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斎明天皇陵の候補は車木ケンノウ古墳、岩屋山古墳、そして牽牛子塚古墳があります。

現在、宮内庁が斉明天皇陵に比定しているのは車木ケンノウ古墳です。
車木ケンノウ古墳は『天皇山』と呼ばれており、そのため宮内庁はこれを斉明天皇陵に比定したそうです。
車木ケンノウ古墳は宮内庁管轄になるので発掘調査ができず、詳しいことはわかりません。

岩屋山古墳は方形墳ですが、その上に八角形の墳丘があった可能性があるそうです。

この時代の天皇陵は八角墳であることが多いのですね。
舒明天皇陵、天智天皇陵、天武・持統合葬陵、文武天皇陵などすべて八角墳だそうです。

で、牽牛子塚古墳は数年前に発掘調査があり、八角墳であることが確認されました。
また牽牛子塚古墳の石室内部は二部屋に分かれています。
『日本書紀』の『斎明天皇は娘の間人皇女(孝徳天皇皇后)と合葬した』という記述と合致するということで、牽牛子塚古墳が斎明天皇陵である可能性が高まったということです。

『日本書紀』には『斎明天皇と間人皇女を葬った同日に、大田皇女を陵の前の墓に葬った。』とも記されているそうです。

牽牛子塚古墳が斎明天皇陵だとすると、大田皇女の墓が近くにあるはずです。
牽牛子塚古墳の近くには鑵子塚古墳がありますが、斎明天皇の時代の墓は薄葬令を受けて小さく作られたはずと思います。
鑵子塚古墳はサイズが大きすぎると思います。
(鑵子塚古墳の玄室は長さ約6.5m、幅約4.4m、高さ約4.7m)

【質問(1)】斎明天皇、大田皇女の墓はどこにあると思いますか?

また斎明天皇は『健皇子と合葬するように』との詔を出しており、斎明天皇陵候補のひとつ、車木ケンノウ古墳は『斉明天皇と孝徳天皇の皇后・間人皇后を埋葬した越智岡上陵』と『天智天皇の皇子・建王(健皇子)墓』となっているそうです。

しかし日本書紀には斉明天皇と健皇子が合葬されたとは書かれておらず、牽牛子塚古墳には石室はふたつで、調査から人骨などが発見され、埋葬されていたのは2人だと考えられています。

【質問(2)】健皇子はどこに葬られたのでしょうか?

A 回答 (1件)

<参考> 質問1について



 奈良県明日香村教育委員会から、「牽牛子塚古墳発掘調査報告書」が出されています。

 この報告書の中には、発掘調査時に大きく報道され、質問者さんも言及されている『八角墳』と確認されるに至った葺き石についての記載のほかに、牽牛子塚古墳のすぐ南で新しく見つかった「越塚御門古墳」についても記載されています。
 「越塚御門古墳」は、規模や石室構造が横口式石槨であることから、大田皇女の墓と考えても、考古学時上、問題・疑問とされるような点はない様です。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なんと、「越塚御門古墳」というのが見つかったのですね!
調べてみたら、見学会の写真などたくさん見つかりました。

日本書紀の記述にもあうし、どうやらこの「越塚御門古墳」が大田皇女の墓である可能性が大ですね。
宮内庁は斉明天皇陵は車木ケンノウ古墳のまま変更しないようですが。
ウィキには『日本書紀』の「中大兄皇子が石槨を造る労役を民に課さなかった」という記述と一致しないため、と記されていました。

ううーーん、するとやはり建皇子は斉明天皇と合葬されなかった可能性が高いですね。
せっかく詔したのに。

お礼日時:2013/11/01 19:30

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