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神武天皇が実在し、東征を行ったかどうかは不確定です。
ここでは何者かによって九州から大和への東征が行われたと仮定します。
東征の理由は何だったと想像できますか?
九州から大和へは長い遠征です。
何故一気に遠い大和の地をめざしたのでしょうか?
記紀にはさしたる理由も書いていなかったと記憶しています。
戦国時代の大名は天下統一をめざしていました。
それと同じような野心が動機でしょうか?

また東征が行われたとしたら、いつの時代でしょうか?
弥生時代でしょうか?古墳時代でしょうか?
想像をめぐらしていただけるとありがたいです。

A 回答 (6件)

大和政権を打ち立てた人々が、地方の豪族を納得させるために自分たちのルーツに権威を持たせるため、又征伐した地方豪族を服従させるために国家統一のシンボルとして建国神話を必要としたのでしょう。

大和政権のルーツは渡来人の可能性が強いので、非征服民(原住民)や敵対する(した)同族への優位性を示すために神話を作ったのではないでしょうか。日本に限らず古代の征服王朝は非征服民の神話を採用して懐柔策を講じています。それを繰り返した結果、神話に矛盾が生じたり、ひとつの神が多くの神性を持つことがあります。

神武天皇東征がいつ行われたか、その神話の場所がどこだったかは謎で、残された文献を信じるしかないと思います。しかし、恐らく大和政権が経験したことではなく、九州あたりの豪族が周辺諸国を征服する過程で生まれた既存の神話を自らの神話に採用し地名、時代、等の辻褄を合わせたとも考えられます。もしそうであれば
元の神話の成立は縄文時代から弥生時代の移行期あたりかも知れません。つまり、大和政権が神話として採用した元の神話は相当古い時代の話だったということになります。

日本が大陸の影響を受ける前は、シュメール王国の影響を受けたという説を唱える人々もいます。古語にシュメール語の痕跡が認められ、航海術に長けたシュメール人はインド、中国南部を経て日本列島に到着し、その末裔が大和政権にも参画しているという説です。仮にそのような人物が大和朝廷に影響力を持っていたとすれば、日向から関西への航海などは日常茶飯事のこととなります。

日本は戦後神話を否定し、考古学一辺倒の物証主義の国となったので、神話は神話としてロマンを語り、想像を広げる、シュリマンのような自由な発想は殺され、発掘で遺物が発見されるまでは、すべては存在しなかったことになっています。
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当時は、末子相続だったので、


九州勢力(邪馬台国?)と大和勢力(ヤマト?)とが同盟を結ぶため、
九州のジンム(狭野皇子)をヤマトのイスケヨリヒメに婿入りさせた。
というような説を昔読みました。
この説でいけば、弥生時代かな・・・。
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日本書紀でしたか、読んだ事があります。



天皇は宮崎の高千穂の山の中に都を置いていたが、西すぎて統治が上手く行かないので東に都を移す事にした。大分あたりで1年、姫路辺りで8年滞在した。
大阪に上陸すると、弓で反撃に遭い、一旦退却する。
反対側の熊野地方から上陸を開始し、地元の豪族の味方もあり、大和を制圧する。
こう言う話です。

ここからは私の適当なこじつけです。^^

滞在=攻略に要した時間
目的=当時の集権国家が大和にあり、倒す為。
(姫路あたりの島で金印が見つかりましたが、難をのがれて島に逃げ込み、そこで息を引き取った。)

隼人や熊襲は親族関係や上下関係で上にあった。
(九州滞在時)
その為、大和朝廷の言う事を聞かなかった。
また、親族であり、攻撃して来ないなどと甘く考えていた。

こんな憶測はいかがでしょうか?
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 書記によると、神武天皇は東の方に美地があると聞き、45才の時子弟とともに日向より東征の途に出発します。


 東征の物語については評価が分かれています。すなわち、史実とは、無縁な作り話とみる説と、作り話には違いないが皇室が九州から東に移動して機内に勢力をかまえて大和朝廷を開いたという史実を反映したものであるという意見です。後者は邪馬台国や投馬国がある時期に機内に東遷したとか、銅剣・銅矛を持った北九州の集団が銅鐸文化の機内の人々を征服したとか解釈する訳ですが、仮説の域を出ていません。
 なお、辛酉の年に即位したといういわゆる神武紀元(前660年)は、辛酉の年は革命の年であるとする中国の鍼意説に基ずいたもので、推古9年〔601年)を起点に1260年前を割り出したものです。
 ちなみに、太平洋戦争で活躍した零戦は、それが開発された年昭和14年が、神武天皇が即位した年皇紀2600年にあたり、その下2ケタをとってゼロ戦と名ずけられました。
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神武天皇から9代目の開化天皇まではよく分からない事が多く、言わば神話上の天皇になります。


しかしながら「火に無いところに煙はたたない」と言いますから、当然モデルとなる人物はいたと考えます。
さて、一つの説として九州地方の国が東へ移動し、近畿地方の豪族を征伐して大和朝廷が成立したする考えがあります。
銅剣文化と銅鐸文化で説明されますが。
九州の国は「邪馬台国」か「狗奴国」・・或いは他の国か??
いずれにせよ、東征の話には北九州を征服した話はありませんから、このあたりの国が東征を行なった事は間違いありません。
年代は紀元前660年といわれてますが、どうもこれは信用できません。
大和の前に邪馬台国があったと仮定すれば、卑弥呼が亡くなったのが284年ですから、これ以降のことと思われます。
東征も神武天皇一人の物語になってますが、恐らく何代かの王によって成し遂げられた事で、征服したり吸収したりした豪族の話が入り混じり、一つの物語になったのでしょう。
理由はやはり国が大きくなると拡大政策をとり、ある程度大きくなると別の経済圏(銅剣と銅矛)との対立を生んだというところかと。
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 私がもっている、子供用にちいさくまとめられた話に書いてありましたが…豪族とかがいろいろのさばっていたので、秩序をとりもどしてまとめようとしたというような事が書かれていました。



 戦国時代の野心といいますが、野心だけで戦国大名がうごいていただけだとはいえないような気がします。日本が日本として、秩序を確立するためじゃないですかね。
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