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仏教に詳しいかた教えてください。
地獄はネットで検索すると出ます。 
現代地獄も勝手にイメージできます。 

真面な人は、どこに行くのか 極楽浄土 て映像イメージ出来ません。
そもそも 私が思ってるのと違う場合もあります。


教えてください。

A 回答 (15件中1~10件)

今、大抵の人が病院で死にます。

 医者がご臨終ですと言いますが、医学的に死んでいても、霊的には意識があり痛みを感じますから、臓器移植などしてはいけません。

まず頭の方からせみが殻を脱ぐように離れ、天井のあたりに浮かび寝ている自分を見下ろします。
それは大体24時間ほどかかります。
気ずくと銀色の線でつながっています。

それが切れれば、もう痛みは感じません。 その頃には自分に関係のあった人が迎えに来て、あなたは死んだのだと教えてくれます。

その人が仏教てきな人ならお寺のお坊さんのような風体の人とか、キリスト教的な思想の人なら、シスターとか神父さんとかです。
先に亡くなった父母とか兄弟、友達のこともあり、一応成仏している人たちです。


仏教ではこの世は仮のよであり、あの世こそ本当の世界であるといいます。その人の精神に一番適している世界に帰ります。

映画のように生まれてから死ぬまで、自分がしたこと、思ったことをすべて見せられます。それで自分でわかるのです。
今、10人死ねば6~7人が地獄に行きます。 そこには自分ととても似た人たちがいますから、自分の間違いはどこなのかを想いしらされます。

人を殺さなければ良いというわけではなく、盗まなければ良いというわけでもありません。その心にふさわしい世界があるのです。
この世は修業の場です。  できるだけ誠実に懸命に生きましょう。 この世でいくら贅沢に生きてもその心が愛もなく、人を害して生きていれば、その地獄は、暗く寂しく、苦しい。

自殺は修業の放棄です。 寿命までこの世で地縛霊になって苦しみますからしてはいけません。
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大乗仏教では阿弥陀仏の極楽などがでていきますが、初期仏教では死後についての言及はありません。

死後のことを考えるよりも、今、修行することが大事だと説いています。

有名な「毒矢のたとえ」という経典をご紹介しましょう。

 ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。

「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち---世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

 「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

 「師よ、そのようなことはありません。」

 「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。」

  ここで釈尊は、「毒矢の譬え」を出します。

  たとえばある人が毒矢に射られて苦しんでいるとする。そこに駆けつけた家族や医者が、毒矢を抜こうとしたとする。しかし、射られた人はこう言ったとしたらどうだろう。この矢を射たものがどのような階級の人間か、どのような姿の人間か、矢尻や弦の材料はどのようなものか、そういった全てのことが解らない限りは、矢を抜いてはならない、と。マールンキャプッタは言う。「手遅れになって死んでしまいます」

 「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

 マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。

 (「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473~478頁)
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宇宙仏教へ上がり修行しかありません 

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無になります。


仏教徒以外は永遠に六道を彷徨い苦しみ続ける運命ですが、仏教徒は解脱し苦しみから解放されます。
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煩悩があるからそう思うんだ「般若心経」では「無」だと教えとるんじゃなあ。

それを生きてるうちに悟ったと観音菩薩が釈迦の弟子の舎利子に説明してるのが「般若心経」じゃあ。死ぬのは怖いだろうよ誰しもが、だから「南無阿弥陀仏」と唱えれば安らかに死ねると教えとるんだ。死んだら地獄も極楽もない。
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>極楽浄土 て映像イメージ出来ません。


 仏教徒にとって最高の幸せは何だとセッティングされているの?
「釈迦如来とかにお近付きになれる場所、許される状況」なんだと思いますよ。
 コンサートで言えば、顔パスでアリーナ席へ、楽屋へ、ってところでしょう。

そういうイメージであって、物理的には「何も無い」。
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地獄とか極楽とか


死んで行くところではありません
仏教では永遠の生命を説き、死ぬと、生まれ変わるのです
生れ変わった所が、中東の紛争地域だったら、そこが地獄とも言えますが

悪をと止めるために、良い行いをさせるために、緊急避難的に、
恐ろしい地獄を、その逆の天国のような極楽を説いたのです
比喩といい、方便ともいい、低い教えで、真実ではありません

真実は
今いる所が、地獄にも極楽にもなります、と言う事です
更には、貴方の「身の内」にある、と言う事です

抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・
或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、
しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の「身の内」に候とみへて候.

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真面目腐って、極楽を説く宗教があります
惑わされないようにしましょう

地震や飢饉・悪疫で多くの人々が亡くなる惨状を見て
親鸞は「驚くことではありません」と言った
「今生では幸せになれなけれど、死してのち、西方浄土で幸せになれる」
と、ふざけた事を言うクソ坊主がいました
こいつの経典に「希望」と言う文字はありません

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」・・・嘘つき
阿弥陀如来は無量・無礙の光であり、形がない仏だ・・大嘘

こいつ流罪に合っているが
法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、
上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため
流罪です、女性問題か、

最期は妻にも子供にも見捨てられ
我が子善鸞を勘当しています

『歎異抄』では、弟子の唯円が親鸞に
「浄土というのは、死んでから行くことのできる安楽ないいところだと聞きます。
しかし、私はちっとも浄土へ行きたいと思わない。どうしてでしょうか」と質問した。
すると、親鸞は「実は俺もそうなんだ」

「どんなに念仏を唱えても歓喜がない」と弟子に言われると、
「実はおれもそうなんだ」と、また開き直る、(歎異抄)

南無阿弥お陀仏、ととなえるらしいが、哀れ

一言で仏教と言っても、様々ですよ
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涅槃寂静です。

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>>ありがとう「鬼灯の冷徹」桃源郷かな



あの天国の桃源郷はちょっと違う気もしますね。
地獄はまあ、あんな感じか、もっと酷いと思えばいいみたいです。

物理的な肉体は無いから、首を切って殺しても、しばらくすると生き返って元通りだそうです。
あと、想いの世界なので、拳銃とか戦車とか爆弾なんて知らない霊には、それは通用しないんだとか。
古い霊には、弓矢や刀ならダメージを与えることが可能って面白い世界。

>>住居問題、今後数十億人も住めるのか心配です。

霊界って、想いの世界だから、いくらでも拡張できるので大丈夫だそうですよ。
すでに数百億人くらいいるようですから。
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