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先の<「名詞」理解の誤り>では、単語としての名詞の意義を問題にしましたが、この名詞や修飾語、修飾句を伴う「名詞句」が文の中で、何を表わすのかの解釈について取り上げます。

文の中での意味とは、話者に認識された個別の対象の認識との関係そのものですが、言語実体観では語の意義がそのまま意味に変化すると捉えるしかなく、意味の本質を理解できずに機能を捉えるしかなくなります。そして、これを現実世界と直結し、いわゆる真理意味説に依拠することになります。

この典形として、西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論―指示的名詞句と非指示的名詞句』(ひつじ書房)を覗いてみましょう。

このタイトルからも明らかなように、「指示的名詞句」「非指示的名詞句」、つまり名詞が指示するという理解がなされています。しかし、指示とは指で指し示すことです。先の<「名詞」理解>でも述べたように、名詞とは実体【概念】の表現であり、事物を直接に指すものではありません。

しかし、上の西山著は「第2章 指示的名詞句と非指示的名詞句」で次のように述べています。

文中での名詞句の意味【機能】としてもっとも注意すべきものは、「世界のなかのなんらかの対象を【指示】する(refer to)という【機能】」であろう。しかし、文中のすべての名詞句がこの【機能】を持つわけではない。文に登場する名詞句のなかには、対象を指示する【機能】をもつものもあれば、そのような【機能】を一切もたないものもある。ここでは、前者を「指示的名詞句」、後者を「非指示的名詞句」と呼ぶことにしよう。/(59P:【】の強調は引用者)

この後、「文から独立に名詞や名詞句それ自体が有している性質ではない。」と断りが書かれてはいますが、たとえ文の中での機能であろうとなかろうと、「名詞や名詞句」が「指で指し示す」というのはナンセンスと言う他ありません。

ごく普通に考えて、西村京太郎の推理小説である『十津川警部シリーズ』(とつがわけいぶシリーズ)の中の名詞句が「世界のなかのなんらかの対象を【指示】する(refer to)という【機能】」を持っていると誰が考えるのでしょうか。では、これは「非指示的名詞句」ということになるのでしょうか。

そうであれば、全編、「非指示的名詞句」のオンパレードとなり小説は体をなさないのではないでしょうか。「指示/非指示」など、語の意義や文中での意味とは本質的に無関係であるというに過ぎません。

そうではなく、これが西村京太郎の頭の中に浮かんだ空想の産物であり、その表現であることを疑う人はいないでしょう。

このような、根本的、本質的な誤認を基に展開されたのが、「日本語研究叢書」と銘打たれた上記学術書です。

このような著作で教育される(た)大学院生や博士課程の学習者は何の疑問も抱かないのでしょうか。単に欧米の学問、思想の後追いに専念するだけで、独自の自律した発想が皆無ということになります。であるとすれば、それ以前の学校教育に根本的な欠陥があると考えるべきではないでしょうか。

なお、「付属語、自立語という誤り」にコメントを戴いた方から、接続、接続詞とは何かについての御意見をいただきましたが、上記の「指示」を「接続」と読み変えたような単純な発想についてイエス/ノウの回答を求められたもので、ことほど単純な問題ではないことを御理解いただけるのではと思います。■

質問者からの補足コメント

  • 但し、著者のために言っておけば、「【浦島太郎】は【竜宮城】に着いた。」という例を挙げ、「フィクションの世界の中の人物や物を指示している。」と想像世界を否定しているわけではなく、文中のある指示的名詞句についてその対象指示はいかに決定されるかは、「高度に哲学的な問題もからみ、なかなかやっかいな問題である」と哲学を持ちだし、可能世界論に依拠することになります。

    こうした論理展開の根底にあるのは、意味とは何かの理解がなく、名詞(句)の指示機能などを持ちだす発想の誤りにあるということになります。

    とはいえ、当方の持ちだした事例の説明も不十分な点もあり、別途さらに詳細な批判を展開したいと考えております。

    まずは、適切な御指摘に御礼申し上げます。■

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/02 08:25
  • 助動詞としての単語なのか、連語の接続詞なのかの基準も持たないのでは、論証以前の辻褄合わせと言われても反論できないと思いますが。

    なにせ、こうした本質的な点を逃げ回り、足払いや、「三浦の本を探して覗いてみま【しょう。】」と、お得意の思わせぶりなコメントには閉口します。

    できれば、哲学の終焉、科学時代の観念論の誤り等、基本的な点を理解、確認の後に適切な批判をいただければ幸いで、当方も誤りを正すに異存はなく、新たな展開を考えてまいりたいと考えます。■

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/03 23:36
  • なお、「言語哲学(分析哲学)に関しては全くの素人」のnwsaburooが「指示」の理解を問題にされていますが、これはn氏自身が言語哲学の「指示」はもっと神秘的な意義を持っている筈だという思い込みからくる誤解のようです。

    金水敏氏が「主として形式意味論で広く採用されている捉え方」というのは誤りではありませんが、「指示」という語は、当然それ以前から使用されており、中世「普遍論争」でのW&M・ニ―ルの『論理学の発達』の中の代表理論に関する一節を引用しておきます。

    「意味表示と代表作用の区別は、多分アベラールの一般名の使用に関する考察からなにほどかのヒントを得たものであろうが、出だしとしてはよかった。ところが、代表の概念が十分に解明されるということは決してなかった。というのも、代表という語は、固有名または確定記述によって個体を【指示】する場合にも、↓

      補足日時:2019/08/05 10:21
  • →そしてまた一般名が特定の諸個体を包摂するような場合にまで用いられてしまったからである。」
    〔山内士朗『普遍論争―近代の源流としての』平凡社ライブラリー:1900/2008年1月〕
    (【】強調は引用者)

    もっとも、この原書の「指示」が「refer」であるか否かまでは確認していませんが。■

      補足日時:2019/08/05 10:23
  • nwsaburoo サンへ

    ストローソン「指示について」を読まれないまま指示について論じられているようなので、別に質問を立てていただければ内容を纏めて説明させていただきますが。■

      補足日時:2019/08/10 09:37

A 回答 (5件)

質問があります。

その筆者は何も実例を挙げず、その論を進めているのですか。「指示する名詞句」の実例は一つも無いまま、この論議は進められているのですか。
 しかし、その具体例もないのに、あなたはここに結論だけ書かれたのも感心できないと思います。これでは他の方も、同様な回答をなさる可能性があります。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の適切な御指摘をありがとうございます。

まず、著者の挙げている例は次のようなものです。

次の各文に登場した「洋子の好きな作曲家」は、いずれも世界のなかの個体を指すという意味で指示的である。

 (1) 【洋子の好きな作曲家】は病気だ。
 (2)  太郎は、【洋子の好きな作曲家】に手紙を書いた。
 (3) 【洋子の好きな作曲家】が昨晩死んだ。
 (4) 太郎は次郎に、【洋子の好きな作曲家】を紹介した。

一方、後述するように、同じ名詞句【洋子の好きな作曲家】が次のような文に登場した場合は、いずれも非指示的であるとみなされるのである。

 (5)あの人は、【洋子の好きな作曲家】だ。
 (6)【洋子の好きな作曲家】はあの人だ。
 (7)【洋子の好きな作曲家】がショパンからバッハに変わった。
 (8)太郎は次郎に、【洋子の好きな作曲家】を教えた。

このように、同一の名詞句が述語との関係によって指示的になったり非指示的になったりするのであるから、「指示的名詞句」「非指示的名詞句」というカテゴリーは、特定の名詞句自体に内在する性質ではないことがわかる。/

ということですが、このような同一の名詞句を「述語との関係によって指示的になったり非指示的になったりする」というのは、文の意味とは何かが理解できずに、文を実体視し、その意味を世界の中の個体を指すか否かという名詞の【機能】を問題にするしかなく、話者の認識との関係である表現過程ではなく、表現世界という結果と結びつけ理解するという因果を逆転した論理を展開したことに依ります。

この結果、次のような奇妙な理解、論理が生まれます。

 (25) 太郎は【学生】だ。
 
を取り上げ、

 この文の主語名詞句が世界のある個体を指示し、それについて何かを語っていることは問題ないであろう。問題は述部に登場する下線部の名詞である。「学生」は世界のなんらかの個体を指示するものではない。もちろん(25)は、「太郎」である人物を指示し、「学生」である人物を指示し、前者と後者は同一物だ、といっているのでもない。むしろ、このばあいの「学生」は、「学生性」とでもいうべき属性を表わし、その属性を主語「太郎」の指示対象に帰しているのである。/

という先に<「名詞」理解の誤り>で指摘した名詞の本質が全く理解されていません。

以下、補足へ。

お礼日時:2019/08/02 08:24

大体意味が分かりました。

「指示」とは「この人」、「このもの」という特定化が出来ること意味しているようですね。推理小説で言えば犯人の特定化ですね。しかし、そのことが名詞句の性質にどうかかわるかは、この段階ではよく分かりません。
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この回答へのお礼

適確な質問を有難うございます。

より理解を深めるのに資することができれば幸いです。

御存じとは思いますが、代名詞、又は指示詞と呼ばれる、「こ/そ/あ/ど」の本質は、対象と話者との関係認識であることを時枝誠記が指摘しております。この本質を理解できないため、名詞に代わる代名詞、対象を指示するという機能を本質と取り違えた指示詞と呼ばれているのが現状です。

そして、この代名詞の機能を名詞、名詞句にまで拡張したのが著者の発想で、この出発点に本質的な錯誤があります。

すでに、<「名詞」理解の誤り>で指摘した通り、名詞の本質は対象を実体概念として捉え表現したもので、名詞句の場合はこの実体の在り方、内容、因果関係等が加わった、より詳細、具体的な実体認識の表現であり、著者の言うような指示/非指示などの意義、意味を表わすものではありません。

名詞句を主述に持つ文はこの実体の相互関係の認識を表現するもので、この結果から指示/非指示の機能を見出すのは因果関係を逆転した発想でしかありません。

なぜそうなるのかと言えば、言語実体観では、意義と意味の区別ができず、意義が直接意味に変化するという非媒介的な捉え方しかできません。意義と意味の関係と相違を捉えられなければ、結果としての機能をあたかも本質とするしかないことになります。このような、ズルズルべったりの発想の誤りが根底にあります。

このため、述語名詞句が実体認識の表現ではなく、指示的であったり非指示的であったりというピント外れの捉え方をされ、そこから議論が展開されているのが本書の実態です。

推理小説の意味(内容)の実体は、作者の脳の中の空想であり、その対象の実体認識が名詞句で表現されているもので、読者はこの関係を正しく追体験することにより、作者の空想を自分の脳の中に再現することができます。

この実体認識の表現を指示/非指示などと理解したのでは推理を追体験することは出来なくなってしまいます。

こうした点を指摘したものですが、その前提まで触れると記述が煩雑、複雑となり、ある程度それらを期待せざるを得ませんが、適確な質問をいただき、回答することにより理解を深めていただければと願っております。■

お礼日時:2019/08/02 16:52

「指示」という述語について。



「指示」は、国語辞典では「指で指し示す」ことかもしれませんが、言語学・言語哲学の専門的な術語の一つとしては、別のものです。(refer to~, reference の訳語ですね。)

私は、言語哲学(分析哲学)に関しては全くの素人ですが、「指示」がそちらの重要な用語であることは知っていました。

例えば、服部裕幸『言語哲学入門』(2003)という本は、

  第一章 言語哲学とは何か
  第二章 意味と指示

という章立てになっています。ほとんど最初のトピックが「意味と指示」なんですね。
フレーゲ、ラッセル、ストローソンなどという名前が連なり、ラッセルとストローソンにはそのものズバリの「指示について」という論文があるそうです。

その内容については、私にわかるわけもなく、ちょうどいい次の資料が見つかったので引用しておきます。

  畠山雄二編『最新理論言語学用語辞典』(2017)
   第8章 言語哲学
    第3節 意味特性・内容・外延
     言語表現は概念内容と指示対象をもつ。たとえば「フランス大統領」は
     フランス大統領という概念を表し、フランソワ・オランドを指示する。
    「私」は話し手という概念を表し、この語を発した特定の人物を指示する。
(p. 300)

もちろん、これだけで何かわかったようなつもりになってはいけないわけで、上の本、またはこの辞典にあげられている参考文献をいろいろ読んでみなければいけません。

言語哲学に影響されてか、あるいは独自にか、言語学意味論のほうでも 指示reference は重要な概念です。

意味論の古典である John Lyons : Semantics I (1977) は、

   第7章 Reference, sense and denotation (pp. 174-223)

で50ページを使って解説しています。その中で、

   第2節 Reference (pp. 177-196)

だけで20ページあります。細かい字で、大きな本です。

日本語で書かれた意味論の本では、これがいい、とお薦めできるような本を知らないので、やはり Lyons の本がいいのではないかと思います。

もう一つ、もっとお手軽なところでは、「欠陥事典ではないか」と言われてしまった『日本語文法事典』に、「指示」が項目として立てられています。

ごく一部を引用します。

  『日本語文法事典』「指示」 [金水 敏]
  1.指示とは
  (1)主として形式意味論で広く採用されている捉え方で、あらゆる文および
    その成分は、言語外の世界に指示対象をもつと考える場合の、文・文の
    成分と指示対象の関係。(以下略)
  (2)名詞句にかぎり、文中の名詞句と外界の指示対象との対応関係を指す概念。
  (略)なお名詞句は指示対象を持たない場合もあり、指示対象の有無によって
    名詞句は指示的用法(rererenntial use)と非指示用法(nonnreferential use)に
    分けられる。例えば「猫は利口だ」「猫がテーブルの下にいる」における「猫」
    はともに指示対象を持つので指示的用法、「ミケは猫である」の「猫」は非指示
    的用法である。即ち「猫」の意味には、「”猫”としての属性」と「”猫”と
    しての属性を持つ指示対象」の両面の意味があり、後者の機能を持つものを
    指示的というのである。
  (3)指示詞(指示語)や代名詞と、その指示対象との関係、(以下略)
(p. 250)

この(2)が西山の議論と同じ用法ですね。

「指示」という用語、そのとらえ方は別として、「ネコが」という時と、「ネコだ」という時の「ネコ」の用法が別だということは昔から言われていて、三上の名詞文の「措定」「指定」の区別、というのもこれと同じですね。それを文の性質ではなく、名詞の用法として論じ、きわめて詳しい論を展開したのが西山の仕事です。

私は西山の議論にそのまま賛成しはしませんが、非常に興味深い論だとは思っています。

意味論というのは、非常に広く、またそれぞれの分野で深い議論がなされています。
自分だけが「意味とは何か」について「正解」を知っていて、他の論は全部間違いだなどという視野の狭い、不勉強な人が何か言っていても、気にしなくていいと思います。

しかしまあ、「指示」が専門用語だと知らず、国語辞典的な「指で示す」という用法に当てはまらない!、などと批判する人がいるとは、なかなか面白いです。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

>>「指示」は、国語辞典では「指で指し示す」ことかもしれませんが、言語学・言語哲学の専門的な術語の一つとしては、別のものです。(refer to~, reference の訳語ですね。)

別ではあっても、「指で指し示す」という意義と本質的に代わるものではありません。(refer to~, reference )という捉え方、使用法自体が誤りであることを指摘しているものです。下の回答を再記します。

御存じとは思いますが、代名詞、又は指示詞と呼ばれる、「こ/そ/あ/ど」の本質は、対象と話者との関係認識であることを時枝誠記が指摘しております。この本質を理解できないため、名詞に代わる代名詞、対象を指示するという機能を本質と取り違えた指示詞と呼ばれているのが現状です。

この点を回答者はご存じないようで、何をかいわんやです。これは、『日本文法 口語篇』(岩波全書:1950年)で指摘された内容で、これに基づき鈴木覺はフランス語の代名詞論について『ラルース言語学事典』(1973)の誤りを指摘し、

他の語の代用を以って<代名詞>ないし、<代用語>の本質と規定することは正しいであろうか。/
(「関係詞論」『言語過程説の探求 第一巻』明石書房:2004.12)

と提起し、その誤りを論じています。この代名詞を指示詞と呼び替えたところで、何ら本質的な規定にならないことは明らかかと思いますが。

>>私は、言語哲学(分析哲学)に関しては全くの素人です。~その内容については、私にわかるわけもなく~

ならば、つべこべ言わないで、その内容が誤りであることを理解できるまで読み込み発言して下さい。
分析哲学系の誤りは、当方が下記他で指摘しています。

「鋭い20世紀言語学批判と、哲学という非科学的な形式論理の限界」
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R30 …

以下、#3のお礼欄へ。

お礼日時:2019/08/03 14:12

No. 3 の一行目、誤植がありました。



  述語 → 術語

失礼しました。

saburoo
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この回答へのお礼

#4 のお礼欄よりの続き。

当方は、ピーター・F・ストローソンの「指示について On Referring」(『現代哲学基本論文集 Ⅱ』勁草書房 1987.7)の内容が誤りであることを理解した上で、ここで論じられ、また西山も取り上げている”The king of France is wise”という文の”The king of France”に関する馬鹿げた議論を念頭に批判しているものです。

なぜ、こういう馬鹿話になるのかは明白です。時枝が指摘した言語表現の過程的構造が全く理解されていないからです。言語が、話者の発言としてではなく単なる煉瓦的実体として捉えられ、それを直接現実と結び付ける発想の誤りです。”The king of France”が話者の認識と対応するのであることは少し考えれば明らかなことでしょう。

西山著はこうした、西欧分析哲学とソシュールパラダイム下の機能主義言語論のごった煮の産物に過ぎません。

>>「意味とは何か」について「正解」を知っていて、他の論は全部間違いだなどという視野の狭い、不勉強な人が何か言っていても、気にしなくていいと思います。

別に、個人的にどうこうではなく、現在のソシュールパラダイム下の言語論がカントの不可知論哲学に基づいている以上、不可知なものの意味論など築きようがないという事実を指摘しているもので、詳細は三浦つとむ『言語学と記号学』(勁草書房:1997.7)を参照下さい。

相変わらずの頁数や権威に依拠した、内容のない批判は慎まれた方が身の為かと思念します。■

お礼日時:2019/08/03 14:15

相変わらずですねえ。



私の短いコメントの内容がきちんと読み取れない人が、言語哲学の論文や本が読めるのでしょうか。

  >>「指示」は、国語辞典では「指で指し示す」ことかもしれませんが、言語学・
  言語哲学の専門的な術語の一つとしては、別のものです。(refer to~, reference の
  訳語ですね。)

   別ではあっても、「指で指し示す」という意義と本質的に代わるものではあり
   ません。(refer to~, reference )という捉え方、使用法自体が誤りであることを
   指摘しているものです。


「別ではあっても」ということは、「指示」が「指で指し示す」ことではない、ということを認めているわけですね。
そりゃそうですよね。

   「名詞や名詞句」が「指で指し示す」というのはナンセンスと言う他ありません。

なんて書いてしまったんだから。この言こそまったくナンセンスです。

でも、相変わらず往生際悪く、「本質的に代わるものではありません」なんて書く。
こういう、多少は学問・研究に関わる議論の中で「本質的に」なんていうのは、まあ、ごまかそうとするときだけですね。まじめな研究者は、「本質」なんて言葉を軽く口に出しません。(あ、失礼。質問者は「研究者」ではありませんね。)

「reference 指示」という考え方に疑問を呈するなら、そう書けばいいのです。
   「名詞や名詞句」が「指で指し示す」というのは、、、
やっぱり、「指示」という術語を知らなかったんですね。

で、「代名詞、又は指示詞と呼ばれる、「こ/そ/あ/ど」の本質」って、、、
なんでこの話がここに出てくるんですか?
私、そんなこと書きました?

「この点を回答者はご存じないようで」はい、知りませんでした。
reference って、<代名詞>の話なんですか?
(この辺、私はすでに書いたように分析哲学の議論を知りませんので、私の基本的な勘違いである可能性もあります。図書館で調べてみたいと思います。)

で、「分析哲学系の誤り」なるものの話へ行って、土屋俊の本の書評が出てきます。

それも私の話とは関係ないんですが。
相手のコメントの内容をきちんと読み、それに反論するのでなく、ただただ自分のいいたいこと、思いを書き連ねるだけ。

仮に、土屋俊の本の内容が大したものでなかったとしても、それで分析哲学全体を否定する根拠には<まったく>(ここ強調)ならないんですけどね。

この辺が、前にも書いたとおり、質問者の「論証のしかた」、論理の進め方がオカシイ、ところですね。
欧米で発達した分析哲学を、それを勉強した日本の哲学者一人の書いた本をこきおろすことで、その全体を否定する根拠とする、そんな論理はどう考えても成り立ちません。

哲学の本を読んで、本当に理解しているのですか??

質問者の議論を読んでいると、その良しとする時枝や三浦つとむの議論も同じ程度の粗雑なものなのかと思いかねませんが、多分、そうではないのでしょう。

前に、「付属語、自立語という誤り」の質問の中の「論証」がまったく論証になっていない、ということを指摘したのですが、質問者はその指摘の意味がわからなかったようです。
それでも、接続詞に関する三浦つとむの議論を(おそらく)自分の議論の補強として引用したのですが、その三浦の議論を見ると、きちんと筋が通っていて(論証のしかたが、ですよ。結論の是非は別です)、おやおや、質問者はこの三浦の議論のしかたを知りながら、自分はそれに従わず、重要な部分を省いた欠陥論証を書いて、どうだ、と反り返っていたんだ、ということが明らかになりました。

たぶん、三浦は、いろいろな点について、もっとましな議論をしているのでしょう。
三浦の本を探して覗いてみましょう。

(しかし、ストローソンの論文「指示について」を読んだという人が、「「名詞や名詞句」が「指で指し示す」」などと言うことをどうして書いてしまうのか、いまだに謎です)

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

しじ【指示】
( 名 ) スル
〔「しし」とも〕
① さし示すこと。
② 指図すること。また、その指図・命令。 「計画の中止を-する」 「その点については-がなかった」 「 -書」【大辞林】

で、指で指すか、鼻で指すかは別としても、「さし示すこと。」に変わりはありません。

>>言語哲学の論文や本が読めるの【でしょうか。】

いつもご隠居風の思わせぶりの表現には恐れ入ります。

>>「reference 指示」という考え方に疑問を呈するなら、そう書けばいいのです。

そう書いているつもりですが、御理解いただけないのは当方の至らないところです。では、「reference 指示」とは、具体的に何でしょうか。

『日本語文法事典』「指示」 [金水 敏]の「指示」項も「言語外の世界に【指示対象をもつ】と考える」と言うように、適切な理解と考えます。

>>図書館で調べてみたいと思います。)

是非、当方の指摘した論文を含めてご確認いただき、誤り等をご指摘戴ければ幸いです。
当方も前回、さっそく『日本語文法事典』を確認し、当方の問題提起に問題のないことを確認致しました。

>>欧米で発達した分析哲学を、それを勉強した日本の哲学者一人の書いた本をこきおろす

これは、ほんの一例で、カント哲学以降のヘーゲルによる批判、マルクス/エンゲルスによるヘーゲル弁証法の転倒と哲学の終焉を視野に‏入れたもので、論理実証主義やアメリカ言語哲学である、サ―ル、ローティ、クワインの観念論哲学に対する唯物弁証法に基づく批判ですので、その辺も考慮いただき、ご指摘いただけると幸いです。

>>前に、「付属語、自立語という誤り」の質問の中の「論証」がまったく論証になっていない、

論証以前に、

<現在の形式主義/機能主義的な言語論が「語」とは何か、というもっとも基本的な問題さえ解決できていないその非論理性を指摘しているものです。

<いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説>は、この語の定義からすれば、正しく典型的な形式主義/機能主義的な発想の誤りというしかありません。

単純に考えても、語でないものを発【語】したり、記述したり、受け手が理解できるわけがありません。/
 
という指摘をさせていただきましたがいかがでしょうか。

→補足へ。

お礼日時:2019/08/03 23:27

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