dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

日本ではお釈迦様が悟ったとか言いますよねえ

でも外国ではそれは通用しないかもしれません

それともゴータマは悟ったのか?

宗教家の教祖などは「悟った」と言われる人が多いですが

案外そうでもない人も多いですねえ。

哲学者はどんなにその時代に批判に堪えて完璧な様な哲学を唱えても

必ず批判し否定する人も出てきます。

しかしそれでは我々は誰を信じればいいのでしょうか?

この人は信じられる という人間が過去から今までいたでしょうか?

いるなら誰でしょうか。ぜひそういう人の勉強もしたいものです。

心当たりはありませんか?

A 回答 (12件中1~10件)

「この人は信じられる、この人の言うことを信じれば絶対大丈夫」



なんていうのは
詐欺だと思うなあ…

キリスト教でもイスラム教でも
「神さまを信じれば絶対大丈夫!」
なんていうのは、おかしい
そんな都合よいものじゃないですもん、信仰って
それだと「これを飲んだら痩せます!」ってサプリみたいなもの
サプリだけで痩せるわけない
運動や食事や生活習慣を変えなければ
痩せないでしょ

それと同じで
「この人について勉強したらそれで大丈夫」とか「この教えさえあれば大丈夫」
なんてないと思いますよ…
    • good
    • 0
この回答へのお礼

助かりました

成る程 この人が悟っているからその人の事だけ信じればいいなんて無い訳ですね。

そう言われるとそうですねえ。

よく分かります。

いろんな人の言ったことや考えを学ぶと同時に自分でもいろいろ考えて求道するものなのでしょうね

どうもありがとうございます。

お礼日時:2018/09/01 14:10

大変失礼な言い方になるかも知れませんが


宗教のイロハも分からず、仏教に対しも、無知無学で
釈迦を論じるのは軽率かと存じます

心当たりではなく
歴史が証明しています

仏教の広がりとともに 文化が開け
平和国家が実現してきました
インド、アソカ文明、戦争を放棄しました
アンコールワットの遺跡、ボドブロールの遺跡
中国の唐の文化、日本の飛鳥 天平の文化
日本でも死刑廃止され、17条憲法等の制定等、仏教中心でした
仏教は力による支配でなく、法による支配を目指しています

坊主の堕落により、現在に至ります

仏教における悟りとは
エセ教祖に騙されないようにしましょう

諸仏の悟りの実態は
釈迦は法華経
天台は理の一念三千
伝教は迹門の戒壇

ソクラテスは「汝自身を知れ」と言った
その「汝自身」を解き明かしたのが仏教

仏教の生命論は深く    
生命活動を 立体的 流動的にとらえた十界互具論
生命の機能 本体 可能性 を説いた十如是論
個性化の原理を説いた  五陰世間
深層を解明した 九識論  があります

 十界論
十界論は生命観と言う生命の我の主体的な実感を柱として成立しています
この点のみを見れば 主観的カテゴリーと考えられます
しかし その生命観と言う主観的なものをとらえた基準は客観的なものです
このように 主観と客観の上に展開されたものであるがゆえに
十界論は いかなる人といえでも その見事さに
心の底から納得せざるを得ない 生命哲理なのです
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとう

これはそうですね 仏教を語るには残学過ぎました。失礼しました。

お礼日時:2018/09/29 21:47

悟るのが目的の人生では無い・・

    • good
    • 1

未来人に対してデカルトがやや寛容。

時間があれば対話したい物です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

Thank you

多くの人がデカルトを口にしますねえ。デカルトの言う「我」というものは何なんでしょうねえ

私の事でしょうか?あなたの事でしょうか?

お礼日時:2018/09/01 18:45

大乗仏教が一番深いと思います。



キリスト教も人類に価値をもたらしていると思います。

科学は単に現象面を追っているに過ぎないと思います。だから、哲学的なことは
何もわからないわけです。

仏教ならば、誰というよりも広く学ぶのがいいと思います。違いが分かるように
なったら大したものだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Thank you

ニャンポコリン先生は何でもお見通しのようですねえ^^

仏教の勉強が必要ですねえ。

仏教は平和主義が多いように思います。

何もわからなくても念仏を唱えれば救われる。と言うのも考えてみると凄いですねえ

分かったらもっと凄いじゃないですか^^

お礼日時:2018/08/31 19:49

そうですか、幾らかは読まれていたのですね。

失礼いたしました^^;
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

いや 僕は仏教よりもキリスト教に興味がありました

読んだといっても 例えば ブッダが弟子に ヴィマラキールティの病気見舞いに行ってくれないか

と言ったら どの弟子もこの弟子も「あの人は病気を理由に見舞い客に質問をして議論する

私たちは彼の様な賢い人には敵いません」と言って尽く断るとことか

如何にも人間らしい仏教です。生身の人間が仏教を悟ろうとするのだからブッダに聞いただけじゃ

駄目だということでしょう。

お礼日時:2018/08/31 18:52

日本ではお釈迦様が悟ったとか言いますよねえ


でも外国ではそれは通用しないかもしれません
 ↑
どうして外国の認可が必要なのですか。
自分が納得すればそれで良いのでは?



それでは我々は誰を信じればいいのでしょうか?
  ↑
自分を信じたらどうでしょう。
色々な人の考え方を勉強し、信じられる自分を
構築したらどうでしょう。



この人は信じられる という人間が過去から今までいたでしょうか?
いるなら誰でしょうか。ぜひそういう人の勉強もしたいものです。
心当たりはありませんか?
  ↑
ありません。
なぜなら、そんなモノに回答など無いからです。

宗教とか哲学なんてのはただの思想です。
真理の発見とは別物です。
真理の発見なら、宗教や哲学は、自然科学に
劣ります。

だから、宗教や哲学に真理など見いだすのは
無駄です。
真理が欲しいなら、科学を勉強すべきです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

哲学には人生訓を見出せばいいのでしょうか。

これだけ長い間いろんな人が考えたのだから真理を見抜いた人も居るのではないでしょうか?

科学は観察 推測 仮設 実験 法則で考えられることを考えます

人間の人生や生き方の摂理や真実をそういう科学には見いだせません

科学で見いだせるのは人間の目的や価値ではなく 爆弾や人工衛生のつくり方です。

お礼日時:2018/08/31 17:12

愚かな人は幾千幾万と転生しても仏の名を聞こうとしないと、経典には書いてありますが、このようにずばり、「覚った人は誰か?」と尋ねるのは希少な質問だと言わざるを得ない。

しかしながら、真贋を見極めるのは自分自身ですから、自分の真贋を見極める目を信じられるかどうかが重要になってきます。経典も同じで、偽経と経典を見極めることができるのは結局、自分自身だけです。誰誰がこの経典は本物ですよ、と言ってくれたとしても、自分で読んでみて、本物かどうかは分かる。誰かが言ったからそれが本物であるとはならないのです。その点に気をつけて、一人、ブッダを紹介しましょう。ここで、お釈迦さんは覚っていると言っても、haru27さんのことだから仏典は読んだことも無いでしょう。仏典を読んだことも無く、伝えられたお釈迦さんの言葉を聞かずに、お釈迦さんが覚っているかどうかは判断ができないでしょう。日本で覚ったと言われているとか、外国では通用しないとか、そんな心配は全くする必要がありません。何故なら、その伝えられた言葉を聞いて、その言葉を発した存在がブッダなのかどうかは自分で判ずることだからです。
さて、先ほどご紹介すると言ったその方のお名前はSRKWブッダと言います。
知っている方は知っておられる現代に生きるブッダです。私はブッダにこだわっているわけではありませんが、私はこの人は覚っているだろうとしています。この方自身でHPも作られておるので、ネットで検索して、訪れてみるとよいでしょう。この方の記した理法や感興句の他に、様々な経典を引用した解説や、そもそも覚りの境地とは何なのかについて簡潔に書かれていますので、簡潔なものが好きなharu27さんには合っているかもしれません。ただし、全部のヴォリュームは結構ありますので、理法や感興句を読む場合は、気になったタイトルから読んだり、番号の若い順から読んだりするとよいでしょう。
また、BBSやメールで質問も受け付けてくださっているので、読んでみて、気になることがあれば質問してみるのもよいかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

この人は悟っていると言うのは山崎上人のことですかね それとも汽笛さんの事でしょうか?

その汽笛さんが山崎上人は悟ってるというのですから 凄いのでしょうねえ その山崎上人さんは。

確かに経典はあまり読んでいません。本でブッダがこう言い弟子がこう言ったというものを読みました

それと般若心経と法華経をいくらかですねえ。

キサラギXさんがそう言うのだから、そうなのだろうと思うだけです。

ブッダが悟ったのでしょうか。日本人はそう思う人も多いでしょうね。成る程。

お礼日時:2018/08/31 17:03

それならば、私のブログを見ていただくのが、良いかもしれません。



明治から大正にかけて活動された日本のお坊さん、山崎弁栄(べんねい)上人は私の心の底から帰依しているお方ですが、それは釈尊のたどり着いた境地に自ずから達したお方だと信じられるからです。

私は、このお方の文章を多くの方に接して欲しいとの思いで、ブログという手段を使って、その文章の丸写しをしていますが、ここ哲学カテで回答や質問をしているのも、私の回答に関心を持ってもらって、プロフィールからこのブログを見て欲しいからです。

今は、なかなか更新が出来ていなくて、自戒していますが。

haruさんなら、このお方の文章に人間的な「私心」のない事や、「仏心(ほとけごころ)」を感じられるのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Thank you

成る程時間はあまりないですが読んでみたいですねえ

プロフィールからブログを見るわけですね

ありがとうございます。 山崎弁栄上人ですね。

お礼日時:2018/08/30 21:10

「武士道とは、死ぬことと見つけたり。

」とは、葉隠の山本常朝の言葉。

それは、武士としての「武士道」に対する悟りだったのかも知れません。

しかし、それが武士道の「唯一無二の悟り」だったとも思えません。
それは、山本常朝の悟りだったと、思います。

歴史上の偉人が悟ったとして、その悟りが「普遍的な悟り」と考える方が
無理がありませんか?

「それでは我々は誰を信じればいいのでしょうか?」の答えは、
「御自分を信じること」に尽きるように思います。

生まれてこの方、私と全く同じ価値観を持った人には会ったことがありません。
当然です。
むしろ異なるほうが自然でしょう。

何故、「悟り」だけに「普遍性」を求めるのでしょうか?
何故、「誰を信じればいい?」と悩むのでしょうか?

誰も信じなくとも良いと思います。
自分を信じればいい。

色々な偉人の考えに触れることは必要でしょうが、結局、その考えを
「消化」して、自分のものにしなければ、意味がありません。

他人を頼る必要はありません。
自分を信じて、「自分の悟り」を生み出せば事は足ります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

そう言われればその通りですね。ただ私は勉強不足で現代哲学もあまり知りませんし

悟りを開いたという人もそうは知りません。

自分が理解するためにも少なくとも「この人は」という人を勉強したいのです

もうそう若くないので研究とまでは行きませんが、勉強してみたいのです。

お礼日時:2018/08/30 18:53

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!