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4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。

古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。

当時は陸上の移動方法が徒歩か馬しかなく、宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われるので、大阪府南部(おそらく大阪市南部か堺市のどこかの場所)に全国規模、狭くても中国地方から東海地方までを勢力範囲とする政権(大和か倭)の首都が存在したと考えてよいでしょうか。

巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。

質問者からの補足コメント

  • >これまで『見つかった古墳の中では』という条件が付きます。
    >もしかしたら、まだ見つかっていない古墳があるかもしれません。
    → 頭大丈夫ですか?今は人工衛星で上空から俯瞰できる時代ですから、見つからないわけ無いです。グーグルマップだったら一般人でも調べられます。

    >また大きな古墳を作った人が一番の権力者かどうかも確定できません。
    >現代でも、大金持ちが尊敬されるとは限らないでしょう?
    → それだけ大きな古墳を建設できる財力・動員力を持つのは相当の権力者だけです。また、古代は一番の権力者が一番の財産を持っているのが当然とされていました。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/02 20:51
  • >あなたの質問の一番のつっこみどころは、古墳時代に日本に馬はいないのです。
    → まず、当時の日本列島に馬がいたかどうかはこの質問に関わる重要な問題ではなく、馬がいてもいなくても回答が可能です。質問は大阪南部に首都があったかどうかですから。
      次に、弥生時代末期には大陸から馬が伝わっていたとされており、4世紀には乗馬の風習もありました。古墳時代の馬の埴輪は有名ですね。これで貴方の指摘は誤りだとわかります。
    http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/uma …
      ということで、貴方の回答は二重に無意味です。再回答は不要ですのでよろしくお願いします。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/02 20:56
  • >古墳の跡地に街や砦を構築したり、自然災害によって地中深くに埋もれたりして、もはや見つからなくなった遺跡があるでしょう。
    → 無くはないでしょうが、小規模なもに限ります。巨大古墳が埋もれることはありません。

    >誰が当然としていたのですか? それが『当然』という文献が全く無いのに。
    → 権力と財産は本来密接に結びつく存在で、明確に分離されるようになったのは民主主義と資本主義が発展してからのことです。今でも未発達な後進国では独裁者が財産を独占していますよね?古代はもっと未発達なので、当然です。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/02 23:03
  • >どうして、そう言い切れる?
    >地震による地割れ、山体崩壊、津波に火山の噴火。
    → 確かに日本は地震国ですが、そのようにほとんどないことを出してこられても、悪魔の証明になってしまいます。まさに素人考えですね。

    >剣や弓矢での戦闘しか無かった古代において、独占は不可能です。
    → 独占は不可能とおっしゃる根拠が分かりません。剣や弓矢しかない時代にも独裁者は沢山いましたけど。

    >過去の日本史において『独裁者』と呼べるほどの人物がいたでしょうか?
    → 織田信長しかり、平清盛しかり、沢山いましたけど。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/02 23:24

A 回答 (7件)

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。



しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。(あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。)
上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。

もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵
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当時の都は飛鳥(奈良盆地南部)にあった。



南大阪は、後の7世紀に「近つ飛鳥」(奈良の飛鳥は「遠つ飛鳥」)と呼ばれたほど、飛鳥との関係が深く、重要な地域だったが、都の存在は確認されていない。(遥か後の道鏡の時に由義の宮と言うのは存在したが。)

私が思うに、南大阪は港に近すぎて、防衛上の観点で問題があったのではないか。後に浪速の宮が築造された時も、今の大阪城周辺と言う戦略上の要地が選ばれている。伝承の高津の宮も上町台地が大阪湾に面する崖の上と言う要害の地に立地している。

堺から羽曳野を経て竹ノ内街道から飛鳥に抜けるルートは間違いなく古代の国道1号線で、大いに賑わったに違いなく、それ故に偉容を誇示するごとく巨大古墳が沿道に点在しているが、天子を港に近い場所に住まわすのは不安があり、ちょうど平安時代の難波と京都のように、役割分担をしていたのではないかと思う。
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> → 無くはないでしょうが、小規模なもに限ります。

巨大古墳が埋もれることはありません。

どうして、そう言い切れる?
地震による地割れ、山体崩壊、津波に火山の噴火。
何を根拠に、そう言い切っている?


> 今でも未発達な後進国では独裁者が財産を独占していますよね?古代はもっと未発達なので、当然です。

それを『当然』と断定してしまうあたり、貴方は結局プロの歴史学者でなくて、素人なんだなぁと思ってしまいますよ。

現代の発展途上国において独裁者が誕生し得るのは、強力な武力を独占できるからです。
剣や弓矢での戦闘しか無かった古代において、独占は不可能です。

過去の日本史において『独裁者』と呼べるほどの人物がいたでしょうか?
徳川幕府の時代ですら、長州のように面従腹背していた藩は幾つも有るのに。
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> → 頭大丈夫ですか?今は人工衛星で上空から俯瞰できる時代ですから、見つからないわけ無いです。

グーグルマップだったら一般人でも調べられます。

古墳の跡地に街や砦を構築したり、自然災害によって地中深くに埋もれたりして、もはや見つからなくなった遺跡があるでしょう。


> 古代は一番の権力者が一番の財産を持っているのが当然とされていました。

誰が当然としていたのですか? それが『当然』という文献が全く無いのに。
現代に生きる貴方が、古代の人の価値観を推し量って『当然』とみなしているだけでは?
それとも古代人に友達でもいるんですか?
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河内に王朝があったというのは昔から唱えられています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85 …
日本のどの辺りまでを支配下に置いたのかは、昔から議論がありますがまだ定まっていないです。

ちょうど倭の五王が中国に使者を送った頃に重なり、
讃、珍、済、興、武 の五王が中国の宋書に記されています。
このうち、、済→允恭天皇、興→安康天皇、武→雄略天皇 というのは多くの学者の意見が一致しているのですが、
讃、珍 に関しては応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、のどの代になるのか意見が分かれています。

もし、中国へ使者を送ったとしたなら、それなりに日本の中心部を抑えておかなければいけないので、強力な王朝があったということになります。
しかし、これに反する学者もいて、まだ論争の決着はついていないようです。
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あなたの質問の一番のつっこみどころは、古墳時代に日本に馬はいないのです。


馬は野生種が人類の文明発生時にはすでに絶滅していて、家畜が野生化した野馬しかおらず、日本列島には古来から馬が生息していません。
馬の骨が出土した古墳時代の遺跡はいくつかありますが、すべて大陸から持ち込まれ海外交易があった証拠になります。

大前提の知識が間違っているわけで、あとはすべて移動距離の認識が間違った憶測にすぎず、前提が間違っていては正しい答えには到達しません。

倭の首都が確定しないのは、考古学と各主張を応援しつづけた結果の市町村の政治的問題なのも知識として必要。
この回答への補足あり
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確実では、ありません。


それが確実ならば教科書に載ります。


> 大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実

これまで『見つかった古墳の中では』という条件が付きます。
もしかしたら、まだ見つかっていない古墳があるかもしれません。

また大きな古墳を作った人が一番の権力者かどうかも確定できません。
現代でも、大金持ちが尊敬されるとは限らないでしょう?


> 中国地方から東海地方までを勢力範囲とする

勢力範囲の定義は何でしょうね?
ある権力者の命令に従う事だとして、命令を出した証拠も、従った証拠も残されていない。
同じような銅剣が出土したり、同じような形状の古墳が発掘されるだけなら、単に交易していただけ、かもしれない。


> 巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠がある

証拠と言うには弱すぎます。
だから専門の歴史学者の間ですら見解が確定していないし、教科書にも載っていない。
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宮本武蔵(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵
(URLはコピペしてください)

はじめまして、

No3さんの内容にほぼ同意なのですが、宮本武蔵が関ヶ原合戦に参加しただろうというのはほぼ定説です。
16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。

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