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バルカン半島はオスマン帝国に支配されていたにもかかわらずアルバニア、旧ユーゴスラビアのサラエボがあるボスニア以外はイスラム教が入らなかったのは一体何故でしょうか。

A 回答 (4件)

当時のヨーロッパは国王・諸侯が割拠していました。


割拠というだけあって、その領地は現在の地方自治体並みの狭さでした。(例外はある)
その中にはイスラムの侵略を受けた者もいますし退けた者もいます。
ドラキュラ公の別名で有名なヴラド3世も、退けた者の一人です。
何でも見渡す限りの串刺しで、さしものオスマンも意気消沈してしまったとか。
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イスラム教って, 本来「他人に自分の信仰を押し付ける」性格の宗教じゃないんです. キリスト教と勘違いしちゃダメ.

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もうちょっと正確にいうと, イスラム教にとってユダヤ教やキリスト教は「兄弟」のようなものなので, ユダヤ教徒やキリスト教徒はイスラム教徒に準じた扱いを受けます. 具体的にいうと, 一般人は税金を払いさえすればユダヤ教やキリスト教を信仰していてもかまいません. 実際, キリスト教における古代の 5大教会のうち 4つまでがイスラムの支配下で生き残っています.



相手が多神教の場合は本来敵なんだけどまあ世の中いろいろありまして.
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バルカン半島の宗教分布は主に、3つです。



イスラム(ボスニア=ヘルツェゴビナなどのボシュニャク人)
カトリック(クロアチア人、スロベニア人)
東方正教(セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)



イスラムのボシュニャク人は、歴史的記憶ではトルコ。カトリックのスロベニア人とクロアチア人は、歴史的記憶ではオーストリア・ハプスブルクです。もっと昔で言えばカトリックですので西ローマ帝国となります。東方正教のセルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人の歴史的記憶ではビザンティン(東ローマ帝国)です。

(これは歴史的記憶であって、DNAの先祖がそれであると言う意味ではありません。)


オスマン帝国の最大広域は、ヨーロッパではクロアチアまで支配しました。インノケンティウス3世のような宗教政策を行っていれば、バルカン半島にイスラム教徒がもっと増えていたかもしれません。

しかし、オスマン帝国はオスマンへの忠実と納税をすれば、その地域の宗教での生活を許していましたので、カトリックや東方正教の人たちが、イスラム教に強制的に改宗される事はなく残る事になりました。

これは、現在の標準的な自治とはかなり異なります。現在の国の自治は、国の法律に人々が従うと言うものですが、オスマン帝国は、その宗教の地域がその宗教の仕来りや法に従って生活する事が許されました。勿論、「非ムスリムはムスリムに挨拶をし、敬わなければならない」などを強要したり、細かな弾圧事はありましたが、当時の世界で行われている宗教政策と比較すれば比較的穏健な政策を採っていました。元々、バルカンではビザンティンや西ローマ系の宗教が多くいました。その人たちもオスマンに忠実を誓えばその宗教を許されていましたので、急速に数を減らすという事はありませんでした。




あと、恐らくですが、オスマントルコがクロアチアまで支配した当時は、クロアチアでもイスラム教徒は少なくなかったと思います。しかし、その後はハプスブルクの領土になりましたし、バルカン半島は分裂するたびに民族浄化が行われた歴史を持ちます。少数派は追い出されるか根絶やしにされ、今の形に成ったのだと思います。
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