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さくらももこさんの死を受けて

身近な人や著名人がなくなると、
この世界がなんなのか、自分がなんなのか、死とはなんなのか考え始めて、とてつもない恐怖に襲われます。
こんなに怖いなら、最初から生まれなければよかったとすら思ってしまいます。

そういったときは似たような悩み相談を読んで気持ちを落ち着かせるのですが、また同じことの繰り返しです。

現在20代後半ですが、いつになったら、どういう考え方を持てるようになったら、こういった恐怖に襲われなくなるのでしょうか。
子供ができれば何か変わりますか?

今の交際相手がキリスト教徒で、彼は天国に行けるので死ぬのは全く怖くないといいます。海外ではたくさんの人がキリスト教を信じていますし、彼にいろいろ教わっていっそキリシタンになってしまおうとしたのですが、もしこれが全て人間の想像だったら?と考えてしまい、結局怖くなります。
だからどの宗教に頼っても、抜け出せないのかなと思います。

そんなこと考えるだけ無駄という意見も一理あると思いますが、個人的にはこの恐怖から目を背ける方がもっと怖いので、自分の納得のいく解決策を見つけたいのです。
皆様の考え方をお聞きできれば有り難いです。
よろしくお願い致します。

※暗い文体ですが、精神を患っているわけではなく、大切な人たちと至って普通に生活しています。

質問者からの補足コメント

  • 回答ありがとうございます。
    そういう方がすごく羨ましいです。
    私はまだ納得する自分の哲学を持てずにいます。。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/27 22:15
  • みなさまご回答ありがとうございます。
    身近な人にはこんな話なかなかできないのでありがたいです。一つ一つ丁寧に読んで咀嚼しています。

    宗教に関してはキリスト教に限らずいろいろ勉強してみようと思いますが、過激な信仰にはまらないよう重々気をつけます。

      補足日時:2018/08/31 20:19

A 回答 (20件中1~10件)

そうですよね、うんうん



キリスト教徒は死後は天国に行く、ですけど
日本人は古来から

死んだらあの世に行く、あの世というのは
地域によって、海の向こうだったり山の向こうだったり、あるいは天上だったりしますが
そこで子孫を見守る

という感じの死生観を持ってます
私は「そうだといいなあ」と思ってます
仏教でも、一部の宗派だと
極楽浄土に行く、ということになってます

こういうのは、信じるか信じないかで
信じてない人にいくら言っても
信じられなければそれまでなんですよね…
でもいろんな話を聞いてみるのはいいかも

聞いた話なのですが
作家の遠藤周作が、生前
やはり作家の佐藤愛子と「死後の世界はあるかないか」と論争をしたんだそうです
遠藤周作は「ない」と言っていた

それでどちらかが死んで
死後の世界があるとなったら
必ず、生きてるほうに伝えようと
約束したんだそうです
それは二人だけの約束で
誰にも言わないことになってました

そして遠藤周作が亡くなってからしばらくして
見知らぬ青年が、佐藤愛子さんを訪ねてきた

「亡くなった遠藤周作さんが
『死後の世界はある』と
佐藤愛子さんに伝えてくれ、それだけ言ってくれればわかるから、と
おっしゃってるのですが
なにか心当たりはありますか?」

それが有名になる前の江原さんだったそうで

こういう話も、信じられなければそれまでなんですけど
いろいろ聞いてみるのもいいかなあと思います

が、これで変な宗教とか占い師とかに
ハマってしまうことにもなっちゃうかもなので
難しいとこですね…

もう一つ
心理学的なアプローチもあると思います

死ぬのは誰でも怖いですけど
そこまで怖いのは
なぜなのか?
ってところを突き詰めてみる方法

カウンセラーとかに相談するとか
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
面白いお話ですね。私も、そうだといいなと思います。
ですが死後の世界があったとしても、この世で生きていた私としての同じ意識が保たれるわけではないと想像しているので、じゃあ結局それは死であって、逆にどんな形で天国に存在するのだろうと考えると、それはそれで怖いのですが。
このあたりはおそらく人間の理解の範疇を超えますよね。

カウンセラーはどうしても怖さが抑えられなくなった時に試してみようと思います!

お礼日時:2018/09/01 06:38

質問に回答するということが初めてなので、失礼なことがあれば申し訳ありません。


また、かなりの長文すみません。

私もとても似た考えを持っているので、回答させていただこうと思いました。
現在20代後半でいらっしゃるとのこと、ずっと悩んでいらしたんでしょうか。
苦しかったですね。
私はアラフォーですが、小学低学年の頃からです。

他の回答者さんの中にも仰る方がいらっしゃいましたが、
死そのものよりも、自我の消失・心の消失が怖いのではないでしょうか。
魂の存在というか。
そしてそれが死んでみないとわからない。
私の場合は避けられない恐怖となって、特に寝る時になるとその考えが浮かび、
その考えから逃れたいために、毎回「助けて!助けて!大丈夫、大丈夫・・」と一人で発狂寸前でした。
でも、まわりに聞いても理解されず、迷惑をかけるので我慢していました。
周囲の大人に少し話したら、「精神病院に・・・」となりそうだったことや、
皆が同じように苦しんでいる中で生きているのだと思っていたので、そうではないことを知り
ショックを受けたからです。
当時の自分なりの対処方法としては、大音量で音楽を聴いてごまかすか、
その考えにとらわれないために大量の笑える漫画を準備し、眠ってしまうまで読んでいました。
死にたいと思う時が来るかもしれないからという、バカな考えで落ち着こうとしたこともあります。
死んでまで自我を持っていたいと思うのは「自分のエゴ」だと思うようにしていたこともあります。

質問者さんが同じように苦しんでないことを祈っています。

宗教についても色々考えたこともあります。
宗教を否定する気はありません。
でも、質問者さんが仰る通り不確かで、私は結局宗教には入れませんでした。
そして、私も精神疾患者ではなく仕事もあり、多くの人と関わりながら生活しています。

私には子供はいないので、出来たら・・というご質問にはお答え出来ませんが、
もしいたら少しは変わっていたのかもしれないと思うことはあります。
自分の子供に、自分の記憶や経験を少しでも託すことが出来ますから。
死の迎え方に対する考えが変わるかもしれません。
勿論そのために産むとかではないですよ。

目を背けることなく受け止めようとされていること、素晴らしいと思います。
ただ、真実は結局最期までわかりません。
私なりの解決はその事実を受け止めることでした。
考えるだけ無駄というのとは違います。考えた上で理解する努力をしました。
そして、死後の自我がどうなるかわからないなら、取り敢えず最期の時を
後悔や苦しみで迎えることがないように過ごそうと思うようにしました。
それでも、ふとした時にとらわれます。今では昔ほど発狂することはありませんが。
ただ、今ではその、人と違う考え方を否定せずに、考えることすらしないまま生活するよりは
自分には何が残せるか、役に立てるかを深く考えられるようになりました。
そちらの方が「今存在している」ことを尊く感じられます。

私の捉え違いで、何のヒントにもならなかったらごめんなさい。
ただ、生まれてこなかった方が・・とはもう思わないでくださいね。
貴方が存在することで、既にまわりに様々な影響を及ぼしています。
あなたの苦しみも絶対に無駄ではないんです。
質問者さんもご自分なりの「理解」を見つけられることを祈っています。

長文失礼しました。
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この回答へのお礼

お返事遅くなり申し訳ありません。
そして初めての回答をいただけて恐縮です。

回答者様の子供のころの経験は、まさに私のようだなと思いました。
死に対する恐怖は眠りにつく前の真っ暗な部屋にいるときにやってきて、心臓をバクバクさせながら必死で自分自身を落ち着かせようとします。
ピークはちょうど大学受験のときだったので、周りの大人に相談しても、受験のせいでストレスが溜まってしまったんだね、受験が終われば直るよと、かわいそうな目で見られました。

>>それでも、ふとした時にとらわれます。今では昔ほど発狂することはありませんが。
>>ただ、今ではその、人と違う考え方を否定せずに、考えることすらしないまま生活するよりは
>>自分には何が残せるか、役に立てるかを深く考えられるようになりました。
>>そちらの方が「今存在している」ことを尊く感じられます。
宗教なしではこの恐怖にたちむかうのは難しいのかなと思っていましたが、このように対処されている方もいるんだなと、大変参考になりました。


>>ただ、生まれてこなかった方が・・とはもう思わないでくださいね。
>>貴方が存在することで、既にまわりに様々な影響を及ぼしています。
>>あなたの苦しみも絶対に無駄ではないんです。

自分は、この世で怖い思いをするなら生まれてこなければよかったと思っていても、
誰かの人生に良い影響を与えていることもあるのですね。
そう考えると、自分がどう思うかは関係なく、生まれてきて誰かの役に立ててよかったのかも、、、と思えるようになりました。

暖かい回答を下さりありがとうございました。自分なりの理解が見つかるようにがんばってみます。
また機会があればよろしくお願いします。

お礼日時:2018/09/16 21:10

昔、まだ全人種に宗教という概念がなかった頃、科学もなく、哲学もなく、その時代はもっと怖かったんだろうね。



ご先祖様と神様に死して会う時、胸張って精一杯生きたよ❗って言えるのだろうか。
私は言える。それは大往生でなくても自然に死す時。

若い内は死の事など考えんでいいよ。精一杯生きた時、自分を産んだ人に、ご先祖様に感謝出来るか?だから。

宗教とは、本来、人々の精神的平和と平安の為に黄色人種の祖先が悩み抜いて作られたものです。
極めて道徳的な産物ですよ。

※西から来た人々が言うような商売だの、戦争だの、下らない私利私欲を満たす為の産物では決してありません‼️

私は元彼と神様のおかげで魂の眼が覚めました。

巡り会えた奇跡全てに感謝し日々修練してます。
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そう!


若さというのはあるかもなー

自己中心的、というよりは
むしろ、自分に自信がないとかそういうのはない?

うーん…たとえばさ
お金持ちが、お金を失うことは
もちろん怖いよね?
でも、そのお金持ちが、お金以外のもの…人望だったり、才能だったり、人気だったりがあれば
「お金」を失うということを
それほど怖がらないと思うんだ

「お金」を「美貌」とか「若さ」に置き換えてもいい
お金しかなかったら、そりゃお金がなくなるのは怖いだろう

だからむしろ、内在的には
自己肯定感が弱いのでは?
本当に自分自身を価値あるものだと思えない不安があるのでは?

これ仮説ね
もちろん、逆かもしれないです

AとかBの話で言うと
「Aとしての記憶や意識がなかったら
もうAではなくなる」
というのが質問者さんの恐怖
私は
「AでもBでも、結局、私は私なんだろうなあ」
という楽観

私は意識的には
自分のことを
ろくでもない人間だなあと思ってるはずなのに
実は自分に対して根拠ない自信があるのかもしれない

逆に質問者さんは、私より若くて素敵な人なのに、本当は、自分の価値について不安があるのかもしれない

ちょっと深すぎる話になってきましたね…

宗教の話というか
中村うさぎの本はどうですか?
聖書に興味があるのなら
佐藤優との対談
「聖書を語る」「聖書を読む」
を読んでみてください

中村うさぎは元々ラノベ作家で
買い物依存症からホストにハマり、借金して整形しまくって…という半生

マツコデラックスを世に出したひとでもあります

佐藤優は同志社大の神学部卒で元外務
官僚でプロテスタントのクリスチャン

中村うさぎが聖書にツッコミをいれ
佐藤優がさらりとかわす、という感じですが
面白いよ

ていうか!

その二冊の続編というべき本がある
「死を語る」
中村うさぎが、原因不明の難病になり
一時心肺停止になったの
それで「死」について二人で考察してるんです

中村うさぎの本は
「女であること、女として生きること」
を突き詰めて考えてる内容が多いです

図書館にあるかもー
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この回答へのお礼

こんばんは。

深い話ですね!
うーん、自分に自信がないのはあるかもしれません。
未来を考えた時に、自分なら(不慮の事故事件に巻き込まれない限り)きっと幸せに生きていける、という漠然とした自信はあるのですが、自分が社会の役に立っている実感はないので。だから、自分の価値に自信があるかどうかは謎ですね。
考え方の違いというのは面白いです。

おすすめしていただいた本、とても面白そうです、読んでみますね!中村うさぎさんという方は、なんとなく死なんて恐れていなさそうな印象ですが、性格の全く違う私でも何らかの新しい知見が得られるかもしれません。

お礼日時:2018/09/04 00:06

ちょっとめんどくさい話をします



「善行をしたら来世いい感じになる」
というのは
すごくザックリした話で

仏教では
因果とかいいます
原因があって結果がある、という
まあ当たり前のことなんですが

仮にAという人がいます
Aさんは、生まれた時からAさんなんですけど
生まれた時から変化してますよね
いろんな経験をして成長したりなんだりしています
AがA1、A2、A3…と
常に変化してるんです
そして死んで、今度はBになる
でもそれは
Aとしての経験を積んで、そののちのBなんです
ただのBではない

仏教では、何かあったら、それは必ずなんらかの影響を及ぼす、と考えます
死んで生まれ変わっても
それまでのことが無くなるわけでなくて
なんらかの影響なり結果なりが
次の人生でもある、ということ

そう考えると
死ぬことは「私」の消滅ではない
ことにならないですか?
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この回答へのお礼

こんばんは、補足ありがとうございます。理解しました。

ただ、BさんにはもちろんAさんとしての記憶や意識がないわけですから、いくら経験が生きていても、私がAさんなら自我が消えてしまうことがやっぱり怖いです(今のところ)。
同様に、ダージリン玄米さんは、もし命が死後大きなものの一部になるならばワクワクしてくるとのことですが、やっぱり私はどうにもワクワクしてこないのです。

どうして自分が自我の消失をそんなに怖く思うのか考えてみたのですが、一部には若さと性格でしょうか。自己中心的な部分が思い当たりますし、自分の未熟さは理解していてもおそらく内在的な自己肯定感が強く、その結果私という自意識を通してものごとをみれなくなることが怖いのかなと。もしそうなら、年をとるにつれて段々と変わっていくことを願います。

いずれにせよ、キリスト教と仏教は喧嘩してしまうので、もし宗教を頼りにするなら自分にとってどちらか信じやすいか選ばないといけませんよね。
仏教は人間がどこから来たのかを明確にしていないので(キリスト教やイスラム教では神が造ったとされています)、その点はもやっとする所はありますが。

実は今日別の質問をしたのですが、今は死ぬことより死に方へ恐怖がシフトしまして、死への恐怖は一旦マシになっています。
また死への恐怖が再燃した時も、ダージリン玄米さんや他の回答を振り返って、数日前の私より少しは落ち着ける気がします。

ここ最近ずっとそんなことばかり考えて、困ったものですね。 ^^;

お礼日時:2018/09/02 23:30

ちょっと考えてみたんですけど


もし、死後
「私」の意識とか魂とかそういうものが
何か、大きな魂の一部となって
「私」が「私」でなくなってしまうようなことになるとして…

私はそんなに、それ、悪いことでもないんじゃないかなあと思ってしまうんですけど…

私などは、非常に欠点のある人間ですし
私が見たり感じたりしてることが
そんなにすごいのか?って考えると
なんかそうでもないような気もするので
大きな存在の一部になったり
あるいは魂が変化したりしても
かえってそのほうがいいかもしれないぞ、くらいな
なんかこう、オラ、わくわくすっぞ、くらいの気持ちになってしまいますね…

でもそれは
「死後、魂は、今より良くなる」
と(勝手に)思ってるからで
悪くなることもあり得ますもんね
それはやだなあ…

あ、そうか

仏教では六道輪廻っていう考え方がありまして
死んだら六つの世界のどれかに生まれ変わるらしいんですよね
で、現世で善行を積むと
来世いい感じに生まれ変わるよ、ということになってるらしいんですよね

その説を採用するのはどうでしょうか?
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なるほど!


すごく興味深いのですが

つまり…

質問者さんの恐怖は
「死」そのものでなく
「私」の消失ということなのではないですか?
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この回答へのお礼

確かにそうです。
そして、死=個人の消失という説が有力なので、死が怖いんだと思います。
どうしたら克服できるのでしょうかね ^^;

お礼日時:2018/09/02 08:36

「この世で生きていた私としての同じ意識」が保たれない、ことが怖いわけですか?



「私としての同じ意識」
というのはどういうことなんだろう…

ほんとかどうか知らないけど
死ぬと嫉妬とか誰かを恨む気持ちが無くなるとか聞いたのですが
そういうのも「同じでない」ことになるのでしょうか?

そもそも「私の意識」って
結構、いろんなことで、変わると思うんですけどね
体調とか気圧とかで
低気圧の時に鬱になる人が多かったり
暑いとイライラしたり

先日、事故で頭を打ったひとに会ったんですけど
元々、よく喋る人だったけど
ちょっと異常なくらい、話すのが止まらなくて…声も大きい
頭を打ったからなんだろうなあ、って思ったのですが
そういうこともあります
ホルモンのバランスでイライラすることもある

お母様のこと、わかります…
私の両親はすでに他界してますが
伯母が、そのことを心配してくれて
「私だって、親が亡くなってだいぶ経つのに、未だに、寂しいなあ、心細いなあと思うのよ」
と言っていました

でも、伯母は子どもや孫に囲まれて
幸せな老後を送ってるんですね
結婚して家族が増えることで
家族を亡くす怖さが
少しは違ってくるかもしれないな、と思います
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この回答へのお礼

大変鋭い突っ込みありがとうございます。

「この世での私としての意識」とは、
たしかに説明するのが難しいのですが、
この世で「〇〇(自分の本名)」として色々なものを見て、感じて、考えている自我です。

人生で精神的に成長したり経験をつむと価値観は変わっていきますが、「それは私の意識」の喪失だとは思いません。
なので、もし死後に嫉妬などの感情がなくなるだけで、まだ自分が〇〇だとわかっている・自我を持っているならば、それは「私としての意識」は残っていると思います。
この場合、私にとって死は怖くはないです。

ですが、もし死後に自我がなくなって、ただの霊的なかたまりの何か(もしくは無)になるなら、それは「私としての意識の喪失」であって、その場合死はとても怖いです。
さらに言えば、もしアルツハイマー病になって、自分が何者なのかもわからなくなってしまったら、それも死と非常に似ていると思います。

伝わりましたでしょうか・・
こんな議論につきあっていただけて、嬉しいです。

お礼日時:2018/09/01 23:49

もしこころが揺れたとき、




「神のゆらぎ」という映画があります。
信仰を持つ恋人が病気になります。

輸血は教義に反するので手術を受け入れず、死を受け入れる努力をする彼と向き合っていくうちに、自分のこころに色々な疑問が生じます。


ハリウッド作品と違い、答えを用意しているかの如く演出しておらず、考えることができる作品だと思います。

参考まで。
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私は42歳男性です。

超長文で失礼します。私も真剣に考えたことがあった内容でしたので。

私自身、生まれつきの血液の持病がありまして、小学六年と中学二年のときの2回出血多量で救急搬送されて入院したことがありました。

とくに、小六のときの主治医からは「あと一日遅かったら棺桶を用意しなければならなかった」と言われたことがありました。もともと、出血したり、身体や関節が腫れたりする症状があるので、いろいろな痛みや死にかけた経験が何度かありました。

無理をしたとか、きっかけがまったくわからずに勝手に起こる症状なので、予測ができないのが生まれた時からの難点で。内臓なども何度出血したことか。それによる貧血も伴うので、やっかいなのですが。生まれつき、いきなりお別れをする側になる恐怖があったという感覚です。

搬送された当時のことや、現在も関節を後遺症で痛めていたり、出血の症状もあるのですが、このように「生き死にが常に隣り合わせ」という感じの人生を送ってきても、怖いものは怖いです。ただ、死の怖さという存在を、自分の考え方や価値観の中で冷静に位置づけることによって、生活が滞ることは抑えられていると思います。位置づけがはっきりすると恐怖がおさまる、というのをいろいろな分野で試してわかりました。


「怖いものは怖い」ということをそのまま受け入れて自覚する方が、怖さを小さめに抑えることが出来ると思っています。だからこそ、生きていることのありがたみが分かると思うので。怖さを自覚したら【生きることを大切にする】ということを重視するのが良いと思います。


それと私自身は、死ぬことよりも【死に方の方が怖い】という感覚です。全身の細胞をフルに使い切って、老衰で眠っているうちに安らかに迎える、というのであればよいような気がして。


4年前に父を送りました。心臓発作で突然だったのですが、父が夜中に実家に帰ってきて玄関先で倒れたらしく、母から連絡が来たときは事態が把握できませんでした。

私は4歳の時に父方の祖母の葬儀に出たことから始まり、現在に至るまでに何度かの機会があったのですが、父のときに喪主を務めて初めて、落ち着いて死について考えるようになりました。葬儀会社の人達と冷静に打合せをしていたら、「死」というものが当たり前の存在に受け入れられてきて。お寺さんのご住職と戒名について話したら、いろいろな現実的な相場などがわかったりして、死も現実なんだなという感じもして。


私自身の実家も先祖代々の菩提寺はありますが、私もとくに信仰している宗教はないので、あくまで自分の現実に起こったことをそのまま受け入れる考え方で生きて来ました。


「信じる」ということに関しては、私は持病にまつわる連想から、自分の祖先や自分の死後の世代や血統といったものに想いを寄せることがあったことも生きる力になっています。

それは、幼少期から触れてきたものの影響があると思います。

死生観を学んだ「北斗の拳」や血統や運命について学んだ「ジョジョの奇妙な冒険」が私に多大な影響を与えたことは間違いなかったです。それらから自分の存在が歴史の一点であるという位置づけを学んだり、生死を受け入れるようになったというか。ケンシロウのように、強敵(とも)が亡くなっても「心の中で生きている」と言っていたことを本気で信じたりしていたので、死に対しての恐怖が小さくなったりしました。


父が他界したと思われる時刻に、私が一人暮らしをしている部屋の時計の針が止まっていたのを実家から戻ったときに発見して驚きました。もしかして…の世界があるかもしれないと。


私は宗教に関しては距離を置いた考え方の人間ですが、ご質問者さんの信仰に際してはよくよく考えてからの方がよろしいかと思います。私自身は誰が何を信じても尊重する気持ちはありますが、信心深さのまったくない私も現に生活していますし、死に対抗して生きていますので。


何を信じても、一つ基本に抑えておくべきのは【位置関係を冷静にとらえる】ということだと思います。自分と対象の位置関係というか。どっぷり自分自身の思考を預けるのは、何が対象でもちょっと…。ご自身の基本目線はしっかりと。


私の場合、父と最後に電話で話した日の夜に別れが来たので、数日は気が動転しましたが、あとで落ち着いて状況を整理して見るようにしました。状況を整理できると、冷静に受け止められるようになりましたので。


また当時、世の中を見ると「生きること」「生まれたこと」を扱う人たちがいれば、当然「死ぬこと」に関わる人たちがいるということを改めて認識しました。それほどどちらも身近だと思うと、少し恐怖が和らいだような。


死に対して恐怖は感じても、だからこそ、今は生きているということを互いに大切にし合っていく!

ということが恐怖に対抗する力になると思います。独りではないのですから。


超長文に乱文でたいへん失礼しました。
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この回答へのお礼

親身に回答くださり、またご自身の持病についてもお話いただいてありがとうございます。

信仰なしで、死の恐怖と対峙しうまくつきあって生きているということから、精神力がとても強い方なのだと感じました。
死という現象の位置付けをはっきりさせる=他の方も仰ったように死が自分にとって何であるのかの哲学を持つということだと解釈したので、引き続き自分なりに模索してみようと思います。

また死に方の方が怖いというのは同感です。特に女であることで犯罪に巻き込まれやすいですし、日本には自然災害もあります。将来戦争やテロがあるかもしれない。このあたりを考え出すと怖くてキリがなくなってくるので、やめておきます^^;

私は最愛の母がいつか亡くなることを考えると涙が止まらなくなります。その頃には、回答者様のように冷静に受け止められるといいのですが。。
当の母は、こういった生死の問題に関して無頓着なんですよね。ちょっと話題をふってみることがありますが、与えられた一生をただ生きることが義務とだけ考えているそうです。ある意味羨ましいです。

少なくとも、同じことを考え、なんらかの結論に達している方がいらっしゃって少し安心しました。
どうかお身体に気をつけてお過ごしください。

お礼日時:2018/09/01 06:26

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