
No.2ベストアンサー
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森田療法は根底に禅仏教の流れに似たものを含んでいるように感じます。
森田療法に適用されているものはノイローゼです、或は神経症と言っても良いと思います。ノイローゼははっきり言うなら、お釈迦の言っていたもの『一切皆苦』が原点になっていると思います。つまり死とか、生とかに付き纏いがちな不安とか恐怖感が、頭から離れなくなる状態『つまり意識地獄の状態=ノイローゼの状態』が原点になっているという意味です。
不安で生きた心地がしない状態が原点で出家したという意味だと思います。そうして究極の解決策を発見したという事になると思います。それが『悟りを開く』事を意味します。禅宗などでの悟りを開いた事を形容する言葉に『生死の問題が解決する=一生の大事を了畢(りょうひつ)する。(これは仏門修行が終わり、悟りに至るという意味です。)』
仏教の大意とは、悟りを開いて『生にも死にも、影響を受けない本当の究極の大安心を獲得するところにある。』と言った意味があります。森田療法によって完治した人の中には仏教の高僧と同じ境涯を獲得するといった言葉が在ります。
つまりノイローゼになって苦しんだ人の一年は、座禅を十年した事に匹敵すると鈴木知準先生は書いています。そしてノイローゼは悟りを開かないと治らない、と口癖のように言っていました。
森田療法におけるあるがまま、とは、人為に依らない生活という意味です。無為自然という意味です=はからわず、自然のままに、がこれに相当します。
この意味は神経症などの症状は如何に違う症状が在ったとしても『計らいの産物=症状』とみています。症状の改善を図る事がそのまま症状の発症と固定にあずかっているという解釈です。もっと言うなら『治したいとか治りたい(症状を無くしたいという意味です。)という心が神経症そのものだといった解釈です。
治った姿は『治そうとしなくなった姿』といういみですが、すっかり症状を受け容れてしまって症状が出ようが出まいがどっちだっても構わない。こうなった時が完治した時だと言っています。
寺泊の良寛さんが『死ぬ時は死ぬるがよろしい』に通じています。死期が迫った時にじたばたして死にたくないともがき苦しむ事は当然考えられますが、死を受け容れてしまってしっかりと自分の死を肯定して受け容れるなら、死であってもそう言った人の心をかきむしる事など出来ないという意味になります。
森田療法は現代の若者達には受け入れがたい我慢を強いる療法に見えていて、森田療法に人気とか知名度はイマイチに見えます。
森田療法の神髄は、症状をそのままにして置くところ、すなわち『不問』にあります。症状が在っても不問、症状が無くなっても不問、その訓練が徹底されたなら、症状の在り無しを等云う事が無くなっています。
此処まで来たならあと一息です。症状を何とも思わなくなって、症状の有り無しに一喜一憂し無くなったらもうすぐ治ります、というか治っています。
森田療法でノイローゼが治る場合では、釈迦と同じに『一切快苦』がそっくりそのまま『安楽の法門に成って居ます。』
苦そのものが、安楽に至る道すがらという意味があるからです。
自身の中の『もう一人の自分』との出会いを悟りと表現します。自分を恐怖に貶めていた犯人です。自身の感情を湧き上がらせている者です。或は自身を『働かせている者』です。自分の命そのものを働かせている者です。無意識の自分の主人公です。
従って鈴木知準先生が『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』と言った言葉は、名言と言っても良いのかも知れません。
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