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仏教の言葉だと思ったのですが??「空」って、どういう「感覚」ですか?自分の意識が無い時、自分はどうやったらわかるのか?・・とか、そんな感覚だったと思うのですが???忘れてしまったので、よろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

追加。


しかも曲解を招く恐れのある解釈をしますので、差し引いてお読み下さい。

縁起の法について。

仏教って難しいと先の回答で述べましたが
ちょっと現代思想に近いものがあります。
現代哲学の巨人などと言われるヴィトゲンシュタインは
「動かないように見えるモノは、それ自身が不動なのではなく
まわりによって固定されているから動かないのだ」
といったようなことを言っています。
動かないように見えるモノ=絶対的に見えるモノ=真実とか真理だと思われていることです。
真実だとか真理だと言われるものは
実は周りの様々なコンセンサスに囲まれて動かせなくなっているから
真実だとか真理に見えるだけだ、ということです。
例えば、0という真理が存在するのではなく
0というアイディアを発明したことで数学が飛躍的に進化したので
数学が欠かせない世界に住む者(=我々)にとって
あたかも0が真理として存在しているかのよう見えるだけで
実は0というのは+1と-1との関係性の中にしか存在していません。
ヴィトゲンシュタインが言っているのはそのようなことなのですが
縁起の法も、全ては関係性の中に存在しているのであって実体ではない
関係性をほぐすことが出来れば、何ものにもとらわれない=空の境地に至ることが出来る、と
そういう訳です。

どうやれば関係性をほぐすことが出来るか?って
それが仏教の教えの全てと言っていいぐらいですから
興味を持ったら、是非ご自身で学んで下さい。

最後に(これが本当の最後です)。
仏陀は空の境地に至り悟りを得ました。
即ち、自らの悩みに対する解決を見出しました。
解決した内容がどんなものであったか?は語っていません。
空の境地に至ることで自分は悩みを解決したから
もしこのような方法論に共感するのであれば仏門に入り下さい
そうすれば方法論は伝授しますから、ご自身で解決に至って下さい
というのが仏教です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ですが、微妙に皆様の言う事が違うような気がして理解していないのが本音です。考察したいと思います^^

お礼日時:2006/04/10 01:23

意識がないとか無意識とか何もないとかいう意味ではありません


サンスクリット語のシーニャ、漢訳では「空」現代語訳すれば「ゼロ」。確かに「ある」けど実態がない、ないけど確かにある、言い得て妙ですね
空とは大乗仏教で用いられる言葉で意味は無我と同じです、小乗時代に無我の意味が誤伝され、死んだらなにもなくなるという宗教否定の教えに曲がったため宗教改革では誤った無我説を否定するため空という言葉を使いました
簡単に言えば、自分は他人でもあり他人も自分である、自分は宇宙の一部であり他人も山川草木も宇宙の一部であり、自分の兄弟である。ということです
これは単にこの世のことだけではなくあの世も含めての話です。この世もあの世の一部であの世も現在ただいまのこの世に在る(一念三千)ということでもあります
人という漢字のようにすべての人が、森羅万象が相依性(縁起)をもちながら、あの世とこの世にまたがって(輪廻)相依性をもちながら存在している、ということです
そしてその存在を見守っている大いなる存在(法、本仏)があることを知るのが無我・空の悟りです

ゆえに空の感覚とは永遠を・無限を感じながら仏への感謝・衆生への感謝に満ちた心で人生修行をしていく(中諦)境地です
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Everything is nothing.


Nothing is everything.
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再びNo.3です。



仏教は、お釈迦様が修行によって悟った境地に基づくものですから、分からなくなったら、お釈迦様の説かれた阿含経典に戻って考える必要があります。お釈迦様の教えは、もっぱら仏陀になるための修行ですから、抽象的な哲学的な議論には意味がありません(それこそ、お釈迦様が戯論(けろん)として評した哲学になってしまいます)。

「大乗」仏教は、修行しないことにして、仏教を哲学化しヒンズー教化し、哲学的議論によって仏教を複雑にし理解し難いものにし、一般の信者を仏陀になるための修行から遠ざけて、仏陀になるための修行方法を一般信者の手の届かないように位置づけているように思います。

「空」についても、それが重要視されたのは大乗仏教においてですから、お釈迦様が説かれた阿含経典に戻って考えればよいのです。その解釈に色々なものがあったとしても、色々な解釈が可能であるというものではありませんし、お釈迦様の教えと関係なければ仏教としては意味がないのであり、「空」がお釈迦様の教えの何に対応するかを考えるしかないでしょう。 -> No.3参照。
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『空』に関して「これだ」という一つの解釈はないようです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_%28%E4%BB …

『固定的実体もしくは「我」の無いことや、実体性を欠いていることを意味する。』

『自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」『スッタニパータ』や「空虚な家屋に入って心を鎮める』

『般若経の「空」は、このようにすべての固定的観念を否定することを主目的としている。』

『龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。』


中道 つまり バランスが取れていると思える状態が空じゃないかと。

正義すぎず、悪すぎず、ほどほどに じゃないかと。
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空というのは、感覚ではありません。

自分の意識が無い時、自分にはわかるということがありません。

生活のなかでは、夢を見ていないときの睡眠が、最も空に近い(むしろ空と言ってしまってもいいくらい)と思います。

ただ、仏教というと、多かれ少なかれ、真理の体現を表す言葉として空という語を用いていますから、単なる睡眠だけではなく、「空そのものになっている」という自覚を思索的宗教的精神において養うことが必要ではあるでしょうが。

以上のように私は思います。
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私は何も考えないで頭を真っ白にすることが出来ます。


しばらくすると自らが存在していることへの安らぎが湧き出てきて心の中が愛で満たされていることを感じます。
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「感覚」というか、「こころの持ち方」とか「ものの見方」ということになると思いますが、私の大好きなことばで、薬師寺元館長の高田好胤氏が詠んだこのことばが端的でわかりやすいと思っています。



 かたよらない こころ
 こだわらない こころ
 とらわれない こころ
 ひろく ひろく もっとひろく
 これが般若心経 空のこころなり
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仏教ってのは、大雑把にいうと


この世に生きることは苦しいことだという前提に立ち
ではどうすれば苦を取り除いて生きることが出来るか?の
方法論を教えるものです。

仏教の創始者はゴーダマ・シッダールダという
紀元前500年ごろ(諸説あり)に生きたインドのとある王子さまです。
この人、王子様として、庶民から見れば何不自由ない暮らしをしていたのに
余程感受性の強い人だったのでしょうか
人はなぜ病になるのか?なぜ老いるのか?なぜ死ぬのか?といったことを悩み苦しみ
王家を捨ててお坊さん(当時のインドはバラモン教の時代でした)の下で
修行をしたり苦行をしたりするのですが悩みは一向に解決しませんでした。
そこで彼は既存の宗教に見切りをつけ、独学で思想を構築し
ついに悟りに至った(仏陀になった)のです。
※仏陀(buddha)とは「目覚めた人」「真理を悟った人」の意。

私の理解では、「空」というのは仏陀の思想の一部ではありましたが
当時はそんなにフォーカスされていなかったんですよね。
やがて仏陀の弟子が増え、宗教(仏教)に拡大していくのですが
仏陀の死後、100年も経つと、いろんな派閥が出てくるんですよね。
中には仏陀が否定した(と言われる)過度な神秘主義や
積極的に言及されなかった形而上のこと(神様みたいなこと)など
仏教以外の教義をミクスチャーしてしまう団体も出てきて
まあ、仏教がぐちゃぐちゃになるんです。
(理由はいろいろあったのでしょうが
私が思うに、仏教って実は非常に難しいので
現代の新興宗教のように神秘主義に走ったり
神的な話を取り込んだ方が分かりやすくて
信者が増えやすいんですね。)

で、仏陀の死後、700年ぐらいして、ナーガールジュナ(龍樹)という人が
仏陀が持っていた「空」の考えにフォーカスし、解釈を深め体系化するんですよ。

ああ、前説のつもりの歴史の話が長くなりました。

空って、あえて雑に言うと、神秘とか神話みたいなものの否定なんですよ。
神秘とか神話とか、そういうもんに頼るからイケナイんじゃ!という訳です。
現代人に例えると、生きる「意味」とか、自分の「価値」とか
そういったものを見出せなくて苦しんでいる人が一杯いるでしょう?
つまり「意味」とか「価値」があって、それが「大事」って思っちゃうから苦しいわけ。
空ってのは、そんなものは人間の勝手な思い込み(フィクション)であって
実体はないんぞ!という考え方です。
本当は大分違っていて、このような説明は非常に誤解を生む気もしますが
この場は話を分かりやすくするために許して下さい。
(興味を持ったら、是非、ご自身でお調べ下さい。)

「色即是空」とは、色(カタチ、目に見えるもの)は本質ではない
全てのものは実体ではない、というような意味です。
またまた誤解を恐れずにあえて雑に言えば
今見たり聞いたり考えたりしたことは
先入観や思い込みから出来たもので実体ではない、ということです。
う~ん、何だか「記号論」に近いものがあるね。
だから、そういう先入観や思い込みを捨てることが出来て
つまり、何ものにもとらわれない「空」の境地に至ることで
はじめて実態が見えるんだよ、と
それが「空即是色」という意味です。
色即是空は仏陀の考えではありますが、そんなに重要なものではありませんでした。
ここにナーガールジュナが「空即是色」という部分を足すことで
空思想が完成し、大事な教えになっていくのです。

で、やっと結論に至るのですが
> 「空」って、どういう「感覚」ですか?
それが分かった人=悟りの境地に達した人、なんですよ。
仏教は「空」に至るための方法論の教えであって
空になると「どういう感じになるか?」なんてことは説いてません。
ですから「空ってどういう感覚?」が知りたければ
縁起の法を実践して、ご自身でその境地に至ってみて下さい。
それこそが誠の仏教の実践です。
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『空海スピリチュアル』より


http://www.mikkyo21f.gr.jp/
「般若心経のほんとの意味」(宮坂宥洪)
http://www.mikkyo21f.gr.jp/hannya_honto/concept_ …

こちらを参照されてはどうですか。もっとも、当該HPにもあるように、「空観」は机上の理論で知るものではなく、実践によって会得するものですが。
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