
一応下記の質問に関係する気がするので「その3」にしますが、内容は違います。
【「で、起こっている」と「に、起こっている」の違いを教えてください!】 その2
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10460354.html
↑の質問の際は、一部のホニャララコメントを除いて適切なコメントをいただき、ありがとうございました。
↑のデとニは、「動作・作用の行われる時・場所」の話でした。
今回は「動作・作用の行われる時」を表わすデとニの話です。辞書の記述は末尾に。
一方しか使えない場合もありますが、両方使える場合もあります。
「5月いっぱい{デ/ニ}締め切ります」
の場合は同じように使えるでしょう。「期限」を表わしますかね。
「食事の後{デ/ニ}薬をのむ」
の場合はどうでしょうか。同じように使えますか。
同じように使えるとしたら、ニュアンスに違いはありますか?
さらにわからないことがあります。先行質問などのデは格助詞でいいと思います。
「食事の後デ薬をのむ」
の場合は、格助詞ではないという考え方もあるそうです。
ネット検索したところ、「格助詞」説のほかに「助動詞」説、「後で」の形で副詞説があります。
どう考えるのがよいのでしょうか。
https://kotobank.jp/word/%E3%81%A7-573220#E5.A4. …
===========引用開始
大辞林 第三版の解説
で
( 助動 )
断定の助動詞「だ」の連用形。連用中止法に用い、また、「ある」「ない」「あります」「ございます」などに続けて用いる。 〔古語の断定の助動詞「なり」の連用形「に」に助詞「て」の付いた「にて」の転。中古末から中世へかけての成立〕 → だ(助動)
〔格助詞「に」に「て」の付いた「にて」の転。中古末から中世以降の語〕
一
( 格助 )
① 動作・作用の行われる場所を表す。
㋐ 「デパート-買い物をする」 「日本-初めての実験」
㋑ 「…でも、…でも」の形で、場所を列挙する。 「日本-も、アメリカ-も、青少年問題には悩んでいる」
② 動作・作用が行われる時を表す。
㋐ 動作が行われる時期を表す。「では」「でも」の形をとることが多い。 「現在-は、簡単に解決する問題だ」
㋑ 動作・作用の期限・限度を表す。 「新幹線は一時間-二百キロも走る」 「一〇分間-答えてください」
③ 動作・作用を行う時の事情・状況を表す。 「はらぺこ-帰ってくる」 「挨拶のつもり-声をかけたのだ」
④ 手段・方法、または道具・材料を表す。 「ペン-書く」 「汽車-行く」 「木と紙-できている日本の家」
⑤ 原因・理由・動機を表す。 「火事-一文なしになる」 「撃たれた傷-死ぬ」 「老師の一言-さとる」
⑥ 動作・状態の主体を表す。 「委員会-作成した原案」 「そっち-ほれても、こっち-いやだ」
二
( 接助 )
〔一⑤ の用法から転じたもの〕 原因・理由を表す。近世での用法。 「嬶達が先へ来て七十の賀を祝うてくれた-、今日の祝ひはさらりと仕舞うた/浄瑠璃・菅原」 「馬鹿にされる-面白いのだが、馬鹿にされると気がついちやあもうおしまひだ/滑稽本・浮世床 初」 〔 (1) 格助詞「で」は、近世以前でも、意味・用法は、現代語とほとんど変わらない。 (2) 接続助詞「で」が用いられるのは近世江戸語までで、現代語では、これに代わって、「ので」が用いられる〕
===========引用終了
A 回答 (18件中1~10件)
- 最新から表示
- 回答順に表示
No.18
- 回答日時:
NO.13で『日本国語大辞典』に触れられていますが、この第二版の「ので」の解説は次のようになっています。
のーで《接助》(格助詞「の[一]①)」に断定の助動詞「だ」の連用形の付いてできたもの。→補注(1))活用語の連体形を受けて、順接条件としての原因・理由を示す→補注(2)。
何と、「の」を準体助詞でもなく、形式名詞でもなく、格助詞としています。もっとも、「の」の項で準体助詞説を批判し名詞としており、この限りでは正解ですが、「ので」の「の」を格助詞とするのにはビックリです。補注(1)では、<語源については「の」に格助詞の「で」が付いたものとする説もある」としています。
結局、日本語の膠着語としての特殊性を理解できず、「ので」を形式的に接続助詞として一語としてしまい、この形式から「の」と「で」の品詞を一義的に決めなければならない自暴自棄に陥っています。現在の国語辞典の限界と欠陥が良く示されています。■
No.17
- 回答日時:
「5月いっぱい{デ/ニ}締め切ります」のデとニの違いに関して」
これはNO.7の後半で回答した通り、手段と時間的位置付けの相違で、元々異なる意義を持つものなので、「一方しか使えない場合もありますが、両方使える場合もあります」などと問うこと自体が無意味ということです。単なる、形式的比較に過ぎません。■
No.16
- 回答日時:
辞書の限界について記しておきましょう。
NO.12で「ので」について触れましたがこれをもう少し分かり易く説明します。
雨が上がったので、キャンプに行こう。
この、「ので」の「で」は助動詞「だ」の連用形「で」です。
これに対し、「それじゃ、私の車で行こう」と言う時の「車で」のでは格助詞の「で」です。この意味で、「誰の車で行こうか」と議論している時に、
それじゃ、私ので行こう。
と言った時の、「ので」の「で」は格助詞です。先の永野賢の論証は、この二種類を同一視し、「雨が上がったので」の「で」を格助詞としてしまったものです。そして、この永野論文に<「カラ」と「ノダ」との違いを見事に指摘された>と賛辞を寄せたゲシュタルト心理学という形式論理に基づく文法論を解く三上章の発想を継承する【大辞林 第三版】の、
ので ( 接助 )
〔準体助詞「の」に格助詞「で」が付いてできたもの。一説に、「で」は断定の助動詞「だ」の連用形の「で」からとも。近世末期以降の語。話し言葉でのくだけた言い方では「んで」の形でも用いられる〕
という解説は、この相違を説明できずに「一説に~」とお茶を濁している現状です。<「で」が断定の助動詞連用形か、「格助詞」かの判断は難しい>というのも、この相違が理解できないことを告白しているに過ぎません。
このように見てくれば、「それで」の「で」にも、格助詞の場合と助動詞の場合があることが判明し、<「圧倒的に優勢」や「マレ」>などとという評言が的外れであることがご理解いただけるのではないでしょうか。■
当方はNo.9への「お礼」で下記のように書きました。
===========引用開始
たしかに「食事の後デ」のデが「断定の助動詞連用形」になる場合はあると思います。でもそれはきわめてマレでしょう。
===========引用終了
それに対し下記は何を意味しているのでしょう。
===========引用開始
このように見てくれば、「それで」の「で」にも、格助詞の場合と助動詞の場合があることが判明し、<「圧倒的に優勢」や「マレ」>などとという評言が的外れである
===========引用終了
「的外れ」か否か以前に何がなんだか……。
「辞書の限界」以前に考えるべきことがあるのでは。
No.15
- 回答日時:
「圧倒的に優勢」や「マレ」というのは、文が実体として存在し、そのなかの「で」が格助詞や助動詞であったりなかったりという言語実体観に基づく判断ではないかと考えられます。
文は話者なしには存在せず。それぞれの文は話者の認識に対応し個別に存在しています。したがって、ある文の「で」は話者がどちらの意義で用いたかで品詞が決まります。それを、文脈から切り離し、形式をもとに、どちらかを判断しようとするところに、「圧倒的に優勢」や「マレ」という判断が生まれるものです。
『大辞林』は、この言語実体観に基づく松村明により著述、編集されており、全面的には信頼しがたいものです。松村明は時枝誠記に直接指導を受けた最後の世代ですが、言語過程説の意義を理解発展させることができていません。
<「ある」「ない」「あります」「ございます」などに続けて用いる。>と記しながら、この「ある」が判断の助動詞であることが理解できず、補助動詞とする解説をしています。時枝は『国語学原論』で、この「ある」を辞である助動詞と指摘しています。
No.13の回答に引用されている通り、「な」を「だ」の連体形としていますが、これは「にあり」→「なり」の連体形「なる」から「な」に転成したもので、「だ」ではなく判断辞「なり」の系列と見なされます。形容動詞の語尾とされる「な」がこれに当たります。
話者は無意識のうちに格助詞と助動詞を使い分けており、この無意識を論理化するところに文法学が建設されなければならない旨を時枝が述べています。
こうした、言語本質観の相違が文法論に反映しており、この点の克服が必須と考えております。■
No.14
- 回答日時:
>コメントをお読みになって
コメントを素晴らしいとは思いません。
読書百篇意おのずと通じる・・・助詞の働きなんか知らなくても、十分意は理解できます。
そのうえで助詞の中でも、格助詞をさらに主格、目的格・・までも分類している、その素晴らしさ・・です。
文章のほんの一部だけ抜きだして・・・・はナンセンス。
木を見て森を見ず、のようなものです。
No.13
- 回答日時:
>全部格助詞でいい気がしています。
「断定の助動詞連用形」と主張する人がいるなら、「そうかもしれません」と言います。逆らう気はありません。「で」が断定の助動詞連用形か、「格助詞」かの判断は難しい、という意味のことを書いていたのは[日本国語大辞典]だったのですが、それがどこに書かれていたのか、調べてみたけど分かりません。大体において、日本語のややこしい問題にはこの「だ」が絡んできます。
中世以後の活用語における大変化によって、現代語の活用する語の「終止形」と「連体形」がほぼ同形になってしまいました。日本語文法では、終止形を「辞書形」と呼びます。ところが「連体形」も同じ「辞書形」を用いています。(ほぼ同形ですから)ところで、ほぼと言ったのは例外があり、それが「だ」の形を含むもの、すなわち、「形容動詞」「断定の助動詞」「ようだ」「そうだ」のような助動詞だけが、共通して終止形・連体形に区別があります。
だろ だっ・で・(に) だ な なら 〇
「だ」と「な」の区別です。(断定の助動詞には、連用形の「に」はありません。)
ところで、引用された「大辞林」の説明がほとんど意を尽くしているのでは、ありませんか。他の不必要な部分を除いて引用し直します。
で
( 助動 )
断定の助動詞「だ」の連用形。連用中止法に用い、また、「ある」「ない」「あります」「ございます」などに続けて用いる。 〔古語の断定の助動詞「なり」の連用形「に」に助詞「て」の付いた「にて」の転。中古末から中世へかけての成立〕 → だ(助動)
( 格助 )
〔格助詞「に」に「て」の付いた「にて」の転。中古末から中世以降の語〕
② 動作・作用が行われる時を表す。
㋐ 動作が行われる時期を表す。「では」「でも」の形をとることが多い。 「現在-は、簡単に解決する問題だ」
㋑ 動作・作用の期限・限度を表す。 「新幹線は一時間-二百キロも走る」 「一〇分間-答えてください」 《例の追加》 「3月1日で締め切る」
上記のまとめ方からいえば、「格助詞」の方が、圧倒的に優勢かと思います。
>それがどこに書かれていたのか、調べてみたけど分かりません
おーい。
まぁ、〈「後で」の「で」は断定の助動詞連用形。あるいは、格助詞「で」〉という問題に関しては、だいたいわかった気がします。
「食事の後デ薬をのむ」のデは格助詞と考えることにします。
「断定の助動詞連用形」と主張するかたもいますが、そう解釈できる具体例がなさそうですから、話になりません。
見分け方は難しくない気がします。
「ニ」に置きかえることができれば格助詞では。
↓の1)〜4)はニにできます。妙な読点が邪魔ですが、さほど問題はないでしょう。
一方、「A薬を飲むのは食事の後デ、B薬を飲むのは就寝前だ」の場合はニにできません。「断定の助動詞連用形」でしょう。
当方の元々の質問の後半に関しては、これでいい気がします。
「5月いっぱい{デ/ニ}締め切ります」のデとニの違いに関しては……雑音があまりにうるさいので、再度質問したほうがいいですかね。
No.12
- 回答日時:
《たしかに「食事の後デ」のデが「断定の助動詞連用形」になる場合はあると思います。
でもそれはきわめてマレでしょう。》マレか否かの問題ではなく、その相違の根拠をどう捉えるかです。同じ形式が異なる意義、意味をもつというのであれば、その根拠、論理を明らかにする必要があります。
先に少し触れましたが、接続助詞とされる「ので」は次のように解釈されています。
ので ( 接助 )
〔準体助詞「の」に格助詞「で」が付いてできたもの。一説に、「で」は断定の助動詞「だ」の連用形の「で」からとも。近世末期以降の語。話し言葉でのくだけた言い方では「んで」の形でも用いられる〕【大辞林 第三版の解説】
ここでは、<準体助詞「の」に格助詞「で」が付いてできたもの。>とし、助動詞説を一説とし否定的に捉えています。「準体助詞」という区分自体、体言なのか、助詞なのか曖昧な奇妙な命名です。この点を論じると長くなるので省略しますが、この格助詞説は永野賢の論文『「ので」と「から」とはどうちがうか』(『国語と国文学』昭和二七年二月号)によるものです。そして、これに三上章が<「カラ」と「ノダ」との違いを見事に指摘された>と賛辞を寄せ定説化したものです。これを真に受け、北原保雄も「ので」を一語とし、これに対する接続で助詞を分類したり、仁田義雄や益岡隆志のモダリティー論もこの流れにあり、他にも「ので」について多くの論が展開されています。
この永野の論文の結論が、
「から」は前件を後件の原因・結果・理由として主観的に措定して結びつける言い方、
「ので」は、前件と後件とが原因・結果・理由・帰結の関係にあることが、表現者の主観を越えて存在する場合、その事態における因果関係をありのままに、主観を交じえずに描写する言い方、
である。
という決め付で、現在の定説になっています。この論の誤りを三浦つとむが『日本語の文法』で論じ、次のように結んでいます。
「この永野の論文は、出発点からしてはなはだお粗末である。けれども、こんな論文を「見事に指摘」していると評価する学者の頭のほうも、やはりお粗末だといわなければなるまい。」
ということで、格助詞「で」と判断辞「だ」の連用形「で」の区分を安易に取り扱うことができないことをご理解いただけるのではと思います。■
No.11
- 回答日時:
>No.7の「お礼」にまとまて1)〜4)のうち、どれが格助詞ではないのでしょう
個人的にはその必要がありません、格助詞であろうとなかろうと理解に苦しむことはありません。
文法に詳しい人なら区別はつくでしょう、それを見て、改めて文法を体系づけた人のなんと素晴らしい・・・を感じることはあります。
>個人的にはその必要がありません、格助詞であろうとなかろうと理解に苦しむことはありません
それはひとつの考え方でしょう。
で、No.10のコメントをお読みになって「なんと素晴らしい」と思えましたか?
No.10
- 回答日時:
格助詞「で」と判断辞「だ」の連用形「で」の区分について
最初に判断辞「だ」の連用形「で」がどのように使用されるのかを見てみましょう。
まず、「大辞林 第三版の解説」です。
で ( 助動 )
断定の助動詞「だ」の連用形。連用中止法に用い、また、「ある」「ない」「あります」「ございます」などに続けて用いる。。
この「助動詞「だ」の連用中止法というのは、
これは日本酒【で】、その横にあるのはワインです。
今日は晴れ【で】、明日は雨になりそうです。
のような、飲み会の中締めのようなもので形の上では一旦終了しますが、まだ後へ続いていきます。終止形の「だ」のように「今日は晴れだ」と断定はしますが、連用形なのでことがらが完全に終わっておらず、次に続いていきます。「今日は晴れ」と事柄を一旦展開し、ここで完全に終わらす一旦中締めをし次の事柄を「明日は雨になりそうです。」と展開しています。この場合、後に句点「、」を用いポーズ、中止を表現します。この、句点は必ずしも表現されるわけではありません。
この「で」が格助詞でないのは、手段・理由・原因を表すのではないことからも明らかです。この文中の、「手段・理由・原因を表すの【で】はない」の「で」も「だ」の連用形です。これは、先の大辞林の解説にある、<「ある」「ない」「あります」「ございます」などに続けて用いる>場合です。
このように、格助詞「で」と判断辞「だ」の連用形「で」は形は同じですが意義が異なり区別されなければなりません。
格助詞「で」は、
汽車で行き、電車で帰る。 ビールは麦で作る。
病気で休んだ。 大雪でひどく困った。
校庭でテニスをしよう。
のように使用し、ポーズは入らず句点を使用することはありません。これらは、手段・理由・原因の意義で使用されています。
このような相違を理解したうえで、回答に挙げた例文を見てみましょう。
1)この薬は食後服用なので、食事の後デ薬をのみます。
この文では「ので」と「後デ」と二つの「で」が使用されています。最初の「ので」の「で」は判断辞の「で」で、句点が続いています。次の「後デ」の「デ」は薬を後に飲む理由の認識を表し格助詞を使用しています。
2)お腹の調子が良くないので食事の後デ、薬をのみます。
ここでも、二つの「で」が使用されており、「良くないので」の「ので」の「で」は句点はありませんが「お腹の調子が良くないの」と事態を動かぬものとして話し手が確認した形式(抽象)名詞「の」を使って、これを肯定し強調する話し手の判断辞「で」です。その判断に続け、食事の後に、通常とは異なり「薬を飲む」という決断を表明するため、「食事の後デ」と一旦中止したものなので、やはり判断辞の「で」になります。この点を強調するため句点を入れました。
3)食事の後デ、薬をのむのは止めましょう。
この文も、ポーズを明確にするため句点を入れ判断辞であることを明示したものです。
「食事の後デ薬を飲むのは、止めましょう。」とすれば、手段・理由の認識の表現となり格助詞ということになります。
4)食事の後で薬を飲むのは、漢方薬ではありません。
この文は、NO.9の回答で「二つの「は」はどのように使われているのか、分からない」と指摘されているように、あまり適切ではありませんでした。「食事の後で飲んでいる薬は、漢方薬ではありません。」または、「食事の後に飲んでいる薬は、漢方薬ではありません。」とすべきでした。
「食事の後で飲んでいる薬は、漢方薬ではありません。」の「後で」の「で」は格助詞で、「漢方薬では」の「で」は判断辞になります。
「食事の後に飲んでいる薬は、漢方薬ではありません。」では、「後に」と時間的な位置付けの「に」が使用され、「漢方薬では」の「で」は判断辞になります。
このように、「食事の後デ薬をのむ」」という文の形式だけからは、「デ」は格助詞の場合も判断辞の場合もありうるということです。それは、話者の対象の捉え方で決まるものであり、表現された、文、文脈から判断されます。
「No.8」の回答で、「言葉による文章が理解できて、初めて文法が理解できます。」と言われているのは、文法というより、意味と言うべきところです。表現された、形式を文法規範に則り、聞き手が追体験することにより意味が理解されます。日本語の文法を理解していない人には日本語の文、文章は単なる絵でしかありません。
文は話者なしには存在しえません。書かれた文は形と内容の統一として存在しており、感性的な形は言語表現ではありません。書道は、この言語表現と非言語表現である感性的な形の表現の統一して存在しています。
質問者が例文を記した時は、想像により記したのか、あるいは単なる前に記された形だけを写したのかもしれません。この場合、看板屋が理解できないロシア語の文を描くのと同じで、その文の意味は文案を作った作者なり、コピーライターの認識を表しています。これが、文脈を無視してその一部だけを引用したものであれば、意味不明、あるいは多用な解釈が可能になります。
アプリオリに文が存在するという言語実体観は言語を正しく捉えたものとはいえません。■
No.9
- 回答日時:
わたしの考えです。
コメントNo.1から。
>1)この薬は食後服用なので、食事の後デ薬をのみます。
の場合は理由・原因の意識で使用されており格助詞です。
「後で」の「で」は断定の助動詞連用形。あるいは、格助詞「で」
>2)お腹の調子が良くないので食事の後デ、薬をのみます。
の場合は助動詞の連用形中止法または接続助動詞です。
上記と同じ。
コメントNo.7から。
>3)食事の後デ、薬をのむのは止めましょう。」
の場合は助動詞「「だ」の連用形「で」ですが、
1)、2)と同じ。
>4)食事の後で薬を飲むのは、漢方薬ではありません。」
の場合は格助詞「で」になります。
1)、2)、3) と同じ。
それに加えて「食事の後で薬を飲むのは、漢方薬ではありません。」という文の、二つの「は」はどのように使われているのか、分からないし、文の組み立てそのものもよく分かりません。一見すると「食事の後で薬を飲むのは」が主題で、「漢方薬ではありません」が説明に見えますが、
「食事の後で飲む薬は、漢方薬ではありません。」と言ってはいけないのでしょうか。(もっとも、その前に「食事の後で」を「食後(に)」と言ってはいけないのでしょうか)
1)〜4)はいずれも〈「後で」の「で」は断定の助動詞連用形。あるいは、格助詞「で」〉ですか。
まあ、4)に関してはほぼ破綻していて、その点はNo.7のコメント者も認めているようです。
当方は、全部格助詞でいい気がしています。「断定の助動詞連用形」と主張する人がいるなら、「そうかもしれません」と言います。逆らう気はありません。
たしかに「食事の後デ」のデが「断定の助動詞連用形」になる場合はあると思います。でもそれはきわめてマレでしょう。
「A薬を飲むのは食事の後デ、B薬を飲むのは就寝前だ」
なら「断定の助動詞連用形」と考えるのが妥当な気がします。しかし「食事の後デ薬をのむ」をどのような文脈の中に置けば「断定の助動詞連用形」になるのかはさっぱりわかりません。
あれだけ断言するので、明快な解説があると期待したのですが、No.10のコメントを読んでガッカリしました。
何が書いてあるのかわかりません。
「食事の後デ薬をのむ」のデが「断定の助動詞連用形」ととれる文脈も不明のままです。
OKATさんなら理解できますか?
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報
質問者が「迷惑」と言っているのに、見当違いのコメントを入れ続ける回答者って、何を考えているのだろう。
アチコチで同じようなことをやっている。