
形式主義/機能主義的な文法論の誤りについて見解を伺うべく、「形容動詞という誤り」「接続助詞《ので》という誤まり」「形容動詞という誤り No.2」<「名詞」理解の誤り><「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?><『日本語文法事典』〔日本語文法学会 ;2014/6/25)〕の欠陥>を提起してきましたが、
そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。
<「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?>では、名詞の指示という機能を本質と取り違える誤りを指摘しましたが、もう一つの根本的な誤りは、上に指摘した生成文法の文を話者から離れた実体、煉瓦的構成と見る、いわゆる言語実体観の誤りです。
この事実を、
西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論―指示的名詞句と非指示的名詞句 (日本語研究叢書)』(ひつじ書房:2003/10/1)
http://www.hituzi.co.jp/books/180.html
から指摘しておきます。
西山は第 3 章でメンタル・スペース理論を紹介し、次のようなコピュラ文の、坂原茂の解釈を取り上げる。
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
これは、役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとることを現わしている、とされる。と紹介している。
そして、この種のコピュラ文をメンタル・スペース論者は「同定文」と呼び、著者は「M‐同定文」と名付け、次のように主張する。
さて、M‐同定文「AはBだ」は、主語と述語名詞句を交換して、「BがAだ」に【(意味を変えないで)】変換できる。したがって、(101)を(104)のように変換しても【意味は変わらない】。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
(104)は、「倒置されたM‐同定文」だ。/(同書P148:【】強調は引用者)
さて、(101)と(104)の【意味は変わらない】のか。
いや、著者の指示名詞句/非指示名詞句という寝言に惑わさなければ、これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実であろう。
生成文法の、話者とは独立に文という実体が存在するという錯誤が生んだ妄想に過ぎず、これを無批判に受け入れた著者の錯誤である。
そもそも、<役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとる>というメンタル・スペース理論が、文を話者から切り離し、対象世界と直結する誤った事実誤認に基づくことが理解できるであろう。
これは、現在の意味論がどの程度のものかをも示している。
このような、根本的な事実誤認に基づく非論理的な誤った論理展開がなされているのが、「日本語研究叢書」と銘打たれた本書であり、「日本語研究叢書」なるものの、根本性格である。
この事実をどのように、理解されるのであろうか?■
A 回答 (36件中1~10件)
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No.36
- 回答日時:
カテジナさんはバブめない。
『ラッセル(著),清水義夫(訳)「指示について」-Bertrand Russell』https://russell-j.com/cool/0075-DEN.HTM特殊なのは雄の三毛猫です。なぜなら数が少ないからです。反対に普遍なのはキジトラ猫です。なぜなら数が多いからです。
No.34
- 回答日時:
お答えありがとうございます。
しかしまあ、ごまかしの種は尽きませんね。
>上の(C)の文は、「特殊性の下での特殊性の認識」になってしまいませんか。
なっていません。
若干わかりづらい所はありますが、条件節になっているということです。
おやおや、今度は「条件節」ですか。しかし、どこが??
その後に説明は続かないんですか。いつもなら、ぐだぐだと知ったかぶって書くのに。
さすがに、ないものは書けませんよね。「条件節」の亡霊はいずこへ?
ソシュールパラダイム下の発想
こればっかりですね。ちなみに、私は、質問者が「ソシュールパラダイム」なるものを理解しているだろうとは思っていません。
たぶん、ソシュールを読んだことはなく、時枝と三浦の批判を読んだだけなのでしょう。
まあ、それはどうでもいいことです。
なによりも、具体的な日本語の文法の分析がでたらめ、場当たり的な説明(「説明」とも言えないレベルの)に終始しているのだから。
結局、予想通り、「特殊性の認識」「個別性の認識」、それに「普遍性の認識」なる、最後までその内容は不明のままの「認識」たちによる「ハ:ガ」への当てはめは破産したということで、この長い問答は終わりにしたいと思います。
質問者の応答がしどろもどろになってきたので、これ以上はむだでしょう。
しかし、もう少し日本語の文法を勉強したほうがいいと思いますね。
saburoo
早速の応答をありがとうございます。
いつもの、中身の無い、応答がしどろもどろになってきたので、これ以上はむだでしょう。
しかし、まず言語とは何か、文法とは何かを明らかにするところから始めなければなりませんね。■
No.33
- 回答日時:
早速のお答え有難うございます。
あれ? 気づかなかったんですか、ご自身の自己矛盾に。
今回、
「特殊性の下での特殊性の認識」はあり得ず
と書いていますが、前に、
(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
では、清少納言や小野小町との比較による特殊性の認識が「紫式部【は】」という表現に
なっています。
と書いていましたよね。
そして、
>D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。(略)
「清少納言や小野小町ではなく」という特殊性の下での個別性の認識という特殊-個別の
認識構造です。
この(D)が「「清少納言や小野小町ではなく」という特殊性の下での個別性の認識」なんだから、上の(C)の文は、「特殊性の下での特殊性の認識」になってしまいませんか。
「あり得ず」の文が、ちょっと前には堂々とご自分で書いた文である、ということ。
それを、このNo. 32で示したつもりなんですが。
その時その時で違う説明をされては困ります。場当たり主義的な。
あ、もう一つ。(E)と(F)の、「~は」と「~ではなく」が一つの文に出てくるのはどうなりますか。これらも、上の(D)に対する説明から考えると、「特殊性の下での特殊性の認識」になってしまいませんか。
saburoo
早速の応答をありがとうございます。
>上の(C)の文は、「特殊性の下での特殊性の認識」になってしまいませんか。
なっていません。
若干わかりづらい所はありますが、条件節になっているということです。
名詞句などという馬鹿話にはつきあっていられません。
まずは、他でも回答した通り、個別/特殊/普遍の概念と判断の立体的な構造をきちんと理解して下さい。
ソシュールパラダイム下の発想であれこれ言っても議論が錯綜するだけです。■
No.32
- 回答日時:
お答えありがとうございます。
これは、<特殊性の認識を表す「は」の付いた名詞句はありません>というところに
露呈しています。
「清少納言や小野小町では」で、この「で」は肯定判断辞「だ」の連用形で、これを
特殊性を表わす「は」が受けています。時枝の云う、入子型の認識構造です。
えーと、「小野小町で」は「名詞句」ではないんですが、まあ、文法用語を知らない人とそういう厳密な話をしてもしかたありませんか。
なるほど、「~ではなく」の「は」が特殊性の認識を表すのですか。
前にこの話はありましたね。忘れていました。(No. 8の「お礼」から)
(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
では、清少納言や小野小町との比較による特殊性の認識が「紫式部【は】」という表現に
なっています。
そして、「清少納言や小野小町で【は】なく」の「は」は無くても、意味が通じ、
ここでは格助詞「だ」の連用形「で」と組み合わされ、「この傘で【は】濡れてしまう」
の「は」と同じように、山田孝雄の云う「事物を判然と指定し、他と混乱することを
防ぐ」限定という機能を果たすと特性性を表わす「は」です。
ここで「「清少納言や小野小町で【は】なく」の「は」は無くても、意味が通じ、」というところは、ちょっとご都合主義の感じもしますが、まあ、いいことにして、で、「~ではなく、紫式部が~」の文は、
>D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
なぜ、「比較対照」と「個別性の認識の「が」」がうまく一つの文に収まってしまうのか、
いと易いご質問です。
「清少納言や小野小町ではなく」という特殊性の下での個別性の認識という特殊-個別の
認識構造です。
「特殊性の下での個別性の認識という特殊-個別の認識構造」ですか。なかなかおもしろいですね。
(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
はどうも「は」がぴったりしません。
はどうしてうまくないのか。これこそ、「「特殊性の下での特殊性の認識」で、ぴったりする
はずだったんじゃありませんか?
>「特殊性の下での特殊性の認識」
はあり得ず、普遍性の下の特殊性、特殊性の並置はあります。
あれ? さっきの(No. 8の「お礼」から)では、
(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
では、清少納言や小野小町との比較による特殊性の認識が「紫式部【は】」という表現に
なっています。
だったんですよね。そして、
>D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。(略)
「清少納言や小野小町ではなく」という特殊性の下での個別性の認識という特殊-個別の
認識構造です。
でも、
「特殊性の下での特殊性の認識」はあり得ず
だったら、最初から「清少納言や小野小町ではなく、紫式部は」というつながりは全然ダメだったという話になりません?
ご自分の書いていること、ちゃんとわかってます?
(E) 源氏物語の作者は、清少納言や小野小町ではなく、紫式部だ。
(F) 紫式部は、枕草子や蜻蛉日記の作者ではなく、源氏物語の作者だ。
こういうのも、「特殊性の下での特殊性の認識」ではないんでしょうね。「あり得ず」だから。
いや、なかなか他人の理論はわかりにくいものです。
saburoo
早速の応答をありがとうございます。
>なかなか他人の理論はわかりにくいものです。
新たなパラダイムに思考を切り替えるのは極めて困難で、相当の努力を要します。■
No.31
- 回答日時:
No.28でコメントした者です。
>当方のコメントを再三ブロックし、この段階で相当無礼だと思います。
なぜそういうことになるか、質問者がよくわかっているはずです。
〈「一方的な主張」というスタンス〉に固執するコメントを繰り返し、ときには他のかたのコメントに的外れな批判(「言いがかり」という人もいます)をするからです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11235456.html
当方のNo.5のコメントに対して有意義なコメントをいただけないのなら、場所をかえることにします。
早速の応答をありがとうございます。
>なぜそういうことになるか、質問者がよくわかっているはずです。
まったく理解できません。
回答者の理解力の無さを糊塗するものとしか思えません。
>「一方的な主張」というスタンス
お友だちのN氏も、<「正しい」かどうかはまた別の問題としても)>などと寝ぼけたことを言っています。
一方的ではなく真偽の問題で、正しい主張と、誤った主張があり、正しいのは一方しかありません。
つまり、当方の主張が正しく、あなたの主張は誤りだと指摘しているもので、それが誤りだと主張するのであれば、具体的な反論を述べれば良いだけです。
それができずに、再三ブロックとはこの段階で相当無礼だと思います。
>当方のNo.5のコメントに対して有意義なコメントをいただけないのなら、
既に回答済みですが、<「は」「が」構文の相違>が理解できていないので、<有意義なコメントをいただけない>としか理解できないのですね。
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。 → が紫式部である。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。 → 紫式部は源氏物語の作者だ。
「である」、「だ」の相違は回答の通りです。
(101)の相違は、前者は、他の物語ではなく、(源氏物語の)作者という作者の特殊性の認識を表わす文ですが、後者は「源氏物語の作者」という個別認識を表わすもので、他との比較・対照の認識はありません。
(104)は逆の関係にあることは理解できますよね。
当方は文末の単調さをやわらげるために、「主述の入れかえ」という方法を使います。
:
これも〈これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実〉でしょうか。
「主述の入れかえ」が意味の変更を必然とすることは、中学生にでも判る事実でしょう。
意味とは何かが理解できていないため、こういう寝言が出て来ます。
下記を参照下さい
「三浦の関係意味論」
http://www.languetech.co.jp/e_1_4_3.html
なお、下記「言語の過程的構造と自然言語処理 」を理解できるまで読み、現在の言語論の欠陥、言語表現の過程的構造を正しく理解して下さい。
http://www.kcn-kyoto.jp/~sat/data/publications/1 …
■
No.30
- 回答日時:
お答え有難うございます。
>「大きな」話がつくづくお好きですね。
木を見て森を見ざる話しがつくづくお好きですね。
うん、これはうまい! 座布団一枚、というところですね。こういうセンスはいいのですね。
> たしかに、「源氏物語の作者は清少納言か小野小町か?」という問いの回答としては、
清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
が自然な回答です。
とあります。これは認めたわけですね。
ごく普通の回答ですね。
おお、やっと少し素直になりました。
> 「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者です。」
まあ、たしかに自然というよりは廻りくどい言い方ですね。無理にお答えしたので。
ここは素直ではありませんね。「回りくどい言い方」などというレベルではありません。
日本語のテストなら、はっきり×をつけます。ゼロ点。
>D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
なぜ、「比較対照」と「個別性の認識の「が」」がうまく一つの文に収まってしまうのか、
いと易いご質問です。
「清少納言や小野小町ではなく」という特殊性の下での個別性の認識という
特殊-個別の認識構造です。
あれ? 「清少納言や小野小町ではなく」自体が「特殊性」なのですか? 単に比較の対象ですが。
特殊性の認識を表す「は」の付いた名詞句はありません。伸縮自在の「特殊性」ですね。
紫式部は清少納言や小野小町ではなく、
これで特殊性の認識となるはずですが。
紫式部は清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
これで「特殊性の下での個別性の認識」となりますか。しかしなんじゃこりゃ。
まあ、へたなつじつま合わせはやめてください。
そして、お答えではうまく省かれていますが、
(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
はどうも「は」がぴったりしません。
はどうしてうまくないのか。これこそ、「特殊性の下での特殊性の認識」で、ぴったりするはずだったんじゃありませんか?
名詞文のシンタクスがわかっていないから、こんな迷路にはまりこむんですよ。
ではちょっとばかり解説を。(あとで、「そんなことは知っていた」なんて言わないでくださいよ。余りにもみっともないから。)
そもそもの間違いは、「清少納言や小野小町ではなく」を「紫式部は」の比較対象としたことなんです。前者は「~ではなく」、つまり「~だ」の否定表現です。これは述語名詞句です。一方、「紫式部は」は主題名詞句です。比較対象として適切でない。
前者を生かすなら、
(E) 源氏物語の作者は、清少納言や小野小町ではなく、紫式部だ。
としないと。
「紫式部は」を生かしたいなら、
(F) 紫式部は、枕草子や蜻蛉日記の作者ではなく、源氏物語の作者だ。
ですね。
もし、「特殊性の認識」なるものを名詞文の「は」に当てはめたいなら、
紫式部は源氏物語の作者だ
全体をその「認識の対象」と考えるべきでしょう。「紫式部は」だけでは、つまり名詞句の認識だけでは何も生まれない。話者の認識なるものは、少なくとも名詞文では、その文全体でないと、その文法的用法が説明できない。別の言い方をすれば、名詞文の「は」は、それだけで存在できるものではなく、「~は~だ」のかたちで一つなのです。もちろん、「だ」の省略、ということもありえます。
前に、他のところでチラッと書きましたが、「命題」として名詞文全体を扱わないと、「は:が」の用法は説明できない。
ちょっと話が難しくなりました。「が」のほうへ行きましょう。
(D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
なぜ「が」はぴったりはまるのか。
前の(E)がカギになります。
(E) 源氏物語の作者は、清少納言や小野小町ではなく、紫式部だ。
間を除くと、
(F) 源氏物語の作者は、紫式部だ。
これは、三上章の言う「指定文」です。(「指定文」については、最近の「野田尚史」シリーズの5を参照してください。)
指定文は、「ひっくり返す」と「が」の文(陰題の文)になります。
(G)紫式部が源氏物語の作者だ。
これは? そうです。(D)の後半部分ですね。
この「紫式部が」は、「清少納言や小野小町ではなく」という「述語名詞句の否定」とちょうど呼応するのです。(「紫式部だ」が元になっている「紫式部が」です)
ここが、「陰題の文をひっくり返すと顕題になる」という文法操作の面白いところです。
「ひっくり返す」と「意味が変わる」かどうかは、「意味」の定義によります。
文の意味というものは、いくつかの下位区分ができます。
動詞文で言えば、格関係などの文法的意味と、前提:焦点などの情報的意味に、少なくとも分けられます。(他にどういう「意味」を考えるかは、その理論によります。寺村秀夫は、「とりたて」に関して、「影の意味」ということを言っています。非常に面白い考え方です。)
名詞文の指定文を、「ひっくり返して」も変わらない意味の部分、それに注目し、うまく名詞文のシンタクスを考えた三上章は、やっぱりスゴイ!
さて、以上の説明、初めての人には、まあ、簡単にはわからないだろうと思います。でも、こういうことがわかってくると、文法を考えるのが面白くなってきます。私は、三上の、この名詞文のシンタクスのところがわかった時(以前読んだ時には何もわかっていなかった)は、なるほど! と思い、改めて三上のすごさに感心しました。
以上、ちょっと楽しんで書きました。
saburoo
座布団一枚、ありがとうございます。
今回の指導の謝礼としてお受け致します。
しかし今時、三上や、寺村を持ちだす呆けぶりに【は】呆れる他ありません。
これこそ【が】、当方が否定しているソッシュールパラダイム下の欠陥文法論です。
理解できませんか。
「自然言語処理研究の考え方」で、
その殆どすべてが生成変形文法の思想的流れの上に考えられていることが分る。この資料では、従来の研究で金科玉条ともされているこの考えにこそ大きな誤りがあり、それが【言語研究発展の障害の1つとなっている】
と指摘されているのが。
これは、<特殊性の認識を表す「は」の付いた名詞句はありません>というところに露呈しています。
「清少納言や小野小町では」で、この「で」は肯定判断辞「だ」の連用形で、これを特殊性を表わす「は」が受けています。時枝の云う、入子型の認識構造です。
梅は咲いたか、桜はまだかいな。
では、「梅」「桜」という特殊性の認識を「は」で表しており、<特殊性の認識を表す「は」の付いた名詞句はありません>などと、どのが舌言っているのですか。
ここに、語の意義と句、文の意味を混同する発想の誤りが明示されています。
>「特殊性の下での特殊性の認識」
はあり得ず、普遍性の下の特殊性、特殊性の並置はあります。
日本舞踊 長唄【京鹿子娘道成寺】の歌詞に次のような文があります。
鐘に恨み【は】数々ござる、初夜の鐘を撞く時【は】諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時【は】是生滅法と響くなり、
晨朝の響き【は】生滅滅巳、入相【は】寂滅為楽と響くなり聞て驚く人もなし………
この、最初の「は」は普遍性の判断におけるものであり、つぎの四つの「は」はそれぞれの鐘の響きの特殊性を意識したもので、この区別を明確に理解しないと内容に即した理解はできません。
最初の普遍性の認識があとの文の特殊性の把握をつらぬくような認識構造の文章なら、次の次の次の文にも関係付けられても何の不思議もありません。
特殊性の並置の例
梅【は】咲いたか、桜【は】まだかいな。
これ【は】父で、これ【は】母です。
今【は】山中 今【は】浜
今【は】鉄橋渡るぞと
思う間も無くトンネルの
闇を通って広野原
>これは述語名詞句です
どこが、名詞句ですか。☓です。
以下も全くナンセンスですが、字数も限られ省略します。■
No.29
- 回答日時:
お答え有難うございます。
現在の音韻の定義が誤っていることが理解いただければ問題ありません。
え? これはなにか、ツボを外した冗談かなにかですか?
三浦の一文、それを引用した質問者、どちらかが誤植ではないか、と言っているだけですが。
三浦の一文の内容は、単純に、誤っています。それだけです。
いつもの、逃げまくり、ずらしまくりの応答で、音韻論に話がズレてしまったのですが
これもまたひどい言い様ですね。三浦の本を読めと薦められたので、ちょっと見てみたらあまりのひどさに驚いて、音韻のことを書いてしまったのですね。(確かに、これは私の失敗だったかも。話がずれてしまったという点で。)
でも、それはもっと簡単に済むはずの話だったのですが、私の質問にどうしても答えず、「日本語の音韻表」を書き渋って、ついに出してきたのが「ひらがな表」で、これが最悪でした。
それで質問をしたのですが、(明確に、「質問1」~「質問4」などと書いて、逃げ難いようにして)
結局、No. 25の質問1,2,4についてはお答えなし。回答放棄、または回答拒否、ですか。
答えないのは、(1)答えがわからない、(2)答えがわかって、あまりの自分の無知に気づき、「穴があったら入りたい」状態なので答えられない、のどちらでしょうか。
でも、「質問4」が本当にわからないのだったら、どうしようもありませんね。
では、音韻の話はやめにしますか?
いかにソシュールパラダイム下の言語論、文法論が根本的に誤っているか
質問者は、こういう「大きな」話がつくづくお好きですね。それでいて、基本的な日本語の、具体的な問題はいっこうに答えられない。知識がないから。
じゃ、音韻はやめて、名詞文のハとガの問題に戻りましょうか。(ホッとしました?)
ずいぶん前のNo. 9の「お礼」に、
たしかに、「源氏物語の作者は清少納言か小野小町か?」という問いの回答としては、
清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
が自然な回答です。
とあります。これは認めたわけですね。
では、なぜそうなのか。「清少納言や小野小町ではなく」という「比較対照」をする部分のあとに、「個としての紫式部」を取り上げる「紫式部【が】」が来て、どうして自然な文になるのか。
「特殊性の認識」は、
それを特殊として捉えるのは、他との比較対照が前提になります。
ですよね。しかし、
(C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
はどうも「は」がぴったりしません。
「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」という問いの答えとして、
清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
という回答は不自然ではありません。
今でも、このトンチンカンなやりとりが「不自然ではない」と言うつもりですか?
もう一度取りだして書きます。熟読してください。
「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者です。」
丁寧さを揃えてみましたが、どうにもなりませんね。
これを「自然なやりとり」などと言う人は、外国人向けの日本語学校に入ったほうがいいでしょう。
(C)の話は、古傷をこすられるようで嫌だ、とおっしゃるなら、「が」のほうだけで結構です。
(D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
なぜ、「比較対照」と「個別性の認識の「が」」がうまく一つの文に収まってしまうのか、そこのところをきちんと説明してください。
今回は、回答放棄や回答拒否をなさらないようにお願い致します。
saburoo
早速の応答をありがとうございます。
>「大きな」話がつくづくお好きですね。
木を見て森を見ざる話しがつくづくお好きですね。
> たしかに、「源氏物語の作者は清少納言か小野小町か?」という問いの回答としては、
清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
が自然な回答です。
とあります。これは認めたわけですね。
ごく普通の回答ですね。
>「個としての紫式部」を取り上げる「紫式部【が】」が来て、どうして自然な文になるのか。
自然ではありませんか?
> (C) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。
はどうも「は」がぴったりしません。
当然ですよね。なぜだと考えられますか。
> 「清少納言、小野小町や紫式部は歌人でしょうか?」
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者です。」
まあ、たしかに自然というよりは廻りくどい言い方ですね。無理にお答えしたので。
「紫式部は源氏物語の作者です。」
が正解かも。
>D) 清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。
なぜ、「比較対照」と「個別性の認識の「が」」がうまく一つの文に収まってしまうのか、
いと易いご質問です。
「清少納言や小野小町ではなく」という特殊性の下での個別性の認識という特殊-個別の認識構造です。
象は鼻が長い。
のように、象というと特殊性の側面の個別性の側面である「鼻」について「長い」と判断するのと同じ立体的な認識構造の「―は―が―」構文です。
対象はまずその特殊性において、さらに特殊性の側面の個別性において、二重に捉えられながら一つの文に統一して表現さ、立体的な認識が「は」と「が」の使い分けで区別して示されています。
三上章に倣えば、どのような説明になりますか?■
No.28
- 回答日時:
当方はNo.5で下記のように書きました。
===========引用開始
質問があります。(「回答」でなくてすみません。)
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
これが下記だと、どうかわるのでしょうか。
源氏物語の作者が紫式部である。
紫式部は源氏物語の作者だ。
人によっては文末が「である」と「だ」では大き違うというかもしれません。でも、そんなに違うのでしょうか。
当方は文末の単調さをやわらげるために、「主述の入れかえ」という方法を使います。
そのため、時には下記は皆大差がないと割り切るようにしています。
これも〈これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実〉でしょうか。
源氏物語を書いたのは紫式部です。
紫式部は源氏物語を書きました。
紫式部が書いたのは源氏物語です。
源氏物語は紫式部が書きました。
===========引用終了
すると、お礼欄に別の回答に対するお礼が入りました。
質問者からなんの説明もありません。この段階で相当無礼だと思います。
後日、質問者から下記の補足がありました。
いったい何を書きたいのかまったく理解できません。
===========引用開始
この質問は、端無くも質問者の「は」「が」理解がいかに浅い、表面的なものであるかを明かしています。
自分自身、良く判りもしないことを人に伝授しようなどとは無理、無体というしかありません。■
===========引用終了
No.27
- 回答日時:
今回はなかなかお答えがいただけませんね。
お答えをいただいたら、そのついでに書いておこうと思ったことを、忘れないうちに書いておきます。
お答えの中で、三浦つとむの本を引用したところ、
音韻は表現上の社会的な約束(規範)に結びついている音声の普遍的な面であり
一属である。
ということです。つまり、<「音韻」はそのまま発音される規範に規定された
音声の種類>で、「カ」「ン」という、感性的な幅を持った音声の属でです。
となっていますが、私の持っている『日本語はどういう言語か』(講談社文庫 2009年 第43刷)では、
~一族である。
です。これは誤植でしょうか。
定義の中の重要な用語で、質問者は三浦の考え方を非常に詳しくご存じなので、もしかしたら三浦の主著である『認識と言語の理論』では「一属」であったのではないか、とも思います。
上の文でも、その後に「音声の属」と繰り返されていますし。
私にはどちらでもいいのですが、一応気付いたことを参考までに書いておきます。
saburoo
ご丁寧にありがとうございます。
現在の音韻の定義が誤っていることが理解いただければ問題ありません。
誤った理解に基づく音韻論をあれこれ言っても無意味です。
本来、当方が提起したのは西山の意味論の誤りで、その点は理解できたのでしょうか。
いつもの、逃げまくり、ずらしまくりの応答で、音韻論に話がズレてしまったのですが、結局それも誤りということで、いかにソシュールパラダイム下の言語論、文法論が根本的に誤っているかが明かになったと思いますが。
それは、紹介しました「自然言語処理研究の考え方」が明かにしているところですが。■
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なお、生成文法の性格については、
「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …
を参照下さい。
この著書は 1972年に出版されており、大学図書館はもとより、大きな図書館には置かれていますが、無視されており、その結果が、この体たらくという現状です。
もっともチョムスキーもすでに棺桶に片足を入れており、追って自然崩壊するしかありませんが。
後世、偉大なる錯誤と評されるのでしょうか?■
なお、「「日本の大統領は禿げだ」や「ブッシュのイラクはケネディのベトナムである」を可能世界やメンタル・スペースなしで、すっきり説明してみせねばなるまい。その場限りでない説明を。」
これは、その場限りではなく、普遍的、本質的に話者の認識に結び付いていることを、最初に、
そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。
と記述していますが、チョムスキーに入れ挙げたボンクラの目には留まらなかったようです。
話者のない文などというのは、猫がキーボードの上を歩き表示された文字群のことです。
チョムスキーや西山が問題にしている対象はこういうものです。■
格助詞「が」 、副助詞「は」、係助詞「は」の意義の相違が理解できずにキリキリ舞いしていては、語の品詞と意義の相違、使用法が正しく理解できません。この点は、三浦つとむ『認識と言語の理論 第2部』で解明済みです。
>>古い仮説を踏み台にして、新しいより一般性の高い仮説に行き着いたから。単なる屍ではない。
そしてこのやり方こそが科学なのであり
呆け!。
量子力学が古典力学の上に築かれており、それが一つのパラダイム転換であることぐらい理解できないのか。(奴)
量子力学が完成したら古典力学は不要になったのか。古典力学を不要で廃棄できると考える発想がナンセンスそのものであることに気づかないのか。
武谷三男「ニュートン力学の形成について」(『弁証法の諸問題』)を眼光紙背に徹するまで読み込み、武谷三段階論をちゃんと理解しましょう。↓
↓
>>ソシュールも晩年はアナグラムという、パロール学の実践に夢中であった。
実践など日々人々がパロールを発しているのが理解できないのですか、
そうではなく、ラングとは何であり、パロールの本質と、その関係を明らかにしなければなりません。
カントの物自体を不可知とする哲学に依拠していてはパロ―ルの表現過程も意味論も築くことはできません。
夏休みなので、シナイ半島でも行って、モスクで顔でもを洗ってから出直した方が良いでしょう。
老婆心ながら。■
この質問は、端無くも質問者の「は」「が」理解がいかに浅い、表面的なものであるかを明かしています。
自分自身、良く判りもしないことを人に伝授しようなどとは無理、無体というしかありません。■
他の質問に、
<ハの後ろは否定形になりやすい傾向はあるのでしょうか その2>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11235456.html
がありますが、この例からも、当方が回答の通り、なんら相関はないことがわかります。
なお、普遍性の側面に若干触れておけば、水の普遍性はH₂Oであり、「月【は】地球の衛星である。」のように普遍性を表わす科学の文や、憲法、法律に普遍性を表わす「は」が多用されます。
なお、個別・普遍・特殊については、ヘーゲルの概念論を読んでも珍紛漢紛かと思いますが、
「概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-60.h …
<ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理――『法の哲学』の自由論 >
(このタイトルで検索できます。)
等を参照下さい。■
No.7の補足への続き。
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識」という言い方は若干誤解を招き易かったかもしれません。
(101)では、具体的に比較対象を挙げているわけではないので、「「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人(のような)」とすべきでした。
梅は咲いたか、桜はまだかいな。
の場合は明確ですが。
個別・特殊・普遍というのは、簡単にいえば、快挙を遂げた渋野日向子は個人ですが、それは、年齢も顔も身長も他とは異なる特殊性を持っています。そして、人、女性、動物、生物という普遍性に支えられています。
このような、個の持つ立体的、重層的なありかたを捉え表現する場合に、そのどれかの側面を捉え表現することになります。
渋野日向子自身は毎日成長し変化しますが、渋野日向子という固有性は変わらず、この固有性の側面が名前という固有名詞で表現されています。■
なお、先に、
(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。
と回答されていますが、ここでは付属【語】である語、格助詞、副助詞の意義を論じています。
語ではなく、「語」とは何かが理解できないで、一体何を論じようとされているのか、そもそもこの基本的な理解の誤りを正さないと当方の言っていることが理解できないのではと危惧します。
格助詞、副助詞、つまり助詞とは一体何なのか理解されているのでしょうか?
そして、<格助詞「で」「に」理解の誤り>で提起しているように、助動詞とは何かも。■
もう少し、補足させていただきます。
三浦の『日本語はどういう言語か』の初版は1956年に出されており、推薦の言葉に、批判者、助言者と記しているのにはその前段があります。
三浦は、その前に『言語過程説の展開』を出版しようとしましたが、出版者が時枝批判を心配し、そのプリント版を時枝のもとに持参し意見を仰ぎ、時枝が是非出版して下さいと薦めたにもかかわらず、出版はされませんでした。
これを見ているために、批判者、助言者と記しているものです。
そして、三浦はこれを焼却してしまいますが、その後『弁証法はどういう科学か』がヒットし、知名度も上がり、言語論の本も受け入れられると判断し、ダイジェスト版の前段に認識論を加え『日本語はどういう言語か』を出版したものです。
講談社学術文庫は旧版をそのまま出そう考えたのですが、その後の進展を取り入れ、改訂増補版とすることを要求し、出されたものです。■
大や抽象が問題ではなく、具体的、科学的な解明を目指すべきものです。
時枝『国語学原論』第三章 文法論の「言語に於ける単位的なもの」、三浦『認識と言語の理論 第三部』「単語の認定における形式主義」(91p~)他を参照下さい。
作業仮説としてしか語を捉えられなくて、よく、文、文章を論じ、当方の付属語批判にコメントできますね。恐れ入谷の鬼子母神というところです。
すべて、「大きな問題」「難しい問題」で、問題を回避し、権威に頼ろうとするのでは、全く進歩はなく、単なる傍観者に終始する他ありません。
ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれてこない。(時枝誠記『日本文法・口語編』)
正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への道』)
だという警告も、この際思い出してもらいたいものです。■