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問う人:
釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、

「人の道」:
これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。
しかし騙されてはならん。
悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。
なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。
なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、
語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。
この辺り、決して騙されてはならん。

問う人:
ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。

「人の道」:
それは簡単である。
釈尊はただ悟ったよーに演じておった。
釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。

皆にも訊いてみるとえー。

問う人:
釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、
皆はどー思うか聞かしてくれ。
 

A 回答 (22件中1~10件)

釈尊はさとりうを開きさとりに至る道のみを説いたと伝えられている


そして、あらゆる因、縁、から解脱する
仏教が釈尊の説いたさとりを開きそこに至るということを大元にしているのであれば
仏教のその宗教の根本思想には因縁、因果律は含まれないだろう

因縁の思想は
上座部から大乗仏教に移行する時の神仏習合時に形成された神道系の思想ということができる
大乗仏教であっても因縁を生ずる前にさとりを開きそこに至るという過程が教義の中に明確に残されていなければならない
ということになる

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生まれ出たものは死ぬということにおいては存在と同時に原因と結果を内包していると言えます



けどもそれを存在現象の全てに当てはめるとしてしまうのは生命機械論もしくは決定論にもなってしまう
アインシュタインに神はサイコロを振らないと言わしめたけれども
素粒子論になるとゆらぎとかでカオス状態が生じ予測が不能になるということも科学的には知られてきていて決定論には懐疑的になっている
そもそも宇宙開闢のビッグバンそのものがゆらぎから始まる
これはビッグバンそのものにカオスの要素を含んでいるということを意味していて
これは存在と同時に原因と結果を内包しているという因果の法則そのものにカオスの要因がはいっていて因果律そのものが決定論的に成立しているわけではないことを意味する

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釈尊はさとりを開きそこに至る道だけを説いた



そして仏教は山川草木悉有仏性で表わされるような
唯一神教系を一括りの集団として扱って見てみるような多神性汎神論。。

ってところ

かな



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釈尊は無神論を展開したのか?



無記
だったんじゃないか?


無神論としての信仰を得てる?

いや面白いわww



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ユダヤ教系の



神?

だいたいキリスト教徒はこの神のことを何もわかってはいない



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キリスト教的に言えば



心の清きものは幸い やがて神を見る

この裏を返せば心が穢れているから神を見られない
さとりを開けない

みたいな?

それを洗い流す作業が
目を洗うの意味であり
眼から鱗が落ちるの意味


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それが今までの言説を集めたものから想定しているようなこととは違うことが起ることによって


似せてはいるけれども似ても似つかない知だけが先行してるアダムとエヴァ種に成り果ててる

みたいな



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ユダヤ教的に言えば



神の後ろ姿を見る
のを境にして。。





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日本的に言えば 眼を洗う



仏教的に言えば開眼

キリスト教的に言えば
目から鱗が落ちる


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あることを境にして


ひらく

なにが。。

なにを。。




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