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私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

A 回答 (39件中11~20件)

一つ分かった事があります。


私は悪で構いません。
それこそ善の心も悪の心も持っています。
それは間違ってる、絶対善はこうなんだよ。
と言われても、そんな風に生きれやしません。
そんな理想もありません。
善と悪の狭間で揺れ動きながら生きて行きます。
綺麗事じゃない世界で。
キリストでも孔子でも釈迦でもなく、まして凡人として生きるだけです。



議論なんてしても仕方ないし、私流に生きていきますわ。

貴方の考えはとりあえず分かりました。
受け入れはしませんが。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。 

 >一つ分かった事があります。私は悪で構いません。<

悪とは公に害をなそうが私欲を優先する事です。公に害を与えてはなりません、悪では困ります。

>善と悪の狭間で揺れ動きながら生きて行きます。綺麗事じゃない世界で。キリストでも孔子でも釈迦でもなく、まして凡人として生きるだけです。<

それは皆さんそうです。私も「私たちは善と悪の間をうろちょろしている存在です」と書いています。一般人は自分の為に生きればいいのです。公に反することをしなければいいのです。無問題です。私が示したのは絶対善ですから理想です。誰もできません、しかし絶対善はちゃんと定義しなければなりません。

>受け入れはしませんが。<

それは仕方ないことです、分かる人にはわかるが分からない人にはわからないと思います。

お礼日時:2019/02/28 20:11

さて、質問の「絶対善」の意味を解説します


(質問者より絶対善を理解してる自信が有ります!)

ここで提唱されてる「絶対善」とは真社会性生物の摂理です
蟻や蜂の生態の話を人間社会に置き換えてるのです
コロニー繁栄の為に個体より集団を優先し
女王(エリート)を頭とし子供>若者>老人>働けない存在
というヒエラルキーが形成されてる
他のコロニー(他の巣の事)とは基本は共存共生ですが
自らの利益(損害抑制)の為なら他のコロニーを破壊する事も是とする

上記の社会システムを「助け合い」とか「思いやり」といった綺麗な言葉で謳い
「殺す」とか「排除する」とかそういった攻撃的な言葉を使わない様、
汚い部分は言及しない様に一生懸命努力したら質問者の文章となるのです
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。 

 >自らの利益(損害抑制)の為なら他のコロニーを破壊する事も是とする上記の社会システムを「助け合い」とか「思いやり」といった綺麗な言葉で謳い「殺す」とか「排除する」とかそういった攻撃的な言葉を使わない様、汚い部分は言及しない様に一生懸命努力したら質問者の文章となるのです<

全く理解されていません。逆です。自然界をバカにしてはいけません、私は本能に比べれば人間の理性など屁のようなものだと考えています。大自然は群れを守り存続させるために試行錯誤して最も群れが存続できるシステムを見つけたのです。それが愛であり思いやりなのです。親鳥が雛にせっせとえさを運んでいます、あれは愛です、愛がなければ群れは維持できません。その愛や思いやりが動物である私たち人間にも引き継がれているのです。愛や思いやり、慈悲の心これらすべてに共通するのが「私より公を優先すること」だと私は見つけたのです。

「私より公を優先すること」と言っても理解できないでしょう、そこで「つまり愛や思いやりです」と書いています。その群れが一番うまくいくのは「私欲を抑えみんなの為と考えること」なのです。これは本能なのです。何十億年も愛や思いやりこそが正しいとして続いてきたのです。自然界では「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」これこそが群れを存続させるため最も優れた方法であるとすでに決定しているのです。それを私は見つけたと言っているのです。

お礼日時:2019/02/28 20:09

この宇宙がそれです。


一言回答すみません。
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僕は初心者なんで、ランキング上位とか、仕事恋愛系の質問には失礼ですが、練習がてら投稿させて頂いています。


ですが、質問者様の投稿は何の質問なのかなわかり兼ねます。内容はだいたい理解できんですが、、
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。 

  絶対善なるものを考えてみて、絶対善はあると考えていますが、私の考えにどこかおかしなところがありますかということです。

お礼日時:2019/02/28 20:09

複数の「群れ」があると思いますが、「群れA」と「群れB」の安寧秩序が不一致の場合は多いはず。


その場合はどうなりますか?
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。 

 >複数の「群れ」があると思いますが、「群れA」と「群れB」の安寧秩序が不一致の場合は多いはず。その場合はどうなりますか?<

群れというのは仲間です。大きな仲間は国民でしょう。あなたが言いたいのは国民Aと国民Bの対立のことでしょう。本来、善には群れを守ると言う性質しかありません。ライオンの群れは他の群れを襲って群れを大きくしてやろうと言う私欲はありません。ですから人間のいない動物の世界には悪はないのです。勿論、大飢饉が起こり自分の群れが存続できないとなればお互いに戦うしかないでしょう。でもその時、善悪はあるでしょうか?お互い生き残る為の戦いは絶対善同士の戦いであり悪はないのです。非情ではありますが強い方が生き残るのが自然の掟なのです。

しかし人間社会には悪があります。自分たちは充分豊かなのにもっと豊かになりたいと言う我欲によって悪が生まれます。ライオンは自分たちが食っていければ他の群れは襲いません、常に群れの保存、秩序が善なのです。

ですから人間の理性による侵略などは人間が作った正しさで考えなければなりません。本来善には私欲をもって他の群れを襲うという悪なる性質はありません。
自分の群れを守る事が絶対善と多くの国民が知っていれば他国を侵略し他国の安寧秩序を乱すのは絶対悪であると自ずから分かってくるはずです。絶対善的考えのない相対主義的な考え「俺こそが正義だ!」これこそが争いを招いてきたのです。

お礼日時:2019/02/28 20:08

主張したいだけならこんなところで質問のふりするのやめなさいな。

討議禁止はサイトのルール。大迷惑。
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「愛や想いやりが大切」 幼児でも理解しているのに、新発見したかの如く発表するのはどうかと思いますが・・・


貴方は自己よりも、その群れを優先しているのですか?
優先すると言う事は、自分が最下位になるんですよ! 貴方の生活は群れの中で最下位ですか?


その「群れ」ってのが崩壊しているから無理なんです。
ヤクザやマフィアの方が仲間やファミリーを大事にしているよ。
仲間内でも喧嘩したり裏切ったり、離婚や家族の相続で揉めたり、会社でも敵同士、群れなんてどこにあるの?無いでしょ。
群れるのは、子供同士の学級やスポーツで応援する時、災害や戦争のときぐらい。
群れって何? 表向きの体裁でしょ。数的有利になる防衛手段なだけ。
皆が、群れてると思うのは大間違い。身内以外は所詮は赤の他人。
そんな他人に親切にする方が、貴方の絶対善の案よりも、もっと素晴らしい心を持った「最 善」ですよ。

愛とは自己犠牲、どれだけ自分の時間や私財を犠牲にできるか?
例えば、子どもが両目を失明した。だれの目でも移植できれば見えるように成る。さあ、誰かがその「善や思いやり」で、片目を提供してくれますか?
貴方が云う「群れ」の人は提供してくれないでしょう! 善と言ってるくせにその程度なんです・・・
ですが、家族なら提供する! それが自己犠牲であって、真の「愛」という事です。

・貴方はその群れに収入や財産を分配しないのは何故?
・その群れの中に困っている人がいるでしょうが、助けないのは何故?
その程度の想いだからです。
貴方の意見は、絶対に真の愛には叶いません!

まずは、援助や人助けできるぐらいに一人前になる方が先決です。
世間のお父さんは、家族を守っている。
余裕があればこそ第三者でも援助できるという事です。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。 



>「愛や想いやりが大切」 幼児でも理解しているのに、新発見したかの如く発表するのはどうかと思いますが・・・
貴方は自己よりも、その群れを優先しているのですか? 優先すると言う事は、自分が最下位になるんですよ! 貴方の生活は群れの中で最下位ですか?<

そんな単純なことは言っていません、私は絶対善を説いているのです。今まで誰が絶対善を説きましたか? 
「私より公を優先する」と言う意味はみんなでみんなの為に一番いいものを考えると言うことです。自分はみんなのことを考えますが、皆さんも私のことを考えてくれるのです。自分が最下位なんてなりません。
例えば国民健康保険がいい例でしょう。国民の為に一番いい制度を作ったじゃありませんか。そりゃ税を高く払う人は不満でしょう、私も最高限度の40万以上はらっていた時もありました。そのときはふざけるな!と思いましたが、やはりその私欲を抑えて国民の為と一人一人が考えなければいいものは作れないのです。

>その「群れ」ってのが崩壊しているから無理なんです。<

崩壊してはいないでしょう、国内いろいろあっても日本人という仲間でしょう。震災時にはヤクザでも炊き出しをして困っている人を助けるのですよ、みんな助け合っているじゃないですか。

>例えば、子どもが両目を失明した。だれの目でも移植できれば見えるように成る。さあ、誰かがその「善や思いやり」で、片目を提供してくれますか?貴方が云う「群れ」の人は提供してくれないでしょう! 善と言ってるくせにその程度なんです・・・<

それはまず家庭の問題です。家族みんなで話し合い誰が片眼を提供するか話し合えばいいのです。自分たちだけではダメなら国民に募金を呼びかければ多くの人が助けてくれるでしょう。何故あなたは国民を信用しないのですか?私には分かりません。

お礼日時:2019/02/28 20:07

No.20です。


噛み合いませんね~。
貴方にとって「同国人は仲間」というのは、どうやら疑問の余地の無い真実のようですが、全人類にとっての真実ではありません。
世界を見てください。同国人同士で殺しあっている国など、幾らでもありますよ。

> 仲間なら震災などで莫大な金を使っても国民は怒りません。しかし世界に対して莫大な金を拠出したら国民は怒るでしょう。

と書いてらっしゃいますが、生活保護にお金を使うこと、障害者にお金を使うこと、高齢者にお金を使うこと、シングルマザーにお金を使うこと、沖縄にお金を使うこと、福島にお金を使うこと、などなど。ネット上で不満を表明している人はたくさんいますよ。
また、外国に大金をばら撒いている安倍首相は、今でも支持者が多いですよね。
いったい、誰が仲間で、誰が仲間じゃないんでしょうか?

ネット上の保守関係の掲示板で問いかけてみてください。
「上記の方々は、貴方の『仲間』ですか?」って。
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この回答へのお礼

>世界を見てください。同国人同士で殺しあっている国など、幾らでもありますよ。<

それは仲間とは思っていないからです。仲間は基本的に殺し合いません、助け合います。

>いったい、誰が仲間で、誰が仲間じゃないんでしょうか?<

極端な週数内検をもってきてもしょうがないでしょう、みんな仲間と思っているから弱者に大金を使うことを許しているでしょう。誰が弱者に金を使うことに大勢で反対デモなどやりますか。日本国民は仲間と思っているでしょう。しかし他国のシングルマザーに金を出したら多くの国民は怒るでしょう。なんやかんや言っても総合的に見て日本人という仲間でしょう。

お礼日時:2019/02/27 20:55

No.14です。

お礼で大体解ったので
とりあえずお礼書いておきます
お礼ありがとうございます

私が絶対善探求者なら全員助ける努力し駄目なら
全員で死にますね。過程で誰かが生き残れば良いのですがね

私が真社会生物的絶対善体現者なら生殖能力に優れてる人を助けますね
てな訳でより若く体力が有る人です。自分の家族とか関係無いです

私が貴方の提唱する絶対善体現者なら勿論仲間を優先します
当然自分の子供。ヤクザと学者なら自分のコロニーに必要な仲間を優先しますね
ヤクザ仲間ならヤクザ。ヤクザが他人なら学者

他の人へのお礼読んで感じるのが
人間でも敵は除外ってこれもう訳わかんね~な
そもそも敵の定義ってなんだろね?
ここの回答者は絶対善的には敵、見方?
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この回答へのお礼

人間の歴史を見ても仲間の群れを守る為に命を賭けて戦ってきた。その群れにとって仲間を守る事が絶対的に正しい事なのです。他の群れもまた同じです。敵から身を守っている生活している人たちが仲間です。今日本人にとって自衛隊が日本国民を守っています。それが仲間です。善なる心は本来仲間を守る為に出来たのです。困っている仲間を助けることが群れの存続になるから愛や思いやりが出来たのです。ですから絶対善は基本的に日本国民の生命財産を守る事なのです。

善はその群れを守る為にありますから敵を侵略するなどの性質は持ちません。ゆえに他国との戦争は理性による正しさで考えればいいのです。善なる心は本能です。赤ちゃんでも善悪は分かるのです。善は本能なのです。みんな絶対的に持っているものなのです。

敵とは仲間に害を与える存在です。たとえば蚊は敵ですのですぐ殺します。ゴキブリもそうです。しかし蝶々は殺しません。敵とは思わないからです。敵と思わなければ思いやりが出来ます。困っていたら助けることが在るのです。でも敵に思いやりをやればその群れは滅んでしまいます。

お礼日時:2019/02/27 20:45

No.19です。

お礼(?)をありがとうございます。

> 勝手ではありません。善とは本来仲間の為にあります、ゆえに善とは基本的に各国国民になります。

何故、「仲間」イコール「同国民」になるのですか?と問うているのですが。
「善とは本来仲間の為にある」ことと、「ゆえに善とは基本的に各国国民になります」の間の重要な部分が抜けています。
「仲間」という言葉の定義に「同国民である」と書いてある辞書でもありましたか?

> >自分のことを傷つけた日本人と、自分に親切にしてくれた外国人がいたとして、どちらかしか救えないとしたら、自分に親切にしてくれた外国人は見殺しにするのが「絶対善」?<
> 基本的に日本人が仲間ですが、敵と思わないものに対しては思いやりは持てます。動物のも植物にも敵でないなら思いやりはやっているでしょう。

「思いやり」なんて緩い話はしてません。
貴方が言う「仲間(=日本人)」と「仲間じゃない人(=外国人)」が居た場合、貴方の理屈では「仲間(=日本人)」の方を助けるのが「絶対善」なんでしょう?
ですが、自分の配偶者が外国人だったら?自分の子供が外国籍だったら?自分を助けてくれた「善き人」が外国人だったら?
それでもその人を見捨てて、「仲間(=日本人)」の方を助けるのが「絶対善」ですか?と聞いているのです。

> 例えば国際問題でも各国は自国の利益ばかり考えます、何故ですか?仲間ではないからです。

それを言うのであれば、同じ日本人でも、自分、自分の親族、自社の利益ばかり考えて居る人など山ほどいます。
何故ですか?「仲間ではないからです」とはならないのですか?
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この回答へのお礼

>「善とは本来仲間の為にある」ことと、「ゆえに善とは基本的に各国国民になります」の間の重要な部分が抜けています。<

善とは仲間の群れを守る為に必要だからできたのです。困っている人を見ると助けたくなるでしょう。つまり群れが一番うまくいくために善なる心、良心が出来たのです。ですから善とは本来仲間の為にあるのです。

>貴方が言う「仲間(=日本人)」と「仲間じゃない人(=外国人)」が居た場合、貴方の理屈では「仲間(=日本人)」の方を助けるのが「絶対善」なんでしょう?<

だから基本的にと言っているでしょう。あなたが外国人と結婚したなら他人の日本人とどちらが仲間と思いますか?外人の妻でしょう。なんで外国人が敵と認定するのですか。

大きく国単位で見れば他国は仲間ではありません。仲間とは自衛隊が守っている国民になります。毎日スクランブルをしているのです。世界は敵もいますが基本的に敵とまで言いませんが仲間ではありません。敵と思わないならそれなりの思いやりはできます。植物にも動物にもできるのです。

>それを言うのであれば、同じ日本人でも、自分、自分の親族、自社の利益ばかり考えて居る人など山ほどいます。<

それは色んな人がいてもやはり仲間でしょう。仲間なら震災などで莫大な金を使っても国民は怒りません。しかし世界に対して莫大な金を拠出したら国民は怒るでしょう。他国は敵とまでは言えませんが仲間ではないのです。

お礼日時:2019/02/27 20:15

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Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
ところで、この常連さんは、今後、このような愚かな大衆を相手にして投稿をされることはない、と思われますか?

Aベストアンサー

ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

<大衆は 絶対的に愚かか?>
こういう質問の仕方が撒き餌効果アリと考えている。
で、エサを撒いている限り自分のほうが魚より賢いのは確かだと悦に入っているわけです。
他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない憐れな輩です。
ま、逆切れして実社会に迷惑かけても困りますし、暇な人が相手してやれば良いかと。
無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

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Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q諸問題の解決方法を見つけました。

私は一つの発見をしました。それは「社会的問題は国民みんなの為にある」と言うことです。例えば憲法改正問題は賛成である、反対であると議論されています。しかし何故賛成、反対なのか、その根拠、理由は何でしょうか?それはやはり国民みんなの為なのです。憲法改正すればみんなの為にならないから改正は反対である。また憲法改正はみんなの為になるから賛成なのです。

つまりどちら側の意見もその根拠はみんなの為なのです。消費税問題も同じです。増税しなければ国民が困るから増税賛成であり、逆に増税すれば国民が困るから増税反対なのです。これもどちらもやはり国民みんなの為が根拠、理由なのです。いじめ問題も体罰問題も不正問題などなどもすべて国民みんなの為に解決しようとしているのです。つまり社会的問題の根拠、理由は全て「国民みんなの為」なのです。

そんなことは当たり前ではないかと言われそうですが、そうではありません。このことが良く分かってない、または良く認識されていないから、いろんな問題がなかなか解決できないのだと思います。この発見はいろんな問題の解決の大きな糸口になるのではないでしょうか。

それでは一番「国民みんなの為」になることは何でしょうか。それは社会が平穏であり、秩序が保たれていることです。つまり社会の安寧秩序です。一歩家を出れば暴漢に襲われたり、作物を作ればすぐに盗まれたりすれば、これはもう社会は成り立ちません。やはり国民の為になる一番大切なもの、最高のものは「社会の安寧秩序」なのです。

また正しい、正しくないは問題があるから必要なのです。問題が何もないなら「正しい」なんて必要ありません。つまり社会的問題を解くには「正しい」が必要になります。では正しいとは何でしょうか。正しいを辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。それでは「あるべき姿」とは何でしょうか。それは正しい根拠、理由です。みんなが正しいと思っている根拠、理由に自分の考えが合致するから「自分の考えは正しい」と言えるのです。

ですから自分が正しいと言うためには正しい根拠、理由がなければならないのです。そしてあらゆる社会的問題の根拠、理由は上記で示したように「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」なのです。
ですから正しいとは、あるべき姿である「社会の安寧秩序の為」に自分の考えが合致していることなのです。つまりこれはあらゆる社会的問題を解決するためのひとつの「方程式」が出来たと言うことなのです。何故なら「社会の安寧秩序」に合致していれば正しいと言えるのですから。

私たちは「正しいとは何ですか?」と聞かれてもなかなか答えることが出来ません。私も多くの人に聞いてみましたが誰も「正しいとはこうである」と答えた人はいませんでした。しかし社会的問題に対する「正しいとは何か?」が分かったのです。それは「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」です。正しいとは何か?それは「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」に道理的、論理的に合致していることが正しいと言うことなのです。

ですから死刑問題なども人権に反するから死刑は廃止すべきであると言うのではなく、また凶悪犯は死刑にすべきであると決めつけるのではなく社会的問題を解く方程式である「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」に合致する方が正しいと考えればいいのである。これにどちらが道理的、論理的に合致しているかと議論すれば、長らく議論されてきてもなかなか結論が出なかった死刑問題もやがて解決に向かうのではないでしょうか。
いろんな社会的問題もすべて正しい根拠、理由である「国民みんなの為、社会の安寧秩序の為」に合致するように考えていけば正しい結論に辿り着けると思います。

どうでしょうか。私の見つけた問題解決の方程式は間違いありませんか?

私は一つの発見をしました。それは「社会的問題は国民みんなの為にある」と言うことです。例えば憲法改正問題は賛成である、反対であると議論されています。しかし何故賛成、反対なのか、その根拠、理由は何でしょうか?それはやはり国民みんなの為なのです。憲法改正すればみんなの為にならないから改正は反対である。また憲法改正はみんなの為になるから賛成なのです。

つまりどちら側の意見もその根拠はみんなの為なのです。消費税問題も同じです。増税しなければ国民が困るから増税賛成であり、逆に増税す...続きを読む

Aベストアンサー

#8です。

>綺麗ごととは「とてもできないようなことを言っている」という意味です。

了解しました。

>あなたはNo6 で「現段階の人類は未だ本能の占める領域が広すぎて、本能の言いなりになる部分の多い自我同士がぶつかりあっている状態」と書いていますが、悪をやるのは理性です。理性のない動物だけの世界に悪は在りません。

はい、おっしゃっていることは非常によくわかります。
おっしゃるところの『理性』は、「本能の言いなりになる部分の多い自我」とお考えいただいてよろしいかと。
本来の理性と、理性と思い込んでいるものとは別物だということなのかもしれませんね。
動物の場合も、単に性欲・食欲以外の自我的本能みたいなものもあったりするらしいです。プライドとか仲間外れとか嫉妬とか、なかなか複雑とのこと。

精神分析の岸田秀だったと思いますが、昔、人間は本能の壊れた動物である、みたいなことを言っていました。
人間が人間である以上、純粋本能にのみ従って、それこそ純粋に生きることは難しいという宿命を背負っているのかもしれません。
理性というか、超自我性をどこまで組み込んでいけるか、といったことになるのでしょうね。

>私たちは人を殺すことはいけないと感じます。このように本能は人を殺すことは悪いことであると知っているのです。
私たちは「善いな~」と感じることがあります。それは本能が快いフェロモンを出しているのです。私たちは本能的に善を感知しているのです、それが正しいの基となっているのです。私たちはすでに本能的に善を感知して生きているのです。

それを妨げているものは何か、ということになりそうですね。
たとえば自分の「善いな~」と他者の「善いな~」がバッティングする場合など。

#8です。

>綺麗ごととは「とてもできないようなことを言っている」という意味です。

了解しました。

>あなたはNo6 で「現段階の人類は未だ本能の占める領域が広すぎて、本能の言いなりになる部分の多い自我同士がぶつかりあっている状態」と書いていますが、悪をやるのは理性です。理性のない動物だけの世界に悪は在りません。

はい、おっしゃっていることは非常によくわかります。
おっしゃるところの『理性』は、「本能の言いなりになる部分の多い自我」とお考えいただいてよろしいかと。
本来の...続きを読む

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
IT化による効率性、利便性は今や否定できません。
ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Q善とは理性的ではないのだろうか?

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html  (赤ちゃんにも善悪は分かる!?)

というような記事を見つけました。まだ理性のない生後数か月の赤ちゃんも善悪は分かっていると言うのです。アメリカのエール大学などの実験で坂道を上る人を助ける親切な人形と邪魔をする悪い人形のお芝居を赤ちゃんに見せたところ、殆どの赤ちゃんは親切な人形を選び、意地悪な人形には制裁を加えた赤ちゃんもいたと言うのです。その他の多くの実験から赤ちゃんは善悪が分かっていると科学的に実証されたと言うのです。もしそうであれば善悪は本能的であり、本能であればみんなが持っているのですから善は絶対的となります。
善とは理性的なものではないのでしょうか?皆さんどう思いますか?教えてください。

Aベストアンサー

>ゆえに絶対的である」←絶対的な善が 何故 悪に染まるのか?・・の説明ができなければあなたの空想理論になる・・

いいえ、絶対的な善は悪に染まっていません。進化によって手に入れた善悪の判断のどこが悪に染まっているのですか?

softshelledさんの善悪の判断は進化に基づいた判断ではなくて、shinwoodの論旨とは全く無関係なsoftshelledさんの善悪の判断に基づいた善悪の相対的な判断の中に悪があると言っているに過ぎません。ですからsoftshelledさんの主張は、shinwoodさん言う進化に馴染んだ判断は善、進化に逆らった判断は悪、と言う善悪の判断の反論にはなっていません。

子供のうちは親や先生の言うことをそのまま受け入れて、この世の中には善悪があるとだれでも思っている時期があります。ところが、思春期になると言葉とは論理であることに目覚め、妙に理屈を言うようになる。その時期になると、親の言っていた善悪の判断に疑問を持ち始め、もしかしたら善悪の判断とは状況に応じた相対的な判断ではないのかと思うようになってくる。

しかし、その思い込みは全く当てにならないのです。何せ、論理に目覚めたばっかりで、当然論理の展開が未熟だ。ですから、本人には屁理屈と理屈の区別が付かないのは普通のことなのです。しかし、人間は成長し色々な苦い経験をして行くうちに、論理も磨かれ、さらに、論理的であるからと言うだけで、そのことが現実として実現されるわけではないと言うことが判ってくる。論理的には無限に可能性があるのだが、現実にはその可能性のたった一つだけが実現していると言う事実が判ってくるようになる。

そのような苦労を重ね、石に齧り付き血の涙を流して全身全霊を捧げて行く過程を経験して行くと、この世の中には思春期の頃に思い込んでいた善悪の相対性が如何に未熟な判断であることが身体で判ってくる。そして、この命をかけて身を捧げた経験をしてくると、この世の中には、本当に善であり悪であることが存在するんだと言うことが判ってくる。これが、あらゆる芸術家や思索者達が認めてきた歴史的な事実なんですね。

そしてそのような深刻な経験を経て、本当の善と悪との判断は、それが進化に馴染むか馴染まないかと言う点にあると絞り込んだのが、shinwoodさんの言いたいことなんだと思います。

shinwoodさん、合っていますか?

>ゆえに絶対的である」←絶対的な善が 何故 悪に染まるのか?・・の説明ができなければあなたの空想理論になる・・

いいえ、絶対的な善は悪に染まっていません。進化によって手に入れた善悪の判断のどこが悪に染まっているのですか?

softshelledさんの善悪の判断は進化に基づいた判断ではなくて、shinwoodの論旨とは全く無関係なsoftshelledさんの善悪の判断に基づいた善悪の相対的な判断の中に悪があると言っているに過ぎません。ですからsoftshelledさんの主張は、shinwoodさん言う進化に馴染んだ判断は善...続きを読む


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