祝Queenの日!フレディ・マーキュリーの年代別ファッション&ヒットソングまとめ

カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。
理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。
『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。
この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

もんだいになさっているところがやっとわかりました(と思うんだけど、まだずれているかもしれない)。


おそらくそれは、昔から議論され続けている「理性の事実」問題ということになるかと思うのですが。

『実践理性批判』一の「純粋実践理性の原則の演繹について」の81-82に

「道徳律はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与えられている。……それゆえ道徳律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁的な、もしくは経験的に与えられた理性のいかなる努力によっても証明されえない。それゆえ、必然的な確実性を断念しようとしても、その実在が経験によって保証されるわけではないし、したがってア・ポステリオリに証明されうるわけでもない、それにも拘らず、道徳律はそれ自身で確実である」

という部分があります。
この部分は一般に「理性の事実」と称され、道徳律は演繹されない、というカントのこの主張をめぐってさまざまな批判や解釈がなされてきました。
本や紀要論文も数多く出ています。
あるいは、ヘーゲルは直接この部分ではないのですが、カントの「普遍立法」や「自由」「理念」をめぐって批判しています。

そうした本が参考になるかと思いますし、あと、学部生の方であれば、こういうところで質問しないで、先生に聞いてください(笑)。
答えているわたしの方は畑違いの文学屋です。パンキョーで興味を引かれ、『判断力批判』の講読ほか、いくつか授業を取った経験はありますが(『純粋』と『実践』は岩崎の『カント』と併せて講読についていくために読んだ)、基本的にシロートです。
そういうことで、院試がんばってね♪
    • good
    • 0
この回答へのお礼

長々ありがとうございました。正直まだ釈然としないところはありますが、とりあえずはこの辺にしておこうかと思います。
先生には前に聞いたのですけれど、その時は卒論の相談をしにいった時でしたので、途中ではぐらかされてしまいました。理性の事実であるところから懐疑を持ち込むのは誰でもやれることですし、それだけではちっとも面白くないのは確かです。それでも、何か糸口が第一編第一章第一節にあると思ったのですけれど…
あ、僕も岩崎さんのそれと併読してました。岩崎氏はカントをごく限られている面でしか評価していないようなので今はあまり共感しないのですけれど。
カントをずっと続けるというよりは、多分この先現象学かドイツ観念論の方向に進んでいくと思いますので、その時答えを自分で与えられることを期待しつつ…
本当に、お世話様でした。

お礼日時:2004/12/19 21:45

論理階梯を問題にしておられるんですね。



「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいる」
と、そこで切るのはちょっとまずいです。
この文の主語は「実践的法則が」です。述語は「そこにある」です。
純粋理性が意志規定に十分な根拠を含んでいるような実践的法則、という文章構造を取っているのだと理解してください。

この注の部分は選言的三段論法を使って証明しようとしています。
・pもしくはq
・qではない
・ゆえにpである。
これが選言的三段論法です。

ここでpに当たるのは、実践的法則(純粋理性が意志規定に十分な根拠を含んでいる)。
ここでqにあたるのは、格率(主観の意志にだけ妥当すると主観から見られる)。
注では、格率が普遍的妥当性を持ち得ないことが縷々説明してあります。
ゆえに実践的法則は普遍的妥当性を有するということになる、ということを証明しようとしているのです。

もしも道徳律が経験的な原理から導かれるものであるならば、それは普遍妥当性を有することができない。
それゆえにそれは先天的な原理である。
これが第一節の注の趣旨です。

ちょっと前に咳止めを飲んじゃったんで、頭がぼーっとしています。
たぶん間違ったことは書いていないと思うんですが、またご質問の意図とずれているかもしれません。
その場合は補足ください。
私の能力で対応できる限り、何度でもおつきあいします。

この回答への補足

長文を書いたのですが、投稿に失敗してしまいかなりぐったりしています…(笑)考えは整理できたので大分短くなりました。

選言的三段論法とした場合にですが、以下のような困難を感じました。
そちらの示されたのは、
(大前提):実践的法則であるか、格率であるかのどちらかである。
(小前提):格率ではない。
(帰結):実践的法則である。
ということだと思います。
しかし、このような三段論法によってはその現実的存在は示されてはいないのではないでしょうか。
上述の三段論法は不足を補うなら以下のようになると思います。
(大前提):ある実践的原則は、実践的法則であるか、格率であるかのどちらかである。
(小前提):格率ではない。
(帰結):実践的法則である。
三段論法の形式もその帰結も正しいですが、ただ、ある実践的原則がどのようなものでえるかを示すことは、その原則の現実的存在を示すことにはならないのではないかと思います。(繰り返しになってしまいましたが

例えば僕は以下のような選言的三段論法を作ることができます
(大前提):ユニコーンは一本の角を持つか二本以上の角を持つかいずれかである
(小前提):二本以上の角を持つということはユニコーン(=一つの角の意)の概念と矛盾するから、ユニコーンは二本以上の角を持たない
(帰結):ユニコーンは一本の角を持つ。
これで、ユニコーンがどのようなものであるかを僕は知ることができました。この三段論法に誤りはありませんから帰結は絶対に正しいです。ユニコーンは(もしそれが存在するのであれば)絶対に一本の角を持っています。が、ユニコーンなる生物は存在していません。ですから、このような形の選言的三段論法の帰結からは、その現実的存在を示すことはできません。そして、道徳律に関する三段論法もこれと同じ形式を取っています。

今、僕の考えているのはある課題の解決です。それは
「課題:道徳律の現実的存在を示せ」
というものです。第一編第一章第一節をひいたのは、そこに見出した命題に解決の糸口があるのではないかと思ったためです。しかし、結局そこからは糸口は掴めませんでしたし、実践理性批判の他の箇所にも未だに見つけていません。この課題の解決のきっかけを与えていただけるのでしたら、それに勝る喜びはありません。

最後に、より円滑にするために僕の理解度をある程度お伝えしておきます。
現在大学四年で、カントを主に扱っていまして、だいたいこの二年で三批判書は二度ずつ読みました。解説書は3,4冊。進学予定なので、受験勉強の一環として哲学史的な流れに関しては、二冊のテキストを使っておおまかにおさえてあります。

何度もお時間割いていただいて、本当に、ありがとうございます。

補足日時:2004/12/18 23:49
    • good
    • 0

少し、カントの『実践理性批判』の背景を書いてみたいと思います。



17世紀から19世紀にかけて、哲学の中心的な問題は、人間の認識とはいったいどのようになされるのか、ということでした。
デカルトは、幾何学をすべての科学と哲学のモデルと考え、普遍的で明白な真理は理性によってのみ発見され、この真理から哲学と科学がみちびかれると主張します。このデカルトをもとに、大陸合理論が発展していきます。
それに対してイギリスでは、あらゆる認識は経験によって得られる、というイギリス経験論が発展していきます。
とりわけ18世紀に登場したヒュームは、経験論の思想を徹底させてゆき、もっとも確実とされる自然法則でさえ、正しいものであり続けるかどうかわからない、とします。

カントが登場したのは、両者の乖離が甚だしくなっていた時期であり、カントはこのようなまったく相反するふたつの思想を統合して、新しい哲学をうち立てようとしたのです。

確かにヒュームの言うとおり、あらゆる認識は経験とともに始まるけれど、われわれの認識能力のなかには、経験によらないもの、先天的形式(形式というのは、思考の枠組みのこと)が備わっていると考えました。

そのことを証明しようとしたのが、『純粋理性批判』です。
カントはそのなかで、われわれのなかで認識のメカニズムがどのように作用しているか考えたのです。
このことに関しては、いくつか回答しているのですが、基本的な「感性」「悟性」「理性」については、良かったらこれを参考にしてください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

純粋理性というのは、いっさいの経験的要素を含まない、先験的な認識能力全体(感性・悟性・理性)のことです。
カントは『純粋理性批判』のなかで、この認識能力の限界をあきらかにしようとしました。
人間の認識能力は、現象の範囲を超えることはできない。経験を離れて「物自体」(認識によってとらえられない、現象の原因であり、真の実在)をとらえようとしても、それは不可能である、従来の形而上学が誤っていたのはそのためである、と考えたのです。

けれども、われわれの認識というものが、あくまでも現象に限られているのだとしたら、どうして人間は「物自体」を、たとえば神や霊魂や世界といったものを、経験によって決して知り得ないことを考えることができるのか。決して認識することができないものを、考えることができるのか。
それは、とりもなおさず、「物自体」が、われわれの経験を超えたところに存在しているからにほかならない。

理論的認識によっては「物自体」の世界を知ることはできない。
けれどもそれ以外に「物自体」の世界を知りうることはできないのか。
カントはそこで、道徳的意識ということをもんだいにするのです。

カントは道徳律が、実践理性の事実としてわれわれに与えられているということは、理論理性によっては証明できない自由の存在、あるいは「物自体」に属する霊魂や、神の存在を肯定するものである、とします。
つまり『実践理性批判』は、ヒュームによっていったんは完全に否定された形而上学を、もういちど定義し直し、うち立てようとした。
それが『実践理性批判』の目的でした。


>純粋理性にもとづく意志決定こそが実践的法則であることは何によって示されるのか

実践的法則(道徳律)が普遍妥当性を有するのは、それが個々の主観に基づいた格率ではなく、あるいは、経験的な原理から導かれるものではない、先天的な原理、経験を一切含まない、純粋理性に基づいたものだからである、ということの理由は、この第一節の部分で説明されています。

おそらくお聞きになっていらっしゃるのは、そういうカントの論理階梯ではなく、「何によって」、すなわち、純粋理性にもとづいた意志決定が道徳律であることの根拠は何か、ということなのでしょう。
けれどもカントにとって、そのことは証明するまでもない自明のことだった。
というのは、『純粋理性批判』によって証明されたように、人間には経験に依らない、先験的な認識の形式、感性、悟性、理性が備わっている。経験に依らないがゆえに、これは万人にとって同じ形式である。
普遍妥当性をもつ(いつ、いかなる場合でも、万人に当てはまる)道徳原理を考えるとき、それは純粋理性に規準づけられたもの以外ではあり得ないからです。

『実践理性批判』の目的は、普遍妥当性を持つ道徳律を確立することそれ自体にあるのではなく、道徳意識を通じて「物自体」の世界を見出し、実践的な形而上学をうち立てることにありました。
人間は道徳的な行為において、自然の物理法則から離れて、自由に行為できる。こう考えることで、カントは哲学を、神のことを考える学ではなく、自然法則に従う学でもなく、人間の学としてうち立てた。このことをカント自身は必ずしも十分に意識したわけではないけれど、カント哲学の意義を哲学史的に見てみると、このように言えると思います。

わかりにくい部分などありましたら、補足要求をください。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

この回答への補足

えぇと、すみません。
時代背景及び三批判書の意図、存じ上げています。前回捕捉が誤ってしまったのでこのようなお手間をおかけしてしまい、申し訳ないです。

今の僕の疑問といいますのは、カントの意図を承知した上で、カントの論に少なくとも僕やカントに慣れない人にとってはそれによって理解が困難となるような拾い残しがあるのではないか、ということでした。

「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいるとするならば、実践的法則がある」これは確かにその通りですし、前段の仮定が真なら、確かにその帰結は出てくるのだと思います。
ただ、その仮定が真であること、「純粋理性が実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいること」はどうやって説明されるのか、という問題です。
僕は、カントのいうようにはそれを自明のこととは思うことができませんでしたし、カントがそれに対してどのような説明を加えているかを見つけることもできませんでした。純粋理性による意志規定が不可能とするなら、道徳法則は存在しないことになりますし、また、我々はカントの言う意味では自由では決してなくなり、理性の要請も不可能になるでしょう。しかし、理性は意志規定の根拠ではないし道徳法則も無く、我々は自由ではない。だから、要請という形で純粋理性理念にその実在を与えることもできないのだ…と、そういう考えに対してどのような反論がなされるのでしょうか。

そういう意味では、カントの思想の中身に関する質問、というよりは、カントの思想ここがもしかしたら不十分なのではないか、という問題提起だとお受け取り下さい。(僕自身はカントのいうことはだいたい受け入れているのですけれど)

前回の失敗を繰り返さないために質問内容を最後にもう一度繰り返します。

「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいる」ということをどのようにしてカントは示しているのでしょうか?


幾度も繰り返しのご回答、ありがとうございます。理解の至らないこと、申し訳なく思っています。

補足日時:2004/12/18 13:57
    • good
    • 0

>純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが



この部分は、そういう意味の文章ではありません。

第一節の定義の注であることを、まずしっかりと押さえておいてください。
「純粋理性が、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいると思われる場合には、実践的法則が、そこにある」(『実践理性批判』樫山欽四郎訳 河出書房新社)
というのは、その直前の定義を受けています。

定義では、実践的原則には二種類ある、とされます。
・ひとつは主観的な「格率」
・そしてもうひとつは客観的な「実践的法則」

注の第一文は、この定義の「すべての理性的存在者の意志に妥当するものと認められるときは、客観的である、すなわち、実践的法則である」を言い換えたものです。つまり、純粋理性に根拠づけられた意志規定は、実践的法則である、もう少しわかりやすく言うと、純粋理性にもとづく意志決定こそ道徳律である、と言っているんです。
この第一節は、個々の主観によって想定された普遍妥当性を有しない「格率」と「実践的法則」は、厳密に分けられる必要がある、さらに、純粋理性にもとづく意志決定こそが「実践的法則」なのである、と言っている部分です。

分かりにくい部分があれば、補足要求をください。

この回答への補足

注の示す内容に関する僕の解釈が当を得ていなかった旨了解しました。仰る通りの内容でしたら、他の箇所でも出てきますから、よくわかりました。

端的に今の疑問を書いてしまいますと、
「純粋理性にもとづく意志決定こそが実践的法則であることは何によって示されるのか。」
…と、いうことです。
法則であるということと客観的であることは一緒でしょうから、「道徳は本当にわれわれ理性的存在者皆が義務として課せられているものなのか」といってもよいかと思います。もし何ものかが、道徳法則なんてなくて全てが格律にすぎないのではないか、といった場合、どのような根拠によってそれを覆すことができるのか、という問題です。
純粋理性とは道徳法則を我々に課すものであり、そして純粋理性は存在する、だから、道徳法則もある。では納得ができません(カントは別にこんな言い方はしていなかったと思いますが、例えです)。

また、少し違う角度からの疑問なのですが、純粋理性が我々に道徳法則を義務として課している、と認める場合に、ではなぜそれに我々が従わなければならないか、という問題です。例えば私は他の誰かに何かある行為を義務として課すことが可能ですが、その誰かが必ず従わなければならないような形でではありません。しかし、理性にはそれが可能だというその理性の優越は何に由来するのでしょうか。端的に、理性とは何か、という問いにしてしまってもよいかとは思いますが…

後者の疑問に関しては自身整理しきれていないところもありますので、特に前者に関して、お教えいただければと思います。

補足日時:2004/12/17 19:58
    • good
    • 0
この回答へのお礼

捕捉の内容を間違えてしまいました。
こちらから失礼します。

第一の疑問点、間違えました。
「純粋理性にもとづく意志決定は可能なのか」でした。カントの言葉に即するなら、「純粋理性は、実践的に、つまり、意志規定にとり十分な根拠を含んでいるのか?」です。
純粋理性にもとづく意志決定こそが道徳律であると、僕も思います。

お礼日時:2004/12/17 20:29

参考程度に


純粋理性というのは、証明されるものではないのです。カント先生は純粋理性と呼び、仏陀はそれを仏性と呼び孔子は、北極星に例えています。絶対真理を内在するものが人間であるというお考えなのです。キリスト教的には神の子理論かと思います。つまり、カント先生やヘーゲル先生の著書はこの点が信じられなければ、先へは進めないでしょう。内在する絶対真理があること、内在する叡智があること、それが真理だからカント先生もヘーゲル先生もえらいのです。それがなければ、道徳も法律も単なる相対的な世迷いごとに成り下がるということでしょうね。ニーチェなどは、糸の切れた凧に成り下がってしまいましたね。

この回答への補足

加えて質問を失礼します。
言い換えれば、カントやヘーゲルの体系にはある前提となるものがあり、それを受け入れることができれば帰結は真であり、受け入れられなければ帰結は偽…と、そういう意味のことを仰っているのだと思いました。
僕はまだ(恥ずかしながら)ヘーゲルは解説書でしか読んでいませんからそちらはさしおきますが、カントの場合、純粋理性批判や判断力批判にはそれほど一般の人が受容困難な前提というものは無いように思いました。いわゆるコペルニクス的転回も、その端緒はわれわれの見ている見え方の向こうに、その見え方をわれわれに触発しているなにものかがある…という前提からはじまるのでしょうが、これなどは思惟することのできる者なら、同意が比較的容易であるように思います。
全体としてカントの論は平明であり、そこには"信"の存する余地はないかのように思えるのですが、確かに実践理性批判においては歯切れが悪いようです。僕も、最近では、受け入れるか入れないかなのかなぁ…と思っていたところでした。
どちらかといえばヘーゲルがご専門かとお察ししますが、純粋理性自身は証明されえない、という点、もしご面倒でなければ、該当個所をお教えいただければ嬉しいです。カントを読む際に、理性とは何かをもっと明確にしなければ真には何ものもつかむことができないのではないかと、このところ思うようになってきました。

補足日時:2004/12/17 12:37
    • good
    • 0

私の回答は、お役に立たないと思いますが、


昨年、「実践理性批判」に挑戦する際、ここで
お世話になつた者がお返しを出来ればと回答してみます。

正直、質問者様の感想と同じでした、この本全体が、その証明の為なのですが、私の場合は、嘘に関する罪悪感の部分で特に違和感を感じました。
しかし、世間では鉄壁のカントの論理ですから、
理解不足が理由と考えていましたが、
証明できたかどうかは私も保留中でした。

その後、「道徳形而上学原論」にも挑戦しましたが
今以て確かなことは申せません。

ただ、読んだ甲斐はありました。
道徳法則の実在がどういう意味かはわかりませんが
自分の心の中に
自愛心に隠れて目立ちませんが
「それ」は在るのです。
私には、「それ」で充分です。

やはりお役に立てませんでした、
私も一緒に、詳しい方のご回答を待ちたいと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
僕は実践理性のまえに原論読んだのですが、その頃はただ例の他者を手段としてのみ…云々になんだか妙な感動を覚えた程度でした。
いまはどちらかというと、道徳律に対する尊敬の感情、ですとか、あるいはまた崇高の感情。そういった感情の問題を介してカントの説く道徳を理解しようと考えています。
確かに端的に義務を命じられているのだとしても、それにわれわれが自発的に、道徳法則に対する尊敬の感情の故に同意をして初めて道徳的な人間たりうるのだとするカントの立場は非常に好きで…妥当性を疑いながらもどうも離れがたい魅力を持っているように思えます。
明らかにずれた読み方ではあるのですが、道徳法則が実在しなかったとしてもわれわれが自由でなかったとしても、われわれが自由でるかのように道徳法則が実在していてそれがわれわれに端的に義務を命ずるかのように…そういった"覚悟"とでもいうべきものがあるいはそういった"感情"から湧出するのかもしれないなと最近では考えています。

お礼日時:2004/12/17 12:58

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q46歳弟が実践哲学にのめり込み精神状態がおかしくなりました。実践哲学をご存知の方いらっしゃいませんか

46歳の弟なのですが2014年後半から宮崎県にある実践哲学というセミナーに行ってから、のめり込み現在被害妄想に陥り、幻覚をみたり言っていることがおかしくなっております。正常な会話をしていると思っていたら、常に何かにお伺いを立て、ロボットのような話し方をしている事が多々あります。自分の言葉ではないようです。母が言うには神様に何をするのか、言うのか相談しながら会話している事が多いと言っております。たまに正常かな?と思う時間もありますが非現実的な事を織り交ぜており、盗聴されているとか、フリーメーソンの陰謀、電話は電波だから本人ではなく信じられない等が会話に混ざります。どなたか実践哲学をご存知の方いらっしゃいませんか?

Aベストアンサー

一番いいのは、ご自身も実践哲学についてまなばられるのが一番いいと思いますが、どなたか体験者の方が投稿してくださることを願うばかりです。
思想、宗教、哲学、政治など人の心情、考え、思想と深く密接にかかわる、人の生死や生きる意義など生命の根底になる部分なので難しいですね。
私も実践哲学について気になってきました。スピリチュアルなタイプなので気にしないでください。

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Qカントの定言命法について。

私は今、大学で倫理学を取っており、そのテストで2つの問題が出るのですが、どのように答えていいのか全然わからず、行き詰っている状態です。できれば、皆さんに教えていただければと思い、質問してみることにしました。
その問題が以下のような問題です。

(1)カントの定言命法に基づいて、「果たすつもりのない約束をしてはならない」という道徳的な主張を擁護する

(2)功利主義の立場に立って、「果たすつもりのない約束をしてはならない」という道徳的な主張を擁護する

答案では、結論を導くための基盤となる主張を必ず明記してその主張に基づいて議論をしてください。

つまり、してはいけないことと、してもかまわないことを判定するための基準を明記したうえで、問題文中の「~すること」がその「~してはいけないこと」の基準に当てはまることを論証してください。

「~の方が効用がが大きいので」と書くだけでは不十分であり、これに加えて「なぜ~の方が効用が大きくなるのか」も書かなければいけません。     という問題です。

どなたか、わかる方がいらっしゃいましたら、ご回答をよろしくお願いいたしますm(__)m

私は今、大学で倫理学を取っており、そのテストで2つの問題が出るのですが、どのように答えていいのか全然わからず、行き詰っている状態です。できれば、皆さんに教えていただければと思い、質問してみることにしました。
その問題が以下のような問題です。

(1)カントの定言命法に基づいて、「果たすつもりのない約束をしてはならない」という道徳的な主張を擁護する

(2)功利主義の立場に立って、「果たすつもりのない約束をしてはならない」という道徳的な主張を擁護する

答案では、結論を導くための...続きを読む

Aベストアンサー

> 基礎的な部分からあまり理解できていません

答えを書いちゃう方が簡単なんだけど、がんばってヒントだけになるように書いてみます。

まずね、カントと功利主義というのは、社会規範(=わたしたちが生きていく社会のルール)を決めるときのよりどころとなる大きな二本の柱です(もうひとつ、社会契約論というのがありますが、これはちょっと性格がちがうので、ここでは置いておきます)。

たとえばカントはこんな「殺人者の問いかけ」という例を考えています。

殺人者に追われている人が、あなたの家に駆け込んできて、「わたしは家に帰った、と言ってください」とあなたに頼む。そうして、家とは反対の方角に逃げたとします。
つぎに殺人者がやってくる。「やつはどっちへ行った?」と聞く。
あなたは考えます。もし正直に言ったら、この殺人者は彼を見つけてしまうだろう。しかも、彼がやってきた方角を考えると、黙っていたら、おそらく逃げた方向へ彼もまた向かうであろう。

さて、あなたはどうすべきか?

カントだったらこう考えるでしょう。

・人間は誰もがいつでもかならず従える規則に従うべきである。
 ↓
・ここでウソをついたら、「人はウソをつくべきである」という規則に自分は従ったことになる。
 ↓
・この規則が普遍的な規則として採用されるだろうか?
人びとは「ウソをつくべきである」という規則に従うことはできない。なぜならそれは自己論駁的だからである。そうなると、人びとは互いに信じ合うことができなくなってしまう。
 ↓
・ゆえに、わたしはウソをつくべきではない。

このように考えていくのが義務論の考え方です。

さて、功利主義の考え方は、そうではありません。

「いかなる行動を取れば、関係する全員にとって幸福マイナス不幸の差は最大になるのか?」

これに基準づけて考えます。
功利主義者の主張は大変簡単、ともいえます。ある行動が正しいか間違いかを判断する場合、その行動がより多くの幸福を生み出すか、あるいは不幸を生み出すかによって判断すべきなのです。

ですから、先のカントの「殺人者の問いかけ」であれば、
「ウソをつく」ことによって「彼を逃がすことができる」というふうに考えることができる。
つまり「よくないこと」(ウソをつくこと)を補って余りあるよい結果(彼の命が助かるということ)がもたらされることが予測されることが、人助けのためにウソをつく行為を正当化する根拠となります。

もちろん、功利主義の問題点とか、さらにそれを功利主義者はどうとらえているのかとか、深くほりさげていけばいろいろあるのですが、とりあえずはここらへんで大丈夫かと思います。

> 「果たすつもりのない約束をしてはならない」

というのが書きにくかったら、カントの「殺人者の問いかけ」のように、具体的な場面を考えればいい。
ほんとうは会うつもりもない相手に対して、いついつに会おうね、と約束するとか、返すつもりもないのに、いつまでには返すから、といってお金を借りるとか、そんなふうに具体的な事例を、先にあげたような論理の流れに従って書いていけば大丈夫です。
がんばってね。

> 基礎的な部分からあまり理解できていません

答えを書いちゃう方が簡単なんだけど、がんばってヒントだけになるように書いてみます。

まずね、カントと功利主義というのは、社会規範(=わたしたちが生きていく社会のルール)を決めるときのよりどころとなる大きな二本の柱です(もうひとつ、社会契約論というのがありますが、これはちょっと性格がちがうので、ここでは置いておきます)。

たとえばカントはこんな「殺人者の問いかけ」という例を考えています。

殺人者に追われている人が、あなたの...続きを読む

Qカントの「要請」に関して

(1)カントにおける「要請」と「信仰」の関係についての質問です。
「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」(Ich muss also das Wissen aufheben, um zu Glauben Platz zu bekommen.)と言ったそうですが、その「信仰」とは、実践理性による「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを「要請」することを意味するのですか?

(2)カントにおける「要請」と「公準」の関係についての質問です。
「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを道徳の実践のために「要請」するという場合、そこには「公準」の意味は無いと聞きましたが、これは本当ですか?
たしかに、この場合の「要請」が「信仰」を意味するなら、それが同時に「公準」でもあるというのはへんですよね。「信仰」は幾何でいう「公準」などとは全くカテ違いでしょうから・・・。
一般に、カントの「要請」は「公準」の意味もあるといわれますが、仮に、この(2)の答が「Yes=本当」だとすれば、では、どういう「要請」の場合に、「要請=公準」の意味になるのですか?

(3)「要請(する)」と訳されている原語(ドイツ語)について質問です。
カントは3批判書、特に「実践理性批判」の書で、日本語で「要請(する)」と訳される原語としては、名詞のPostulatと動詞のpostulierenと、どちらの方を用いているのですか?どちらも使っているなら、おもに使用している方を教えて下さい。

(4)日本語の訳語と原語との対応関係についての質問です。
使用しているのが名詞のPostulatだけなら、日本語の訳語は「要請」と「公準」の2つで済むでしょうが、動詞も使っていてなおかつ、日本語で言うところの「公準」の意味を含むなら、「要請する」という訳だけでは不十分ということになりますよね。
だって、日本語では「要請(する)」と「公準」とはまったく関係ない言葉だからです。意味が直結しません。 「前提(する)」と「公準」ならわかりますが・・・。
つまり名詞のPostulatも動詞のpostulierenも日本語に訳せば「要請(する)」と「公準」の両方を意味するというのが不可解です。
(A) ドイツ人・・・というかカントの頭の中では、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とが意味的につながっていたのでしょうか?
(B)postulierenという動詞は、日本語で「公準(と)する」と訳し得るような意味があるのでしょうか?
日本人の常識では「要請(する)」と訳される言葉が「公準」という意味もあるということ自体、ピンとこないのが普通だと思います。一方は動名詞で一方は名詞だし・・・。それが元のドイツ語では不自然ではないとすれば、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とがあちらでは意味的に近いのでしょうかね?
(C)日本語で「要請」と「公準」の2つをつなげるとしたら、<「公準」を「要請する」>といった動詞と目的語の関係しかないと思います・・・少なくとも「要請=公準」とはならならと思うのですがいかが?

(1)カントにおける「要請」と「信仰」の関係についての質問です。
「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」(Ich muss also das Wissen aufheben, um zu Glauben Platz zu bekommen.)と言ったそうですが、その「信仰」とは、実践理性による「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを「要請」することを意味するのですか?

(2)カントにおける「要請」と「公準」の関係についての質問です。
「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを道徳の実践のために「要請...続きを読む

Aベストアンサー

いい加減な情報がネットで流れているのでしょう。

カントが名付けた「実践理性の要請」の要請(Postulat)とは、カントが古典数学から借りてきた概念です。
それは「演繹体系の構築に必要な、明証的でも明証的でもない命題」を意味し、もともとはラテン語の動詞postulare(要求する、要請する)に由来する語です。

カントは、理論理性による認識によっては肯定的にも否定的にも論証不可能な形而上学の対象である「自由」、「霊魂の不死」、「神」を実践的行為がそれなしには成り立ち得ない欠くべからざる前提という意味で、「実践理性の要請」と名づけたのです。

以上、坂部恵の解説によるものです。


人気Q&Aランキング