親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

どうなんでしょう。

質問者からの補足コメント

  • 皆さま、ご回答ありがとうございました。
    リサーチとしても、思考としても、満足を得ることが出来ました。

      補足日時:2018/09/29 14:39

A 回答 (25件中1~10件)

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。



その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かった気になり、自己満足を優先させる。万能じゃない部分でしょう。

どこまでも、目の前のアホのような奴は、自分とは異なる存在の「他者」であると覚れば、ある程度ほっとけるのではないですか。

相手はいずれ成るように成るもので、何を掴むか、受け取らないかは己がやらなきゃ自分の意味にならない。
他人がどうこうする領域じゃないと知っていれば。

お互いに具体的な言葉にするほど自他の異なりが露わになるでしょう。
同じようで違う、違うようで同じ、というのを確認します。
そうした体験すれば作用にも気づきます。
自分の方法は増えるのですが、人間は頭では体験を超えられません。
冷静に相手の立場に立って出来るものなど取るに足らない小ささに思います。
大人?日本人?は関係を怖れている?みたいに見えます。


ある人に悩みを言ってもらい、何人かで聴きます。
それを後で皆で検討してみると、問題点、課題はほぼ同じ意見ですが、その人をどう思うか、感想を具体的にすると其々です。
相手ではなく、自分というものがそこに出てきます。

相手の立場に立つとは、
人間というものや個人を理解した上でやれる力量かもしれないですね。

余談ですがカウンセリングや相談をインターネットの文字の世界でやれると考える人と反対する人がいるんです。
文字では情報が不十分ですからね。

言い合いをしたり、食い違っても、そういう二人が向き合った体験は後に信頼の間柄になれるものでもあるという実感はありますが、使いわけていますね。

言い合いは悪い結果になると思い込んで、ほっとく、避ける一般の人が多いかもしれないです。

ほっとくの意味一つ取っても、自他は違うんですよね。

相手の立場に立ったつもりで言い、その人をよく知らない第三者からすると正論のようですが、肝心のアホにとってありがた迷惑であったりします。

気遣いができるアホは、無理解な正論にお礼を言うかもしれません。
でも、ほっとけない人が、アホを理解しているとは限りません。
ボランティアと同じです。
自分がしたくてするのか、相手の為なのか、自意識の深めがどの程度かです。


人間というものは、相手の立場に立ったつもりが立てていない時、相手はこころを開かない。

すれ違いながらもお互い辻褄を合わせ、共有した時間に意味を感じることで穴を埋め、その代償行為に気づかず、意味を後付けする生き物です。
その時を穏便に済ませるのですが、そういうときは、後から自分に違和感が出るものなのです。
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この回答へのお礼

パセリさんの回答は、本気で向き合わないと聞き取れない言葉で構成されている様に思います。他の回答を本気で聞いてないと言うわけではないのです。
例えば領分という言葉が出ました。この領分ということさえ私は曖昧にして過ごしているために、その見極めが困難であることに気づきました。
他諸々あるのですが、ご回答いただけて良かったと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/09/27 15:48

「アホちゃいまんねん..パーでんねん」


..こう言った芸人が一番 売れた時代がある!
後から振り返った時..納得できる事もあるわ
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この回答へのお礼

後から振り返った時に分かる。そうですね。そう言う事もありますね。学生時代なんかを思い出すとそう言う事が思い当たります。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/09/28 09:17

No.24=22です。



きさらぎさんおはようございます。
言い逃げされたことについて回答してほしかったんですか。なるほどです。No.22は要求されている回答に合致してませんでした。


三共ぱせりさんおはようございます。
右記の質問のQ:人間がこんなに苦しんでるのに 何で神や佛は救いに来ないのか?-さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10680798.htmlへのあなたの怒りの回答、No.34,35が強い気持がでてる怒りがとてもとてもよかったです。
左記質問を私なりに要約すると、護摩行って熱いところに籠ってお経唱えたりすることなので、ガラス職人が熱いところで作業するところと共通点があり、山伏は山の中を1000日走り回る修行があって運送業の荷物運びの人が走ってるのと共通点があります。同じ熱いのなら、同じ走り回るのなら、役に立ちそうなガラスのコップ作りや荷物運びをしろということです。
ガラス職人は吹くパイプをくわえて口がふさがってしまうためお経が唱えにくいです。炭焼き小屋でお経を唱えながら火の番をするのが良いでしょう。三共ぱせりさんの読み方を否定するものではないです。
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この回答へのお礼

いや、5thさんがアホとか正しいとか分からず、ほっとくほっとかないについて回答すると言うので、それについてお礼をしたまでです。

言い逃げするような奴はほっとくしかないし、そうせざるを得ないよねと。ここで言う言い逃げとは、言うだけ言って相手をブロックするような事です。

お礼日時:2018/09/28 09:12

№19です。

細かいことですが 重要だと思いますので。


★(№19お礼欄) 自分の目的(感情を満足させる事)を達成するために論
理を駆使するという事ですか。哲学では目的そのものを見出さんとすることも
多い為、そう言った感情論理は不適だと。
ふむ。

☆ 細かいですが 感情論理のばあいには:
★ 自分の目的(感情を満足させる事)
☆ と言ったのでは 精確な実態を表わし得ていないと思います。

目的は 具体的にあるはずなんです。:
〇 組織の結束を死守すること
〇 そこでの自分の地位を死守すること
〇 組織の崩壊を食い止めること
〇 組織への勧誘を達成すること
〇 個人的には メンツを護ること。恨みを晴らすこと等々。



★ 哲学では目的そのものを見出さんとすることも多い
☆ 微妙ですが 哲学は:
▲ 理性の論理は結論に向うのに対して,感情論理は目的に向うとされる。
☆ といったように 哲学では《よく推論をみちびいて結論に到ること》を目
的としている。

つまり 自分の予期する結論でない場合にも 推論の過程にあやまりがないよ
うにして しかるべき結論を得ること。これが 目的なのだと思います。
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この回答へのお礼

ふむ、そうでしたか。微妙というか、結構違ってましたか。
自分の思いと異なった結論も得る事ができるのが理性の論理で、そうでないのが感情論理という事でしょうか。

お礼日時:2018/09/27 21:35

きさらぎさんこんばんは。

アホとか正しいとかわからないです。ほっとく/ほっとかないについて回答します。

どうしてもほっとけない人に出会ったことがありました。それは、Q:期待通りにならないと腹が立つのはどうしてですか?-No.5さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10665918.htmlです。
ほっとけないです。私は質問者で、私の質問を全然全く完璧に踏みにじっています。もうボタン付けは終わって針に糸を通す必要が無いのに、再び、十という字をみて糸通ししたことを思い出してイライラしろと言うのでしょうか?じっさいイラつきました。ささいなことですがなぜ十なんでしょうか?どうせなら九がいいです。それにもし放置するなら次が現れるかもしれないからです。
微塵の愛情もなく微塵の改善も望まず憎悪と侮蔑と嘲弄をもって怒りの鉄槌を下さねばなりません。しかしながら、長文を書くのはいかがなものか?私の質問が読めなかったのだからきっとコメントも読めません。日本橋ヨヲコの『極東学園天国1巻』 p19より武藤利一のセリフ
 「人を本気で傷つけようと思ったら、自分も血流すのが礼儀だ
 ろ」
なるべく短く明瞭にかつなるべく相手を深く傷つけるようにあーアレがいーかなーコレがいーかなーと言葉を選びコメントしました。

もう1人の方は、Q: 日時計の影と複素数の円、マイナスの質量即ち抵抗だと、物質なのかエネルギーは加速するか?-No.1,2さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10081925.htmlです。
No.8,6,5,4,3は私です。物理学に詳しい人はきっと物理学を信仰しているので、物理学を揶揄くために使ったりしない!!!と私の物理学を信仰する人像をぶち壊す回答がどうしても放っておけませんでした。という私をほっておけなかったNo.9さんがいます。ありがとうございます。日ごろから良質な議論を読んでおくようにします。
そもそもは2つ目のリンクの質問者さんが物理学の用語を濫用していたわけで、権威を脱ぎ捨てて濫用する土俵に上がってNo.1,2さんはめっちゃいいプロレスをしてみせました。かっこいいです。今ではNo.1:いー質問だよねー。No.2:ってなんでやねん!というノリつっこみに読めます。どてらい人たちは学問からも自由です。別の質問で回答が読めて嬉しいし、最近の回答で日本語母語話者として勇気づけられました。
 モンテーニュの『エセー』がエーゼー。
うーんこのファキゴナファッキンクソ寒く凍み凍りたる導入、だがそれがいい!!https://prcm.jp/album/airiairy/pic/9885457読み始めました。岩波文庫だと全部で6巻あります。モンテーニュ著で原二郎訳の『エセー(一)』(岩波文庫)p9-10より引用します。
 読者よ、このように私自身が私の書物の題材なのだ。あなたが
 、こんなにつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を費
 やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。
ド・モンΔ。オラワクワクしてきたぞhttps://matome.naver.jp/odai/2145723823987137801 …
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この回答へのお礼

ここでのやり取りにおいても、腹の立つことは稀にあります。その原因の一番は、馬鹿にされた、と言うものです。次に、言い逃げされた、と言うものがあります。馬鹿にされて言い逃げされると腹が立つ。

顔の見えない関係だから、みな、気が大きくなる傾向はありますね。

お礼日時:2018/09/27 21:27

そもそも、人が人を救うなんてことはおこがましいことで、それはできないことです。


自分の人生は自分で何とかするしか全くありません。

広い意味での「アホ」、人の言うことが聞けないとか、道理が分からないなどのオーソドックス系
だけでなく、慢心ゆえに人が馬鹿に見えて仕方がないとか、人に見えないとか、更にはゴミ・カス
にしか感じられないとか、そういう系もあると思います。

あるいは、自分の利益・立場をあくまで追求するという系もあると思います。

人間の社会って一人一人が繋がっていて「共存」している、というのが基盤だと考えているので、
(このことはまた機会があれば突っ込んでゆきたいのですが)自分さえよければ、という考えはすべて
アホだと思っています。

「馬鹿と阿呆の絡み合い」と言うのはこのことで、現代においては自分も含めてほとんどの人がアホ
だと思っています。
だから、人が人をアホだということは「目くそ鼻くそ」の世界です。

アホ扱いされる人はこういう思いだと思いますし、また、人の立場に立てない人はアホだとも思いま
すし。
そして、アホ扱いされた人の心には、無力感とか恨みの心が生まれ、それは社会の中に伝染してゆく
と思います。
人間ウォッチャーである私には、ここ10年くらいで世の中を恨んだ様な顔が急速に増えていること
を感じています。

「アホはほっとけ」という言葉は、すでに差別があると思います。差別は暴力とか犯罪を生みます。
欠点は欠点として踏まえて、差別をしないで「一緒に生きてゆく」ということだと思います。
変に教えようとすることはまず逆効果になります、しかし、言わねばならないこともあるでしょう。
ここは極めて難しいと経験上思います。

その関係性の中で、ひょっとしたら変わるかもしれない。逆に言えばその関係性がなければ変わるこ
とは不可能だと思います。

書き殴り的文章になったようですが、言いたいこと分かっていただけましたでしょうか?
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この回答へのお礼

書き殴りと仰いますが、むしろ分かり易かったです。実感をそのまま言葉にされている様で、よく伝わりました。
ありがとうございます。
これが本当のところかもしれないという気もしました。

お礼日時:2018/09/27 15:39

№2です。

おぎないます。

わたしにとってアホとは 話が通じない場合を言います。

一例として 《感情論理》を挙げます。
▲(コトバンク:感情論理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9F%E6%83%85%E8%A …
§ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

感情論理
かんじょうろんり
logique de sentiment; affective logic

論理的な筋道をたどっているようにみえながら,感情的な因子が思考の過程や
その方向を規定しているような場合に,感情論理が働いているという。

T.A.リボーによれば,理性の論理は結論に向うのに対して,感情論理は目的に
向うとされる。

たとえば,中世のキリスト教神学者アンセルムスの「理解せんがため,われ信
ず」という言葉はその一例である。

また,感情論理は未発達の幼児などに多くみられるところから,前論理といわ
れることもある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 昨今の相撲協会(一門という仕組みで一様に資金を透明に管理するという
ガヴァナンスの考え方)や女子体操の塚原夫妻うんぬん・・・。――その対手
に間違いがないということではなく。

LGBT教あるいはセクハラ反対の#MeToo教なども その気があると思います。

つまり 《目的》がすでに初めから決まっていて そこへ向かって・言うとす
れば《論理》を駆使することもおこなう。・・・

韓国人の《反日教》も同じくだと考えます。
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この回答へのお礼

自分の目的(感情を満足させる事)を達成するために論理を駆使するという事ですか。哲学では目的そのものを見出さんとすることも多い為、そう言った感情論理は不適だと。
ふむ。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/09/27 15:51

昨日締め切った私の質問に、キサラギさんから丁寧な回答を頂きましたが、理解するところまでいきませんでした。

もうすこしで、、、と云うところまで行けたようには思うのですが、たぶん私の頭で理解するのは無理・限界なのだと思います。こういう頭をキサラギさんと比較して馬鹿と云いました。数学なら答え(結果)を出せる人を利口、出せない人を馬鹿と云ってみたのです。

また、アホと云うのは結果がどうなるか分かっているのに、欲(いろいろあると思います)に負けて行動してしまう人。タレントの吉沢何とかが飲酒運転して事故を起こし捕まってますが、亭主と一緒に酒を飲んだ後だとか。こうした吉沢の行為をアホと云いました。かかわりのある亭主は止めるべきでしたね。

後悔するかも知れないのに、欲に負けてしまう人の事を想像しました。
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この回答へのお礼

なるほど、これは耳が痛い話ですね。
私はアホな部類に入る様です。
例えば好きでもない相手とムードに流されて関係を持ってしまい、後悔する。
相手の気持ちにつけ込んだようで、実は自分の欲望に負けただけ。

先日の汽笛さんの質問に答えたものですが、分かりそうでわからなかったのは、私も理解が不十分だった為に、中途半端な回答をしてしまったせいだと思います。

ともあれ再回答、ありがとうございます。

お礼日時:2018/09/27 15:57

>アホ(愚者)の末路は悲惨なものだと言う事です



仰る通りです。

しかし、私の考えを端的に言うなら、世の中「馬鹿と阿呆の絡み合い」ということになります。
自分のことだって、けっして賢い人間だとは思っていません。

現代において本当に立派な賢人ってはたしているのでしょうか?ドングリの背比べでしょう。

愚者というのは何パーセントか、コンマ何パーセントか分かりませんが、間違いなく存在します。
愚者に見えるそうでもない人とか、懸命にカムフラージュしている人もいるでしょう。

でも、彼らの存在は、そうでない人にとってある意味救いになっているはずです。

子供のころ近所に知的障害の子が何人かいました。昔は今と違って社会の中に「野放し」されて
いました。
たまに一緒に遊びたくて寄ってきました。決定的に通じない部分があって「友達にはなれない」
とは思いましたが、彼も楽しそうだし、たまに遊んでもいいなと思いました。大人には怒られま
したが…

正直言えば「自分は健常でよかった」という思いはありました。だから、変な言い方になりますが
「社会の役に立っている」んです。

愛情を持った共存がいいと思います。愚者扱いされている人はものすごく苦しんでいるはずですし
その他の人は彼らに少しだけ恩があるからです。
これは、子供にはできても大人にはできないことです、差別の心があるからでしょう。

№14さんと重なってしまった部分がありましたが、是非申し上げたいと思いましたので。
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この回答へのお礼

仕事柄、知的障害の方とは多く接してきたのですが、思うところを正直に述べようと思います。
まず、知的障害でも児童はかわいいと言う事。しかし大人になればどうするんだろう、誰も庇いだてしてくれない世界では生きていけないのに。と言う事があります。

それと、端的に、知的障害者の中には他傷の癖がある人もおり、余計に排除されがちになるという事もあります。

後は、性格が穏健で、人を癒す力を持っている人も居ます。

知的障害者と一口にいっても、色々なのですね。

一般の方と障害を持つ方は確かに大きな差を認めざるを得ません。しかし、凡人と賢人の間は雲泥の差という事も言えるのではないでしょうか。それとも紙一重?
賢人は、凡人には、世に隠れて見えると言う事もあるのではないかと思います。

彼も楽しそうだし、たまには一緒に遊んでもいいなと思った。
これはシンプルですがとても大事なことではないかと思います。
ただ、大人達が彼と遊ぶなと言う意味も分からなくはありません。良くも悪くも、人は付き合っている人に似るからです。

私も、学校のクラスメイトに一人、言葉がどもり、知性も少し足りない感じの友達が居ました。家が近所で、私は普通に接して居たのですが、大人になったある日、そのお母さんからお礼を言われると言う事がありました。彼が普通の扱いを受ける事自体が少なかったからです。

共感と言うものは非常に大事です。私は彼に普通に接しては居たが、彼の苦しみを察して居なかったと思います。

まとまらないお礼となりましたが。

お礼日時:2018/09/27 16:41

取りあえず放っておきます。

関わって面倒くさいかもしれないので、よく見極めてからにします。
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この回答へのお礼

よく見極めてから。
ふむ。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/09/27 16:01

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Q“認識”は“認識形式”により行われる、の、“認識形式”とは?

その“認識正式”は人それぞれ、七十億人の人の“形式”があると云う事!

或る質問への回答を見て、このようなことを思いつきました。

ご意見、いただきたく思います。

宜しく!

Aベストアンサー

№11をおぎないます。

対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として考えてみよう。

(あ) まづ《感性 と 〈空間〉および〈時間〉という知覚(認識)形式》

(い) 意外と余裕のある姿に見えた。

(う) 《姿》は テレビ画面では二次元だが 空間は一般に三次元だと知ってい
る。つまり そのような空間という形式をとおして その姿は われわれと同じ人
間だと知る。

(え) 《意外と》というのは 遠くない過去に《急に卒倒した》という事件があ
ったからです。つまりこれは 《時間》という認識の形式をとおして知ることだ。

(お) このような空間と時間とは 誰にとっても同じ認識の形式として作用して
いる。




(か) カテゴリー表の《③ 関係》の内の《因果性》なる形式を当てはめてみるな
ら 卒倒事件の前には 弟子の暴行被害事件がありその告訴があり またその取り
下げといった一連の経過があった。

(き) 一般に時間というのは 過去は現在の記憶にあり 未来は現在の期待(予
想)にあり そして現在は現在の直観としてあると言われるので もし現在におい
て余裕を持っているとしたら 過去からの因果の関係はこれを超えて来ているとも
見られる。
――といった認識を得る。

(く) 認識内容がつねに普遍性を持つというのでなくても 普遍性を持ち得るよ
ように《③ 関係 その因果性》なる形式が はたらいている。



(け) このこと――カテゴリー表の一例――は すでに《判断》にもかかわって
いる。貴乃花の現在の状態を 推測によってでありながら 判断している。

(こ) つまり 《判断表》のやはり《③ 判断の関係 / 仮言判断 「AはBであれ
ば、CはDである」》と相応している。すなわち 《現在の姿として余裕があるよう
なら 過去の・世の中を大きく騒がせた事件の影響は あまり見えないようである》。

(さ) この一例の認識や判断がそのまま《ただしい》というのではなく そうで
はなく 知覚と認識とのそれぞれ形式は 認識の偏頗なあり方をまぬかれさせ普遍
性を保障するようなハタラキをしている。






☆ さて 全体として見て どうであろう? 何が言えるか?

(し) 《物自体》は 要らないのではないか? 人間の知覚や認識の能力が つ
ねにただしいということは――相対性の世界に生きているからには――あり得ない。
・・・と言えば済むことではないか?

(す) 知覚や認識の形式は 認識の普遍性をあたかも担保しており 有効なハタ
ラキを持つと見られる。見られるのだが それは 《形式》が保証しているという
よりは 実際には 認識の内容について いわゆる自同律や因果律に則っているな
ら 妥当性を持つということでしかない。のではないか?


(せ) 物自体と仮象としての認識(特にその形式)とに分けて 認識行為を分析
する意義は どこにあるか?

(そ) 感性の形式としての《時空間》や 認識および判断の形式としての《関係
性かつその内の因果性》は けっきょく大きく広く《認識という行為》をするにあ
たってそれぞれ認識の対象でもある。に過ぎぬ。

(た) 過去とそれをつなぐ因果性というのは そもそも貴乃花という人物を認識
するにあたって その認識の――必ずしも形式としてではなく――ふつうに対象と
して現われて来るものなのだ。

(ち) あらかじめ《形式》として取り出しておいてもよいが けっきょくつねに
対象と一体となっている。はずなのだ。

(つ) 《時空間》という形式ないし枠組みあるいは物指しをあらかじめ用意して
おいて これを道具として認識を始める・・・のであろうか? 

(て) その場やその情況としての時空間は 人物を見て把握しようとするときに 
すべてが一体であり したがって対象の全体となって われわれ認識の主体に飛び
込んで来る・・・のではないだろうか?

(と) 額の皺は 歳を取るという時間性と 対象の全体を構成する・・・と見た
ほうが 自然でふつうであるように思う。

№11をおぎないます。

対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として...続きを読む

Q科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。一方、哲学にはそれに相当するものは何でし

科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。
一方、哲学にはそれに相当するものは何でしょうか?
(主張?かな)

Aベストアンサー

科学は物理、医学も物理、ですよね?
心理学は少し物理があるのかな?

哲学の分野は心の世界でしょ?
だったら釈尊が心の「法則」を発見していますね。

四諦・八正道です。

心の「法則」で、これを超える或いは覆へす“発見”は未だ無いようですね。
証明は釈尊御自身です。

我々はこの「法則」に接すると、成る程と合点するのです。
そして良き人々は、それじゃあ私も頑張ろう、となるのです。

Qなんで《物自体》なんていうものを言いだしたのか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の先天的形式(範
疇)によって総合的に構成されたものである。

4. したがって、われわれのもっとも素朴な感覚与件でさえ、すでに空間・
時間という主観の形式を経由したものであるから、われわれは感覚を刺激する
外なるものをそのあるがままに認識することができない。

5. それをカントは物自体とよぶ。

6. のち『実践理性批判』においては、物自体の世界を自由の概念と結び付
けて、現象界に対して叡智界(えいちかい)と名づけた。

7. 物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が
集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に
始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であった
ともいえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 解説〔に依拠しその内容〕をめぐって問うといういささか邪道の質問で
すが 次のように問い求めます。


9. もし:
▲(3) ・・・世界は、従来思われてきたように物のあるがままに現れてい
るものではなくて
☆ という条件を前提するのなら すでにそこから帰結する内容は敷かれてい
るのではないか?


10. つまり 《物のあるがまま》〔の姿〕は:

(あ) 人間の能力では認識しがたい。または し得ない。――かまたは:

(い) 認識し得るのだが それは 部分的な内容とならざるを得ない。そし
て 認識そのこともあやまち得る。――さらにあるいは:

(う) 《物》は 《人間が認識しうる言わばその仮象》とそして《認識し得
ない本体》とに分かれる。

☆ といった可能性がすでに孕まれている。はずだ。

11. つまり 前項の(う)から 《物自体》を想定することがあり得たと
しても ただそれだけのことに過ぎない。のではないか?

12. つまり 物自体を想定しようがしまいが 《人間の認識能力には限界
がある》という命題を言ったまでである。と捉えなくてはならない。はずだ。


13. なんでこの物自体が《現象界に対する叡知界》のことに成るのか?

14. 叡知界たる物自体に就くならば 《実践理性》としての《自由意志》
が実現し得て ひとは自由であると成るといった議論に発展するのか?

15. 無茶である。それなら 形而上学的実体なる神を据えている議論と違
わないのではないか?

16. カントは阿呆ではないか?

1.▲(コトバンク:物自体) ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93-142650
[武村泰男]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

2. 物自体(ものじたい)
thing in itself 英語
Ding an sich ドイツ語
chose en soi フランス語

3. カントの用語。カントによれば、われわれの周辺に広がる世界は、従来
思われてきたように物のあるがままに現れているものではなくて、感性の先天
的形式(空間・時間)を通して外から与えられた物が、悟性の...続きを読む

Aベストアンサー

カントはついに神の心を感じる事が出来なかったか、或いは感じようとしなかった、なのでしょう。
それ故に、叡知界を無理やりに理的に解釈したのだと思います。

これでは埒は開かないと思います。

もっと素直に、私のように、人の心は宇宙の本体・霊体の心と本質は同じなんだと、受け止めるべきでした。
霊体に慈悲の涙があるからこそ、我々の心にも思いやりの涙を流せる働きがあるのだと。

Q哲学って簡単に言うとなんですか?

哲学って簡単に言うとなんですか?

Aベストアンサー

人間とは何か、人間が考えるとは何か、という学問です。
例えば、アリの生態や行動を解析して、アリは何を考えて生きているのか、
をまとめれば、「アリの哲学」として出版できます。
犬や猫のほうが大衆受けするかもしれません。

Q思考の技術

を学ぶためにこのカテに来ています。

哲学は総ての基盤だと。

四つのkeywordを挙げて
端的に説明してください。


(欲張りなのはご容赦を)

Aベストアンサー

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばなぬ、自然はどうあらねばならぬ、と論じ始め、それで事実の世界を整理しようとする。ところがそれではうまくいかないことを経験で認識し始めます。そして、理念や理屈をこねくり回す前に、「ところで人はこいう時どう振る舞ってきたんだ」とか、「自然てどうべきかではなくてどうあるのか」という事実の世界を一先ず観測して、その観測事実に基づいて、あとから理屈や理念を後出しジャンケンのように付けてゆくのが筋ではないかと分かるようになってきた。

事実、人類は言葉を使い出して、最初のうちは、理屈だ理念だ哲学だと語り出した。その数十万年にも及ぶ経験の結果、今から2500年ほど前にある意味理念の世界が極限に到達した。それが、孔子や釈迦やソクラテスやそれから500年ほど遅れてイエスです。彼らは人類の師と呼ばれ、いまだに彼らを凌駕する人は出ていないと考えられているようです。そして、彼らは「人間はどうあるべきか」という理念を語った。その同時期にアリストテレスは「自然はどうあるべきか」という理念を語った。

ところが、その後2000年も経っても戦争も病気も無くならず、世の中一向に良くならなかった。そんな痛い経験をして行くうちに、人間が大人に成長して行くのと同じように、人類も、

「ちょっと待てよ、人間はどうあるべきかという理念や哲学を語る前に、そもそも人間はどうあるのかという事実をまず認識しようじゃないか」

と言い出した。それがマキャベリです。そして、政治学という社会科学が誕生した。また同時期に、「自然はどうあるべきか」という理念や哲学を語る前に、そもそも「自然はどうあるのか」という事実をまず認識しようじゃないかと言い出した人がいた。それがガリレオです。そして、自然科学が誕生した。すなわち、人間一人一人も人類も、まず未熟な段階では、

 理念や哲学による理屈づけが先、事実があと、すなわち、哲学 => 科学

という順序で世界を認識してきた。しかしその後、色々な経験をして成長を遂げた結果、

 事実が先、理念や哲学が理念や哲学による理屈づけがあと、すなわち、科学 => 哲学

という順序で世界を認識するように進化してきたのです。その傾向は20世紀以降著しく、特に量子力学や相対性理論の発見以降、世界の認識に対する哲学者の未熟さが白日のもとに曝け出され、世界認識に対する哲学者の権威の座を科学者たちに譲渡してしまったというのが現状です。事実、20世紀以降世界の認識における重要な進歩は哲学者ではなくて、科学者によってなされてきたのが歴史的事実です。

哲学者は人間の性として、どうしても自分の育ち至った経験を通した思索によって、さらに我々が通常使う言語によって、我々の経験を外挿して世の中を認識しようとします。ところが、自然界の認識には、日常言語ばかりでは不十分であり、数学という特殊言語を駆使しないと認識不可能なことがあることが判ってきました。例えば、世界を認識するのに例えば長さがや大きさなどを数値で表し、それを比較すれば、論理的に解ると思っていた。ところが、事実はどうなんだという自然科学の発達で、我々が世界を認識するには「数」そのものでなくて、そのような長さや大きさに対応した「演算子」なる実態がそのような数値で表される量の裏に潜んでいることが本質であることが明らかにされました。このような世界認識に対する事実の発見は、日常言語を使いながら頭に浮かび得るどのような整合した論理的思索をしても、発見できるものではありません。

事実の認識は、カントの言う「総合的真偽の判断」に基づいた認識であり、 理念の認識は「分析的真偽の判断」に基づいた認識です。だから、如何に理念の分析をしても事実の世界は認識できないのです。

科学者に比べて哲学者の未熟さを揶揄って見せた一例として「ソーカル事件」をググってみてください。

もう一点のkeywordに関してですが、哲学は人間の言語で語ります。そして各言語にはそれ特有の個性的な文化がある。例えば質問者んは日本語を話し、日本語をみながら育ってきました。そして、日本語は、漢字という表意文字であり、ひらがなやカタカナは表音文字です。さらに漢字には音読みと訓読みがある。このように日本語は他の言語界では考えることすらできないような多次元的で多様な言語空間を持っているのです。ヨーロッパ語のような表音文字しかない一次元的な単純な言語空間ではない。

当たり前なことですが、多次元空間ではその次元を制限して、より低次元の世界を見ることができる。例えば3次元空間に住む我々は2次元空間を見ることができます。ところが、我々は4次元空間を見ることができません。同じように、多次元に住む日本人は表音文字しかない一次元的ヨーロッパ人のみている世界を簡単に認識できますが、その反対にヨーロッパ人には日本人の見ている多次元的な世界認識を理解することは至難の技なのです。

私は、質問さんが例として挙げたkeywordsがどうして、そんな単純なアルファベットという低次元言語で表されているものだけなのか、理解に苦しむところです。

確かに、

>哲学は総ての基盤だと、

思われていた時代がありましたね。それは人間が成長する仕方とよく似ています。幼児の時に言葉を覚えますが、それが思春期の頃になると、理屈や理念の世界があることに目覚める。要するに屁理屈を言いだすようになる。それで成長が止まってしまう人も中にはいるでしょうが、普通は大人になると理念よりも重要なものがあることを、いろいろな痛い経験をしながら判ってくる。それは事実の世界です。

経験の未熟なものはまず理念を頭でこねくり回し、人はどうあらねばな...続きを読む

Q身近な洗脳を見たことありますか?

洗脳というと、カルト新興宗教のイメージが、強いですが、
私は、身近に、あるいは社会でよく行われている気がします。
政府が国民を、メーカーが消費者を、経営者が従業員を、教師が生徒を、親が子供を、
洗脳していることは多々あると思います。意図的に、あるいは無意識に。
そのような事例を経験、あるいは目撃したことはありますか?

Aベストアンサー

「洗脳は身近なものである」という視点はとても良い事だと思います。

「それが普通、〇〇に決まってる」と口癖のように言う人がたまにいます。
しかし普通の定義は個人によって違いますし、決まってると言っても公的に法的に定められているものではない。
その人が勝手に思い込んでいるだけなんです。

特に世間など周囲の目を気にする我々日本人は、個が弱い為に自分の考えや価値観を社会常識と混同してしまう悪い癖があります。
物事を言っているのは自分ではなく世間なので、自分は発言の責任をとらなくていいから楽なんですね。

私たちは個人の発言を全体の発言のように感じてしまい日々それに踊らされているのです。

誰が言ったのかもわからない考えや価値観がふわふわとそこらに漂い、それを何の疑いもなく受け入れているのはとても恐ろしいと思います。

Q初めて回答しました

なぜ自分ではイケてる回答だと錯覚するのか?
その心理を哲学的に説明出来ますか?

Aベストアンサー

哲学的ではなく哲学者もどきという視点から回答します

回答というシステムそのものが啓蒙的な行為だからです
無知な存在に知見を教える
中には教えてやるって考え方の人もいます

他人が知らない知識を有し、思考をまとめ、誰かに解るように伝える
このプロセスは非常に高度な技術です(知性ではない)
それが完成した後はある種の満足感が伴うものです

実際にイケてるかどうかはお礼、BA、GOOD数で
判断するのも良いかと思います
そして、ここには知識を垂れ流すだけの哲学者もどきがいますので
その様な存在にならないようにご注意を

Q認めたくない現実

あなたにはありますか?
それはどんな?

Aベストアンサー

おそらくあるであろうと言う事。
それは、過去に自分が過ちを犯しておきながら、それを今も知らないという事。それを今も知らないので、今も同じ過ちを継続している可能性があるという事。そしてそれを知り得ない限りは、その過ちは未来にも続くであろうという事。

自分の外に悪がある事を見るのは簡単である。自分の内に確かに存在する悪を自らで見いだすことは容易では無い。自分自身の影に隠れてしまうからである。そこで、他人からの指摘が大いなるチャンスとなる。その指摘が的を得ていようが外していようが、他人から得たその言葉をきっかけに自らを省察する人は賢者である。一方で、聴く耳のない者、耳触りの良い言葉のみに対しての反応しか出来ない者、この様な者が人生を全うすることなくくずおれる。賢者は自己を健全化し、しあわせに至るが、愚者は自ら犯す過ちによって自己を損ない苦悩を受ける。

人は皆苦しんでいる。見難きことであるが、これを先ず人は観なければならない。

意固地になっていても埒は明かない。以上に述べた見難き真実を見て、人は初めて自己を知るのである。

QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q哲学 の勉強が好きな人って、どんな性格的傾向があるのでしょうか?

哲学

の勉強が好きな人って、どんな性格的傾向があるのでしょうか?

Aベストアンサー

理論派の性格で考えることが好きな傾向があります。
具体的でなくて抽象的なことを考えることを好みます。
原理が好きなので数学や物理が得意な理系タイプに多いです。


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