり、天皇の家来になった公家やその周辺の武家)が多かったので「東国の田舎者が天皇をないがしろにするのは気分が悪い」ということで後醍醐天皇に味方する人も多かったのです。

結局、この「天皇を日本国の指導者にするか、武家に任せるか」と言う争いは、鎌倉時代だけでは終わらず、室町時代まで引きずります。室町幕府は「朝廷と武家の仲介役」と言う役割が強かったため、足利尊氏は出自の関東ではなく京都室町に幕府を開くことになったわけです。

でも、室町幕府は半ば政治を放棄していたため(放棄と言うか朝廷と武家の両方を従わせるほどの力は無かった)、それが元で応仁の乱がおこり、全国的に広がって戦国時代に突入していきます。戦国時代の初期は「誰が天下を取るのか」というより「天皇派・武家派のどちらが日本を支配するか」という争いだったのです。

この初期の争いに勝ったのが織田信長です。信長が本能寺で弑されたのは「天皇を廃止して自分が皇帝になるつもりだったから」という説もあります。なぜこの説がでるかというと、当時は武家と朝廷の権力争いの様相があったからです。そして弑した側の明智光秀は、清和源氏の出自であり「日本における天皇の重要性」を良く知っていたのかもしれません。

そして、信長が弑され、次に天下をとったのが豊臣秀吉であったことがその後の天皇家と朝廷の行方を決定つけました。それは「公家でも武家でもない、下層の農民が天下を取ってしまったこと」です。秀吉は武力による実力者としては有能でしたが、それだけでは日本全体の統治はできません。そのため「関白職」を朝廷からもらうことで、鎌倉幕府同様「朝廷は日本国の政治運営者を関白秀吉に任せる」というお墨付きを得たのです。

これにより、全国の武家だけでなく、公家や実力者たちも「天皇が任せた人物」に従う理由ができます。これを正当性と言うわけです。もし従わなければ「朝廷の意向に逆らう逆賊」になります。この「逆賊」と言う言葉、幕末にも使われ、日本の統治形態をよく表している言葉であるといえるでしょう。

秀吉が源氏姓が必要な征夷大将軍ではなく「関白」になったのも、単に「武家の棟梁」ではなく「日本全体(公家も武家も庶民も)の統治者」である必要があったからだ、という説があります。

これにより天皇は「実際に統治を行う実力者にお墨付きを与える政治・軍事のオーナー(日本国のオーナー)」ということと「日本国の祭祀を司る祭祀長」という役割になります。

秀吉が没し、家康の時代になると「豊臣方の家来が朝廷から官位をもらって結集しないように」と朝廷がもっていた官位を授ける権利を制限してしまいます。しかし、徳川幕府も代々「将軍の勅許」はもらいましたし、天皇の祭祀権を邪魔することは一切しませんでした。

これが明治になると慶喜による「大政奉還」につながります。つまり日本国のオーナーである天皇に「政治と軍事権」を返したわけです。これにより「明治の親政」がはじまったわけです。
その後憲法ができ国会ができると、立憲君主制に基づき内閣総理大臣を天皇が任命して政治を任せるようになりました。これも日本国としては「誰が政治を実質的に行う権利をもっているか」という点でとても大切な儀式なのです。

天皇を始めとした朝廷がなぜ今日まで存続しているか、それは
・政治(軍事)の実権を誰に与えるかの権利者だったから
・祭祀長として、天皇が勅許すれば日本国中の人がそれに従ったから
です。

この方式は摂政政治を含めて朝廷ができて以来ずっと続いています。日本の国の正当性はまったく変化していないのです。だから日本は「世界で一番古い現存する国」であり、天皇は3権を持つ皇帝=エンペラーという地位を維持できるのです。
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この回答へのお礼

とても詳しくお答えいただきありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:34

2つほど。



まず皇位簒奪を目論んだ人物は、ソコソコ居ますよ。
古くは蘇我氏などが有名で、道鏡や、自ら「新皇」と称した平将門も居ますし、藤原氏や平氏も、頭をよぎったのでは?とは思います。
源氏にしても足利氏にしても、朝廷や天皇と対立したり、やはり皇位簒奪を目論んだ?とする説もあります。

ただ・・みんな「親戚」なんですね。
平将門だって、桓武帝の玄孫ですが、そもそも平氏は、別名「桓武平氏」で、平清盛も天皇の子孫。
おまけに清盛の場合、娘を天皇の嫁にして、「外祖父」になったりしてて、これは藤原氏などもやってます。
最も近年では、徳川家は、皇女和宮の降嫁などによる、外戚関係を持ったり。
道鏡も有力豪族の物部氏の末裔だし、蘇我氏も同じで、これらも天皇家に連なる家柄ともされます。

皇位簒奪を目論んだ人物も、何らか天皇家と繋がりがあって、すなわち日本の有力者は、ほとんどが天皇家とゆかりがある人物と言えますし、有力者であればあるほど、天皇家との距離も近しく、時代が下って距離が離れても、権力者であれば、外戚関係になることも簡単です。
天皇家とは、言わば日本の有力者の「ご本家」なんです。

豊臣秀吉などは例外ですが、代わりに関白家(近衛家)と接近するなどに尽力してます。
織田信長は、朝廷や足利幕府の権威は利用しつつも、それらと接近は、故意に避けた様ではあります。

もう一つは、ある時期からは、近隣諸国が「易姓革命」で失敗していることを知ってたから。
具体的には中国で、中国では新王朝が樹立すれば、「前王朝の王族は皆殺し」「貴族は奴隷」みたいな政権交代で、その結果、せいぜい200~300年しか王朝は続いてないんです。
遣隋使で有名な「隋」など、日本は親交を深めようと、決死の覚悟で、五輪くらいの頻度では派遣したのに、肝心の隋そのものが、40年くらいしか続いておらず、当時の人は驚いたことでしょう。

中国の影響も受けている日本では、易姓革命では王朝が長続きしないことは知られていたので、逆に権力者が朝廷と結び付き、また自ら朝廷を重んじて、朝廷の権威を利用する方が有利と考えられていた様です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:35

中国なんかは他民族、例えばモンゴル民族が中国を支配したなんてことが何度もあるので、他民族の誰かが「私は神の子だ」などと言っててもばっさり殺してしまいます。

ところが日本は、他の民族に支配されたことが基本的にありませんから、自分たちが神の子だと認めているやつを上手く利用した方が得だ(楽だ)というところがあったのではないでしょうか。

また天皇というと親から子へ継がれると思いがちですが、跡継ぎが居なかった時などは、えらく遠い縁族の子を新しい天皇に据えたりしています。そういう意味では、天皇家というと広く公家の多くを滅ぼさなければ、内々でも次の天皇は誰それと決めていれば継がれることになります。

江戸時代になれば、紫衣事件などを見るに幕府が朝廷を実質支配していたことが伺われますので、力関係で言えばこの頃には負けています。

明治に新政府を立てる時に天皇を引っ張り出してきたので、今でも日本の国王みたいな扱いになっていますが、それが無ければ一民間人となっていたでしょうね。(細川家の末裔とか織田家の末裔とか言われる人が、時々TVに出てたりしますよね)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:33

端的に言えば、統治に必要だったからです。



日本は地形が複雑で地域間の交通の便が悪いこともあって、強力な軍事力による強権的な統治が出来ません。
中央政権の軍事力に対抗可能な独自の軍事力を有する地方有力者らを治めるには、軍事力以外の無形の力が必要です。
そうした無形の力を統合していたのが天皇を中心とする朝廷です。

地方有力者に氏姓名や官位を与えて地方有力者がその地域で有力者たりえる根拠となる権威を持たせる。その日本国内のあらゆる権威の大元であり根拠となるのが朝廷でした。そしてそうした権威の根拠となるあらゆる知識(政治的・宗教的な儀式のノウハウ、暦の制定とその根拠となる暦学、日本全体の出来事を記録した正史、礼儀作法)を朝廷が独占しており、各分野ごとに担当する公家を決めて知識を門外不出としました。
つまり、朝廷を否定して天皇や天皇を取り巻く公家を排除すると、日本を統治するための根拠やノウハウが失われてしまい、統治が不可能になってしまうわけです。
農業や宗教儀式を行うために必要となる来年の暦を用意することもできず、各地方の有力者らを満足させることもできない。天変地異が起こった際に何らかの儀式を正しく執り行って(干ばつの際にする雨ごいしたり、洪水の際に水神に祈りをささげたり)民衆を安心させることも出来ない。
そのために必要な知識は複数の公家に分散して保管されている上に非公開なので外部の者が気軽に調べることも出来ないし、それぞれの知識は複雑にリンクしているので勝手に新しい決まり事を創る事も出来ない。新しく作った何かが、公的に存在を認めてもらうには朝廷に諮ってすべての公家が問題ない事を確認したうえで「正式な物」として権威を認めてもらうしかなかったわけです。(たとえば、豊臣秀吉が御所に黄金の茶室を持ち込んで正親町天皇に茶を点てたのは、茶道が日本文化のなかで特別な地位を獲得した歴史的な出来事だったわけです。)

そのような朝廷ですから、下手に否定してしまうよりは懐柔してでも利用する方が圧倒的にマシだったわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:33

これには色々な原因があります。




1,
西洋の王権神授説はご存じかと思います。
あれと同じです。

力が強いだけでは、天下を治めることは
できません。
その力の正当性を担保してくれる存在が
政治には必要なのです。

それが天皇です。

天皇は神と人間を媒介する存在で、ローマ法王
みたいな性格を持っています。

王はどうして威張っているんだ。
神から権力を与えられたからだ。
本当か?
法王がそうおっしゃっている。

将軍様はどうして威張っているのだ。
天皇から任命されたからだ。



2,
天皇は宗教的存在で、当時の人は、恐れ多い
という意識が強かったのです。

吾妻鏡にありますが、天皇に楯突こうとして
北条氏は、地震や台風が来る度に、祟りではないのか、
と恐れおののいた、という記述が残っています。



3,天皇には武力はありません。
それであえて滅ぼす必要も乏しかったのです。
滅ぼすよりも、己の正当性の根拠に使おうと
したわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:33

昭和天皇が「人間宣言」するまでは、天皇は人の形をした神、すなわち「現人神(あらひとがみ)」でした。


つまり、政治機構の一部というより、政治や宗教などといった日本の社会を構成するものをある意味超越した存在だったのです。
ですので、そんな存在を倒すという運動そのものが起こらなかったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:32

領地の取り合い、権力争いにも旗印とか大義が必要だからでしょうね。


朝廷が国の根幹であり正義であるという前提があるから征夷大将軍を名乗る価値や意味があるわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:32

現代の我々と全く同じような気持ちで天皇家に接していたのではないでしょうか。


もちろん一般庶民は天皇家について殆ど知らなかったとは思います。

 どの時代でも政治を行っていたのは貴族や武士ですが、天皇はその当時から「象徴」だったのでしょう。後醍醐天皇が「建武の新政」などして、一時天皇がすべて握る時代もありましたが、それもたった3年で足利尊氏に離反され室町時代(南北朝時代)となります。
天皇が日本の政治に首を突っ込んだのは、おそらくこの時が最後で、歴史の教科書にも南北朝時代以降には天皇の名前は殆ど出てきません。
 明治時代から1945年の終戦までも一応は天皇主権と言うかたちが取られましたが、これも結局は政治利用されただけです。

 先に書いたように、おそらく平安時代から天皇は象徴で、政治を行っていたのは貴族、武士、現在に至る政治家だと思います。昔も今も天皇の傘の下(要するに天皇に責任を押し付けて)で庇護されながら政治を行っていたのではないでしょうか。

 そういう意味では天皇制は日本の文化であり、王様=政治ではなく王様=象徴であったと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/30 04:32

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