幼稚園時代「何組」でしたか?

南伝のテーラヴァーダ仏教と北伝のチベット仏教の
違いについて質問です。
テーラヴァーダ仏教の目指す最終的な境地が阿羅漢で
あるのにたいしてチベット仏教の目指す最終的な境地が
仏陀であるのはなぜですか。
言葉の定義が違うのでしょうか。
それではよろしくおねがいします。

A 回答 (5件)

少し補正と補足を入れます。



補正)

>もともと原始仏教では、釈迦も阿羅漢の一人でした。つまり阿羅漢と仏陀は、本来は同義語なのです。

「同義語」は言い間違いですね。仏陀は悟った人のこと。阿羅漢は、尊敬されるべき者の意味。ただし、両方とも原始仏教では、悟った人を指す言葉で、同じものを指すことに変わりありません。

>とくに説一切有部というある種の特殊な存在論を説く学派に対して、自分たちの立場から批判を向けものです。

これもおおむねその通りで、大乗の人々(とくに有名な龍樹などはそうです)が具体的に批判したのは、説一切有部という、ある一部の仏教学派ですが、広い意味で、自分たち大乗の教えこそが一番優れていると思っているので、その意味では、テーラワーダなど、自分たちの奉じる大乗以外の仏教諸派も、一段劣ったもの、小乗的なものとして、捉えていたということは言えると思います。ただし、実際のインドでは、大乗と小乗という対立関係は、それほどなかったとも言われています。経典など記録されたものは、ある一面を誇張して伝えていることも多いようです。

補足)
>チベットでいう阿羅漢の定義とはなんなのでしょうか。

私はチベット仏教の個別論(後期タントラなど)については、よく知りませんが、インド大乗仏教の理論を基本的に引いていることを念頭にすれば、この点についての大まかな説明はできると思います。というのは、チベット人も、例えば『法華経』等の大乗経典を読みますし、私たち日本人大乗仏教も『法華経』等の大乗経典を読みます。この『法華経』は、阿羅漢のことに触れていることで有名ですが、使っている経典がほとんど同じなので、大乗仏教の流れを引く派は、基本的な思想は近いのです。テーラワーダでは、『法華経』や『阿弥陀経』などの大乗経典は読みません。よりどころにする聖典がかなり違います。だから、教えの内容も、かなり違います。

阿羅漢の定義。まずは、先程もあるように、自分だけの救いを求める小乗の聖者という意味があります。これを押さえてください。これは、チベットでの定義というより、大乗共通の定義になります。なお、ご存じないと行けないので、念押ししますが、チベット密教は、インド大乗仏教の理論を厳密に引き継いでいると言われ、大乗と密教を別のものと考えているのでしたら、それは少し違います。密教は、大乗仏教の理論をもとに、インドの他の宗教などの影響も受けつつ、さらに修行や実践面などで展開した宗教です。大乗の世界では、仏陀・・菩薩・・阿羅漢・・声聞(仏の弟子)というように、新しく位を組み直しました。「菩薩」を新しく造って、阿羅漢の上に置きました。大乗の人は、阿羅漢を、「自分だけの救いを求める小さい聖者」と低く定義づけました。彼らは、阿羅漢を真の意味での聖者だとは思っていません。真の聖者のあり方は、「菩薩」以上です。菩薩は、自分の悟りよりも、人を救うことを優先します。大乗仏教は、「人を救う」ことを標榜し、それが素晴らしいとしたのです。ですから、最終的な悟りを開いた「仏」も、大乗の世界では、救済者です。阿弥陀仏を見てください。極楽浄土へ迎え入れてくれますね。救ってくれます。ただし、お釈迦様の時代のもともとの仏教や、テーラワーダの仏は、基本的に救ってはくれません。あくまでも、教えを説くだけの存在です。あくまで、自分を救うのは、自分しかないという考え方です。大乗の人は、阿羅漢を「自分の救いしか考えないケチな聖者」とののしっていますが、阿羅漢に言わせれば、「ケチなのではなくて、自分を修めること以外に、他に悟りの道はない(出来ることは説法して手助けするだけ。聞くのは人の自由で強制できない)」と言うと思います。ちなみに、菩薩は強制することもいといません。無理矢理にでも救うことに力点があります。そして、この阿羅漢の考えが、本来の釈迦の考え方です。悟った聖者は、どうなるかというと、「炎を滅した状態」となり、「寂滅」の境地にいるだけです。瞑想しないと、具体的には想像しにくいですが、「無」という状態に近いと思います。ですから、何もしません。同じく悟りを目指すと言っても、大乗の仏は救済志向であり、原始仏教の仏には救済の意志はなく、指している内容は違います。そして、大乗の人々は、そういう原始仏教の仏や悟りでは、物足りなかったのです。真実の悟りは、無になることではなくて、永遠に救済をして活動することだと考えました。ですから、救済者である菩薩は、当然、やはり救済者である仏になれます。悟れると言うことです。しかし、阿羅漢は、どうでしょう。「無」の状態にあるものが、救済することは出来ませんし、無になったものが、もはやいわゆる存在としてあるのかも分かりません。そこで、あるものは、「阿羅漢は、仏になれない」と言い出しました。もう「無」になったんだから。「いや、無と言っても、何らかの存在としてはまだあって、仏になれるんだ」という人もあります。ただし、阿羅漢のままでは、仏にはなれません。菩薩にならないとなれません。つまり、大乗仏教の基本理解では、阿羅漢は阿羅漢のままでは悟れないのです。

大乗仏教は、原始仏教で説かれた聖者のあり方では不満足でしたが、これは世界観の違いによるところが大きいです。「この世は、苦しみであるから脱却しよう。悟れば、この世の苦しみから出られる」というのが、原始仏教の考え方です。でも、それでは満足行かない人も居ます。「苦しいけど、本当はこの世は素晴らしい。気づいてないだけ。だから悟ればそのすばらしさに気がつく」と考えたのが大乗の人々です。だから、大乗の人々から見れば、苦しみから逃れた状態にしか過ぎない阿羅漢は、真には悟っていないし、仏たるものそんなものではない、阿羅漢は自分のことしか考えていない、という主張になるわけです。


大乗の主張には、歴史的な要素などいろいろ絡みます。分かりにくかったかもしれませんが、これ以上は、簡単に書けません。分からない時は、仏教史の本を適当に図書館で読んでみて下さい。ダライ・ラマの本は、宗教書としてはとても優れていて、素晴らしいですが、歴史的なことは書かれていません。大乗も小乗も、テーラワーダもまとめて整理してお話になるので、この手の話を調べるのには向きません。
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ですから、



>チベットとテーラヴァーダの仏陀の定義は同じだけれども

これは違います。両方とも、仏陀を目指していると言っても差し支えないだけのことです。仏陀の内容は、違います。よく下の文を読んでいただければ分かると思います。
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2です。



なお、小乗仏教とテーラワーダを混同した書き込みもネットではよく見ますが、これも違います。

小乗仏教という蔑称は、大乗仏教の経典を造った人たちが、部派仏教(分派した仏教)といわれる仏教のうちの一部、とくに説一切有部というある種の特殊な存在論を説く学派に対して、自分たちの立場から批判を向けものです。

テーラワーダは、上座部(長老の意味も。上座、長老の教えをよく継ぐもの、というような意味だったはず)と言われるように、部派の一つには違いないですが、大乗仏教に小乗と批判された派ではありません。
ですから、小乗とテーラワーダを混乱した批判は、少し歴史認識がおかしいのです。
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この回答へのお礼

解答ありがとうございます。
やっぱりテーラヴァーダイコール小乗ではないんですね。
思ったとおりでした。

お礼日時:2004/10/23 02:50

阿羅漢と仏陀の言葉の定義が両方の宗教で違っているので、目指すものが違っているように見えるだけです。



もう少し詳しく説明しますね。
もともと原始仏教では、釈迦も阿羅漢の一人でした。つまり阿羅漢と仏陀は、本来は同義語なのです。ですので、よく「テーラワーダでは仏陀は、釈迦一人しかなれない」というのは、少し誤解があります。悟ること自体は、釈迦以外の誰でもできます。釈迦が阿羅漢の一人であったように、私たちも阿羅漢になれます。ただし、仏陀というの称号はもともと普通名詞だったのですけども、釈迦が最初の阿羅漢であり、仏教の開祖であるということから、南方仏教では、仏陀の称号は釈迦に限るということになって特別な位置を与えています。よく日本の仏教家が、小乗仏教とテーラワーダを混同して、テーラワーダでは釈迦以外、仏になれないと説いているとしていますが、それは正しくなくて、同じ悟りの境地の阿羅漢になれます。ただ、仏陀という称号だけが与えられないだけで、一般人がなれない特別な境地が、釈迦だけに許されているのではないです。

チベットは、私たち日本の仏教と同じ大乗仏教の系譜を引きますね。大乗では、テーラワーダと違って、仏陀の称号を皆に許しました。と、同時に、釈迦は阿羅漢ではなくなっています。これは、阿羅漢の定義が変わってしまったからです。大乗では、仏=阿羅漢ではないのです。原始仏典では、仏=阿羅漢なのですけども、大乗では、まったく位が違います。阿羅漢は自分のことしか考えない、小乗の聖者です。当然、こういう大乗から小乗を軽蔑した位置づけは、大乗仏教の世界でしか通用しません。テーラワーダでは、当然ですが、そんな枠組み自体を想定していません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
チベットとテーラヴァーダの仏陀の定義は同じだけれども
阿羅漢の定義が違うのですね。チベットでいう
阿羅漢の定義とはなんなのでしょうか。
もうすこし詳しく説明できませんでしょうか。

お礼日時:2004/10/23 02:58

こんにちはぁ、・・この質問、私も興味あって


みなさんの回答はまだかぁ・・などと恥ずかしながら起用未深々で眺めていました。

・・で、・・全然、回答がこない(__)ので、私の意見をいわせていただきます。(__)

基本的には、質問の内容にあるとうり、言葉の定義の違いで、本質的にはいっしょ?だと思います。

具体的にはテーラブァーダ仏教は膨大な徳を積み、瞑想などでゆっくりと解脱、悟り得て小乗を完成し(=阿羅漢?)大乗の道に入り、仏陀に到達、涅槃??するのに対し
チベット仏教では・・徳の増大はもちろん、それと一緒に『チューの瞑想』、『ポアの瞑想』などタントラ的な瞑想、マントラにより、速やかに解脱、悟りへと到達する方に重点がおかれている。
ただし、仏陀への到達は、それから先(省略)のプロセスといわれています。

つまり、プロセス、スピードの違いはあるものの、行き着く先の最終地点は日本で言われている、極楽、涅槃、東洋?ではニルバーナ??に到達すること。
そして、その過程として、仏陀への到達があり、仏陀の存在は両方の宗教で、肯定されています。
ちなみに、有名なのは”五仏”、つまりヴァイローチャナ、アモガシッディ、アミターバー、アクショブャー、ラトナサンバーの存在。
これは帰依の対象として両方の宗教に共通しています。

長い回答ですいません。
私は無宗教で書籍を読んだ知識しか持ち合わせていません。
したがって、この回答は私の意見、考え方を発表?したものとお考えください。・・・(__)

以上、少しでも参考になれれば幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
テーラヴァーダとチベットの目的はほぼ一緒だと考えて
いいということでしょうか?

お礼日時:2004/10/23 03:13

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