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問う人:
釈尊は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆーたとゆーが、

「人の道」:
これを巷では釈尊の十難無記 とゆーておる。
しかし騙されてはならん。
悟った者は決してこのよーなことを言うことはない。
なぜなら悟った者は悟ったことの全てについて語ることができるからである。
なぜなら真理を得た者はその真理の全てについて語ることが出来るからである。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とゆー者は、語り得るまでに悟ってはおらず、
語り得るほどの真理に到達してはおらんゆーだけのことである。
この辺り、決して騙されてはならん。

問う人:
ではなぜ人々は釈尊が悟ったとゆーのか。

「人の道」:
それは簡単である。
釈尊はただ悟ったよーに演じておった。
釈尊は一丁前の役者であったから、周りの人間には悟ったよーに映った。

皆にも訊いてみるとえー。

問う人:
釈尊の十難無記ゆーのは全て、悟ってない者がこしらえたただの言い訳であり意味はないゆーこと、
皆はどー思うか聞かしてくれ。
 

A 回答 (22件中11~20件)

悟りにも様々な段階があるのではないでしょうか。



故に、覚者もまだ進化のプロセスの途中で、語り得ぬこともあるでしょう。

なので、そういうことをいったのではないでしょうか。
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似せてはいても何かが違う。



画竜点睛を欠く



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ああ そうだった



さとりを開きそこに至るということは、ただ信仰すればいいというのとは”次元が違う”という言い方は誤謬を産むような表現でまずかったかな。。

彼の岸の境界を見るという言い方もそういう意味では表現が適切でなかったな。。。
とはいえ
さとりを開く道だけを説くなんてのは釈尊が既にやったことなんだしね。。


理性と信仰は区別する。。。?
理性で宇宙を理解し、宇宙の法則は誰が創造し。。。

えっと。。
何が何だったっけ

みたいなww


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パスカルはそれは繊細で


そしてあまりに微妙でよく気をつけてないとそれに気がつかないのだと
その時のことを記して普段着ている服の裏地に縫いこんだんだそうで

先入観からくる思い込みであったり

とらわれず
観自在に実相をそのまま観ようとすることを積み重ねてきた人とか
思索を続けてきた人とかは
静かにそれを検証するかのように
表現も異なり
その後のあり方も違って現れる
ような。。

似ているのは

語りえぬものについては沈黙する
そうしなければならないのにはそれなりの意味がある
かのように。。

実相をそのまま見るということから乖離し誤謬が始まることを回避するかのように
それについて具体的に語ろうとはしない

ただ信仰するというようなこととは明確に違う彼の岸をみる
いきなり凧の糸が切れて飛んでいくかのように
それ自体に意味があるのではなくその後に来ることの方に意味がある


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あ~あ


の質問ですね。
「悟りえないことには沈黙しなければならない」と釈迦が言った?
言う訳がないないでしょう。
釈迦の言葉は
「己を陽炎泡沫の如きものと知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す」
「人間の一切は苦であると知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す」
「恨みは恨みをもって止むものではない、恨みを捨てる事によって恨みは
止む」
というように、00を縁(=導くもの=仏
)として、認識の転化(悟り)が起こる
。という展開、表現、に基本的にはなっています。
自己の思惑で語ったりはしないし、「世間の賞賛と非難を無視する」表現するのです。
話す目的は、その表現、言葉、が相手にとって、導くもの(仏)となるか
どうか。しかないのです。
あなたが思っている、仏教、はヒンズー教、やチベット仏教、それらの分派宗教宗派の
の(多分に半端な)認識概念です。
十難無記?どんな宗派は話しかはしりませんが。

元になっているのは、毒蛇の例え、とか毒矢の教え、と言われる。
説話だと思います。
釈迦の弟子に(あなたみたいな?)出来の悪い者がおり。
「万物根元は何か、世界を創造している実体は何か、宇宙は有限か
無限か」そういうことを、教えてくれなければ、修行を続けることができません。」
と言い出します。それに対して釈迦は
もし、毒蛇に噛まれたものがいたとする。
彼が、この蛇の本質と生い立ちは、毒の種類は、
などがはっきりしなければ、私は治療を受ける事が出来ない」
などと言っていたら、彼は死んでしまうだろう。今出来る治療をする
しかないのではないか。」と諭した。
と言う話しです。
それが、
「悟りえぬ事には沈黙しなければならない」と言っていることに
なるのでしょうか。
むしろ
「秀吉は常にその時その時の仕事に全力を尽くしたという。その結果太閤に
なったのであり、決して運がよくて百姓から天下を取った訳ではない」
との話しの方が、近いのではないでしょうか。
「アインシュタインが中学生に相対性理論を教えて下さい」
「その前にまず数学を勉強しましょう」と答えたとの話しがありますが。
同じ意味での釈迦の方便ともみれますが?
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さとりの意味には気付くということのほどの意味があって


小さい気付き数知れぬほどあるが。。



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○語りえぬものについては沈黙する必要がない。

「語りえない」と語るべきである。

○悟ったものが,悟っていないものに対して,「悟ってもいないのであれば,悟っていないと語るべきであり,悟っているかのごとく語るべきでない」という意味でしょう。
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ああ、間違えました。


発言ですらないですね。

「…という問に、仏陀はお答にならなかった」
ていう伝聞に過ぎないんですものね。

如是我聞。

でしたっけ?


そこは流して
五ウン非我にしよーよ。
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無記は無記



だよね。。





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そうそう



十難無記は
「哲学的問題の問題」
議論する時はお互いにその問題について興味を持っていなければならない、
というもの。

つまり、メタ発言。
「興味ありません」
ということに過ぎないわけです。

五ウン非我は
正真正銘哲学的言明だと思っているんだけどなぁ…。
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