私は「瞑想」という言葉は勿論知っていましたが、「座禅」と内容的にはほぼ同義
であろう、くらいの認識で(wikiによれば別概念だそうです)あまり興味を持っていま
せんでした。
しかし、次に文章を読んで考え込んでしまいました。
『たとえば人と対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑
想に訪問されたのである。瞑想は常に不意の客である。
。。。
瞑想は過程がない。この点において、それは本質的に過程的な思索と異なっている。
。。。
瞑想はその甘さの故に人を誘惑する。真の宗教がミスティシズムに反対するのはかよ
うな誘惑のゆえであろう。瞑想は甘いものであるが、それに誘惑されるとき、瞑想は
もはや瞑想ではなくなり、夢想か空想になるであろう。(三木清 人生論ノート)』
さて、あなたは瞑想というものを、どのように理解していますか?
No.9ベストアンサー
- 回答日時:
瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。
また、瞑想をすると、悟りが開けるとはどう言うことなのでしょうか。目覚めている時、自由自在にはこの宇宙を体験することは出来ません。五感から入ってきた刺激に基づいて、外界を心の中に再現するからです。しかし、眠っている時、貴方は五感から解放され、自分の欲求・悩み・記憶等に導かれ内界を作り出します。これが夢です。
夢であっても、花びらの鮮明な色や、その1枚1枚の形を克明に見ることが出来ます。木々の葉っぱの1枚1枚が風に揺れている様を見ることが出来、その葉っぱの擦れ合う音を聴けます。風や太陽の光を感じます。夢の中に出て来た人の声を、はっきりと聴けます。起きている時と全く同じなので、起きているのかこれは夢なのか判断が付きません。
しかし、眠っている間は、記憶する機能も眠っているので、それだけ鮮明な夢であっても、憶えておくことは出来ません。漠然とした断片的な印象が残っているだけです。
瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。
瞑想により、貴方は本当はこの宇宙そのものであったことを悟ります。貴方の心がこの宇宙を作り出していることを理解します。海の彼方を探さなくても、輝くものは私の中にあったのです。 今まで私だと思っていた存在は、私の中の小さな一人に過ぎなかったのです。
ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。
それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。
そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。
悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。
そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。
すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。
その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。
その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。
すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。 そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。 私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。
この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。 会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。
瞑想状態に入ってしまうと、もう思考しても大丈夫です。瞑想から醒めることはありません。私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「あの世」です。
瞑想から醒めるには、その世界で大きく息をし伸びをして、頭を振って眼を覚まそうとします。 そうすると、現実の世界に戻ることが出来ます。
しかし、目の覚めたこの世界も、私の心が作り出しているのです。 実は、瞑想状態の世界と同じものです。一度、瞑想の世界を経験すると、現実の世界全体も、私の心が作り出したのであり、私自身であることを理解します。
今まで私だと思っていた一人は、「小さな私」であったことが分かります。感じている世界全体が、大きな私です。
生きとし生けるものは貴方自身です。ですから、それらに博愛を注ぐことが出来るのです。 他人も貴方自身です。ですから、汝の隣人を愛することが出来るのです。 敵も貴方の一部です。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
これが、悟りの内容です。 この世の全ては貴方の物です。ですから、幸福なのです。
詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/meisoutohananika.html
体験を基としたこのお話は、私にとって信じられる範疇のものであり、単なる幻覚とか
幻想として処理する気にはなれません。
では、こうした「瞑想状態」において体験する世界というものは一体何なのか?
今の私には次のように理解できます。
「唯識論」でいう№7、№8、あるいは№9の意識で捉えることのできる宇宙の姿なのでは
ないか?
そして、仏教の「依正不二」という原理を考えた時に、自分自身の「依報=環境」なので
はないか?
あなたの言う「大きな私」という言葉に合致する部分を感じます。
勿論、現段階では「ではなかろうか?」ということではあります。
更に、それは仏教でいう「悟り」と同じものであるのか?
また、こうした「瞑想」は本当に自分のためになることなのか?
疑問はたくさんあります。だから、自分で実験というか体験をしてみたいと考えています。
No.11
- 回答日時:
竹垣がブロック塀を建てるよりお金がかかることもあるかも知れませんね。
不審者がブロック塀を乗り越えるのと、竹垣を乗り越えるのとどちらが簡単であるか、
台風が来たときはブロック塀の場合と竹垣の場合でどのような注意が必要になるか、
竹垣が風雨で倒れそうなときは、学校は臨時の休みになるかどうか、
不審者が敷地内を除かないためには、すき間がないような気がしますが、ブロック塀をよじ登って侵入する不審者がいるかどうかを見張るには、監視カメラが必要です。敷地を囲うものが、ブロック塀であっても、竹垣であっても、監視カメラは必要に思います。
ブロック塀に穴を開けて、そこから侵入するより、竹垣に穴を開けて侵入するほうが、すこしだけ労力が少なくて済むでしょうか。
「一心不乱」とどうつながっているのか分かりませんが…
様々なケースを考えると大変難しくなるので、AIに判断させたらいいので
はないでしょうか?
現代社会って、結局、場当たり的でありきたりなもので済ませていることが
多いと思いますよ、何事も。
No.10
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
三木氏の文章の中で、「天与の性質」を持つとされているのが「瞑想」ですが、お礼の中に書かれている、「精神的あるいは頭脳的能力」として、「瞑想」を受け取る(もしくは、瞑想を天与の性質と捉える)能力も「天与の性質」と考える事は可能でしょう。
ただし、これを三木氏が考えるような「瞑想」として受け取る事が出来る人は限られているような感じがします。
「瞑想」を天与の性質を持つ物として、自らの思索により、思想の元と出来るのが、思想家でしょうが、なかなか、そこまで至れる人は少ないと言えます。(多くの思想家は、そのようなヴィジョンの源泉としての「瞑想」は得ていたのでしょう)
「瞑想」を天与の性質を持つ物として捉えれば、それは神秘的なもので終わってしまいます。
三木氏が書いている事は、「瞑想」に対して、向き合う姿勢でしょう。
それなりの思想家であれば、「瞑想」ときちんと向き合い、思想の糧と出来ると言う事です。
「瞑想」のみに意味を見出すのではなく、思索によって、それをきちんとした言語に変換する能力が思想家には必要であり、「瞑想」のみに「救済」を求めてはいけないと言う戒めです。
もちろん、思想家にならずに、「瞑想」に溺れる生き方も選べるのは確かです。
>これを三木氏が考えるような「瞑想」として受け取る事が出来る人は限られている
ような感じがします
瞑想なのか思索の結果がもたらしたものなのかを区別するには、相当の訓練が必要だ
ということは考えられると思います。
一般的には渾然一体となっているのだろうと思います。
>「瞑想」のみに「救済」を求めてはいけないと言う戒めです
そのニュアンスは強いと思います。
>思想家にならずに、「瞑想」に溺れる生き方も選べるのは確かです
人生において知らず知らずのうちに惰性や慢心に陥り、真摯な思索を忘れていったとき
に、思想家に限らず、瞑想に溺れていることが実はとても多いのではないかとも思いま
した。
No.7
- 回答日時:
テキサス州、ヒューストン在住です。
野性的で保守的な土地柄です。それでも、自動車で五分ぐらいのところに、テキサス的ではない、”瞑想センター”が三つほどあります。いつの間にできたのか、ご質問がなければ、ググることもなかったでしょう。これは、十年ほど前から、よく聞くようになった、”スピリチュアル”や”マインドフルネス”の流れをくむ現象でしょうが、仏教の流れをくむヨガとどう違うのか、謎です。いずれにせよ、教会その他、組織的な団体に加入することなく、心の安らぎを求める方法で、マニュアルがあります。以下、日本語のウィキハウです。英語の記事をそのまま翻訳してあります。
https://www.wikihow.jp/%E7%9E%91%E6%83%B3%E3%81% …
記事を読む前は、たぶん、お香を焚いて、リラックスできる音楽をかけ、椅子に座って目を閉じ、温かくて、居心地の良い場所を思い浮かべるのが、瞑想だと思っていましたが、これを読んで、準備の大変さに面食らいました。準備体操が必要みたいです。
方法論を見ても、革新の根城、カリフォルニアから来た、ムーブメントだと見当がつきます。
以下、抜粋です。
”ダライ・ラマの「A Profound Mind: Cultivating Wisdom in Everyday Life」やジェーン・ロバートソンの「The Nature of Personal Reality(個人的現実の本質)」、エックハルト・トールの「A New Earth(ニュー・アース ー意識が変わる 世界が変わる)」、ドナルド・アルトマンの「One-Minute Mindfulness」あたりから読んでみてはいかがでしょう。
スピリチュアルな本や聖典から、自分が共感できる格言をいくつか選んで、瞑想の際に頭の中に思い浮かべてみてもいいでしょう。”
と、言うことで、分野を超えて、役に立つものは、何でも受け入れて大丈夫。マントラも唱えるみたいですね。ということは、日本でいうと、真言宗か???
米国では、精神的に逼迫すると、カウンセリングを受け、処方薬を飲むのが、ひとつの方法で、教会でもカウンセリングが受けられます。瞑想は、内観することによって、楽観的な自分を見つけ、人間本来の治癒力に頼る、自然派の方法だと思われます。マントラ、というのが、気にかかります。ヨガから派生したんでしょうか。
以前、横浜鶴見の総持寺に友人を案内した際、禅僧の方が案内してくださり、座禅について、お話しくださったことがあります。彼らにとっては、掃除も、座禅も、勉強も、修行のうちで、毎日の生活の一部になっていて、特別なことではない、ただ、無念無想で行うだけ、というのが、印象に残っています。とっても、大人でした。
興味深い情報提供をありがとうございます。
「瞑想」といえば、このようにリラクゼーションを目的としたもの、というのが
一般的な理解であると思います。
西洋人にとっては東洋の仏教というものに言いしれぬ魅力を感じ、これを合理的
に解釈するとどのようになるのかという精神が感じられます。
アメリカ人にとっては仏教の禅だの真言だのという分類には興味がなく、精神を
集中させるにはどうしたらよいかという点に焦点を置いているようですね。大変
に好感が持てます、形式的でないというところがです。
この瞑想状態というのは一体何なのか?そしてその時に得られるものは何なのか?
一部の精神科医などから危険性を指摘されてもいるようですが、私としては大変に
興味があります。
理論を知ることもさることながら、実践による体験の方がより深く知ることができ
るのではないかと思います。
かといって、瞑想センターに通ってまでとは思っていませんが。
No.6
- 回答日時:
瞑想自体の解釈としては、「突然やってくる」と言うものだろうとは思っています。
ただし、それがミスティシズム(神秘主義)が考えるような有意義な体験とは解釈出来ないと思います。(有意義・無意味の判断自体が出来ないと言う意味です)
三木清氏の場合は、瞑想そのものを無意味とは考えていない(それのみに誘惑される場合は、夢想か空想になると論述しては、います)ので、その点は、三木清氏とは違いますね。
三木清氏の「瞑想について」と題する短い論文を読んで思ったことは、瞑想とは
物事に集中をして深く思索することではなく、全く別のことを言っているんだな
ということです。
『思索は下から昇ってゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるもので
ある。それは或る天与の性質を持っている。』
と述べているところから、どうも誰もが持つ「精神的あるいは頭脳的能力」のこ
とを言っているのではないかと思います。
つまり、何かが閃いて、そのあとに続く物語、その流れに心を開いている状態の
ことではないだろうかということです。
これを、私の経験に当てはめようとしてみると、確かに突然にやってくるものと
言えます。
私の場合も人と話しているときにもやってきますが、その場合は対話を優先して
黙り込むということはなく、おそらくそれは虐殺されているものと思います。
一人でいるとき、特に本を読んでいるときとか、音楽を映像付きで聞いていると
きなどに溢れるように流れてきます。
また、私は夢をよく見るのですが、夢というものの構造がこれと同一に思えます。
質問文での引用が適切でなかったようですが、彼はこうも言っています。
『瞑想を生かしうるものは思索の厳しさである。不意の訪問者である瞑想に対する
準備というものは思索の方法的訓練を具えていることである。』
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