No.16ベストアンサー
- 回答日時:
★ (№15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
赤子の母を求める“はからい”のない心は、親鸞にもあったはず。
ほとけ想いのこころが、です。
赤子の心に“はからい”が無いように、他力を本願とするからには
“はからい”があってはならない、と云っていると受け止めていま
す。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ああ言えばこう言う・・・とことごとく物言いをつけますが:
親鸞の言うところの:
▲ 義無きを以って義とす。
☆ あるいは:
▲ はからひ無きを 自然と言ふ。
☆ という命題(判断)は:
★ “はからい”があってはならない
☆ という善意の思いや気遣いであったとしてもそのハカラヒが
あるなら それは自然(じねん)ではないわけなんです。
あちらからのハタラキカケに こちらは受け応えるのみなんです。
だって:
★ 赤子の心
☆ って言ってるぢゃないですか。
★ ただ“はからい”のない、とは云ってもほとけを求める心があ
るわけで、その求め心は自力と云ってよいと思います。
☆ 微妙ですね。どうなんでしょう?
つまり まれに――理性においてにしろ・感受性においてにしろ
――早熟のひとがいて すでに求道心でしょうか そういったみ
づからの内からの動きにめぐまれる場合もあるかと思います。
ですから わたくしも:
★ その求め心は自力と云ってよいと思います。
☆ と思いますが 問題は やっぱし《赤子のこころ》です。
その《自力》には ハカラヒがないわけです。そういう命題なん
です。
言いかえると その問い求める心が――自力としてでも――はた
らくのは ナゾからのハタラキカケを受け留めてのことだとなる
と思います。
親鸞は そう言っていると思います。
なぜなら たとえ自力であってよいとしても そこには《義は無
い》んです。
自己の・人間としての――たとえ利他の心や博愛の精神であった
としてもそのような――思いや考えとしてのハカラヒは ご無用
であると言っているのだと思います。
弁栄師は 何と言ってますか?
★ 神とのコンタクトは、自力と他力の交感に依って成り立つと
思えば。
☆ いいえ。ここは げんみつに行きます。
ナゾなる絶対他力は 向こうからの――めぐみとしての――ハタ
ラキカケです。
自力は つねに善悪・真偽・美醜などなど相対的な感情や思いや
考えや思想としての広義のハカラヒです。
絶対他力は 人知を超えています。
★ 親からはぐれたペンギンが“泣いて”親に気付いてもらおうと
しているように、呼びかけなければ“神”に気付いてはもらえませ
ん。
☆ そういう場合もあるでしょうね。
だけれども 神はすでに 世界のあらゆるものごとや出来事をと
おして それらそれぞれの中に 言わば数々のメールを散りばめ
ていてくれる・・・と言っても よいのではないか?
受け取るかどうか それを読むかどうか。の問題になっているの
だと思います。
泣く前から じつは すでに気づいてもらっている・・・という
のが 親鸞のメッセージだと思います。だって 絶対他力なんで
すから。
つまり 早い話が 能天気なんです。さとりとは。
弁栄師は ちょっと理知的なんぢゃないですか?
だって 赤子と言っていながら 汽笛さんは けっきょく人間の
よき思考や・けなげな努力を持ち出して来て 《おとな》になっ
ているぢゃないですか。
理性のほうが 感覚よりもえらいと言おうとしてるぢゃないです
か。
此処に於いて、ブラジュロンヌさんの神仏への哲学的?考えを、ある程度理解できたかなと思いました。
多分、共有する部分は多々あると思います。
数学者・岡潔氏の見解によると、弁栄上人は釈尊の云っていることと同じことを云っている、という事のようです。
ただ、一つだけ違うと云うか、釈尊の云っていないこと、があると。
それは『宇宙の本体は絶対の大心霊体である』と云う事。
こうした表現は釈尊は云っていないらしいです。
この霊体の意の力が宇宙の現象になっている、、、と云うのは私の思いです。
地球にとっての太陽は、人(生命)と神とに例えられます。
太陽のあまねく地球に降り注ぐ光は、神のメールでしょう。
No.15
- 回答日時:
★ (№14お礼欄) 《人知を超えたナゾ》を想定してしまえば、
永久にその《ナゾ》は解けないことになります。
☆ そこが おもしろいところです。まさに《なぞ》のナゾたるゆえん
です。
ところが おっとどっこい! になるんです。
☆☆ (回答№14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《人知を超えた何か》を 人知でどのように知るのか?
つまり 《そんなものが〈ある〉とも〈ない〉とも どちらとも人間が
断定することはできない》となります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ こうなりますよね?
つまり:
★ これでは哲学としては、あきらめざるを得ません。
問うても、詮索しても、無駄になります。
☆ というふうに判断し さらには断定することも出来ないわけなんで
す。
すでにわたしは触れたことがあると思いますが:
〇 《人知を超えている》ということは そのナゾが 人間ないし人知
に対してはたらきかけることがある。
☆ かも知れないわけです。人間からの努力では どうにもならないと
してもです。
ハタラキカケは――他方の見方として ないかも知れないのですが あ
るかも知れないとすれば―― たとえばニュートリノのごとくわれわれ
人間をつらぬき飛び交っているかも知れない。
アダムの創造の絵(ミケランジェロ?)のごとく 指の先がいまにも触
れなんとしている状態であるかも知れない。
https://www.google.com/search?rlz=1C1BLWB_enJP52 …
あるいはすでに 《霊性の遍在》説のごとく そこらじゅうに充満して
いるのかも知れない。
そして そんなバカなことはないだろうという他方の見方も あり得る
と考えられます。否定し去ることは 無理です。
これらの推測――つまり 神の心について人間のおこなう忖度――のど
れもが いづれか一つだけが正しいというのではなく それぞれあり得
ると考えられます。
なぜなら 《人知を超えたナゾ》について 人間が想像を逞しくしたそ
の結果だという断り書きを添えれば いづれも成り立ち得ます。
――これが 神です。普遍神です。(宗派は関係ありません)。
★ 私は思います。
人知を超えた《ナゾ》を求めて釈尊は修業したのではないでしょうか。
☆ 修行を始めた段階で そうであったという可能性は大いに考えられ
ます。
ですが この上なくとうとい知恵のさとりを得たと宣言した上では え
え加減なことを言ってもらっても困ります。また 弟子のシャーリプト
ラに懇願されても そのさとりとは何かについて答えなかった(法華経
・方便品でしたか)ということでも 困ります。
親鸞は 《義無きを以って義とす》という命題のかたちで さとりを明
らかにしました。つまり 人知を超えたナゾのことです。
ほかにはたぶん いないと思います。
ゴータマ・ブッダは アン‐アートマン(無‐我・非‐我)を立てて 《無
い神》派の神論(信仰)をかかげたのです。
だから ゴータマ氏にとって さとりとは 《大化城》なんです。仮り
に表現するとすれば これこれこういった精神の状態(つまり 身と心
との境地)なのであるといろいろ描いて見せたのです。
アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)または ワイローチャナ・タターガタ
(大日如来)をかかげ 《有る神》派の信仰に立ったのは 後世のブディ
ストたちです。民衆が 阿弥陀信仰を打ち出したのです。
《有る神》派も《無い神》派も 互いに同等です。
人知を超えたナゾたる普遍神の信仰――つまり 《信じる》派と《信じ
ない》派と――です。
人知を超えたナゾについては 《ある(存在する)》とも《ない》とも
どちらとでも ひとが自由に――また互いに対等なかたちで――えらん
で 受け容れればよいわけなんです。
これが じんるいにとって――現在における――もっともすすんだ哲学
としてのさとりです。
赤子の母を求める“はからい”のない心は、親鸞にもあったはず。
ほとけ想いのこころが、です。
赤子の心に“はからい”が無いように、他力を本願とするからには“はからい”があってはならない、と云っていると受け止めています。
ただ“はからい”のない、とは云ってもほとけを求める心があるわけで、その求め心は自力と云ってよいと思います。
神とのコンタクトは、自力と他力の交感に依って成り立つと思えば。
親からはぐれたペンギンが“泣いて”親に気付いてもらおうとしているように、呼びかけなければ“神”に気付いてはもらえません。
No.14
- 回答日時:
★ (№12お礼欄) “人知を超える”?
そんなものがあるのでしょうか。
☆ 《人知を超えた何か》を 人知でどのように知るのか?
つまり 《そんなものが〈ある〉とも〈ない〉とも どちらとも人間
が断定することはできない》となります。
★ 釈尊や弁栄上人の事を知れば、“そんなもの”はないと思えます。
☆ それも ひとつの立ち場でしょう。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜならば、宇宙から生み出された生命、その命の存在としての人間。
人間は宇宙の一部、であるはず。
だから、です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《宇宙あるいはその一部である人間》 これについては《人知が
およぶ》ものと見られます。
《生命》という場合には 経験的に分かる《生命体・生き物》のこと
を言う場合と それらや物から成るこの経験世界を超えたところのナ
ゾとしての生命とがあります。
後者は むろん人知を超えたナゾのことです。
★ あえて云えば、悟り。
これが、人知を超えると云う事ではないでしょうか。
☆ さとりの中身を人間が知ることができますか?
できるのなら 人知を超えていません。
★ 凡人にとっての謎も、覚者にとっては明白な事。
覚者の存在は“ナゾ”なんて意味不明である、と云っているように思う
のですが。
☆ 《覚者》も人間ですよね? その人間が《人知を超えたナゾ》を
知ることができるとは思えません。
だから 人知を超えたナゾなどは ない とするのか。どうなんでし
ょう?
▲ (コトバンク:神とは) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E-46603
A 一般に絶対的,超越的な存在とされ
B 人知を超越した絶対的能力をもち
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《人知を超えたナゾ》を想定してしまえば、永久にその《ナゾ》は解けないことになります。
これでは哲学としては、あきらめざるを得ません。
問うても、詮索しても、無駄になります。
私は思います。
人知を超えた《ナゾ》を求めて釈尊は修業したのではないでしょうか。
No.13
- 回答日時:
宗教は拠り所の一つ。
哲学は言葉を用いた論理の展開の手段。
という軸の違いがあると思います。
そして哲学した結果としての思想体系は
拠り所の一つという位置づけになるのだろう
と思います。
拠り所としての位置としては
思想体系という人為の位置よりも
宗教の神の位置のほうが
深い位置にある
ということになりそうです。
tanzouさんが、
哲学は理に訴え、宗教は情に訴える、と云っていますね。
そして、理は情には勝てないとも。
これに合わせて回答を読みました。
ご返事が遅れたのは、解釈に手間取ったからです。
また、わしやけどさんが信仰と宗教を区別してますが、この視点に立てば「宗教の神の位置のほうが深い」という、その意味は宗教よりは信仰に近い事に属するように思えました。
有り難うございました。
No.12
- 回答日時:
★ (№9お礼欄) 宇宙と生き物とのつながりをなぜ“ナゾ”として
しまうのでしょうか?
☆ びみょうに違うんですが。
〇 人知を超えたところの何ものか。これを ナゾと言っています。
〇 宇宙は 経験事象ですから 霊性なるナゾではありません。
〇 宇宙と生き物とのつながり これも 経験事象です。そこには未
知のことがあるでしょうが その《なぞ》は 絶対性としてのナゾで
はないわけです。
“人知を超える”?
そんなものがあるのでしょうか。
釈尊や弁栄上人の事を知れば、“そんなもの”はないと思えます。
なぜならば、宇宙から生み出された生命、その命の存在としての人間。
人間は宇宙の一部、であるはず。
だから、です。
あえて云えば、悟り。
これが、人知を超えると云う事ではないでしょうか。
凡人にとっての謎も、覚者にとっては明白な事。
覚者の存在は“ナゾ”なんて意味不明である、と云っているように思うのですが。

No.11
- 回答日時:
信仰てのは
太陽信仰であったり
海洋信仰であったりして
宗教とは
また
別な事柄である
てな
意味だよ
信仰の良さを
宗教が取り込んだ
てな
解釈できるかなかな?
(  ̄▽ ̄)にっこり
お返事ありがとうございます
智識ってのも
科学てのも
ある意味
教えでは
無いかな?
科学で証明できる
智識で解説できる
事柄と
科学で解明できない
智識で解読できない
事柄って
まだまだ
沢山あるからね
宗教じたい
毛嫌いするほど
悪い事では
無いですよ
宗教を悪用する
権力者とか
為政者が
歴史に沢山出てくるけどね
それでも宗教が廃れないのは
何故?
ひとって
必要なものは
残して行くから
無宗教てのは
なかなか
レアなケースらしいですよ
“人って必要なものは残して行くから”
この文句、いいですね。
信仰は理屈ではないですね。イワシの頭だって信仰できるのですから。
そこを支点にすると、宗教は“教え”なのだなと思えました。
有り難うございました。
No.9
- 回答日時:
★ (№8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
と、いう事はブラジュロンヌさんは
悟り、と云う世界はこの世に存在しない
そうした精神世界はあり得ない
と云う立場、ですね?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 勝手に決めないでよ。
★★ (№4お礼欄) 《感じる》〔や人知一般が〕 ナゾに対して威力を
発揮し、それを捉える
☆ ことは 出来ないでしょうが――つまり 精確に言えば 出来るか出来
ないかが人間には 分からないでしょうが―― おっと どっこい! 霊性
なるナゾが そのナゾのほうからわれわれ人間とその世界に 何らかのハタ
ラキカケをおこなうことは あり得る。と推し測られます。
そのハタラキカケを否定する根拠は――それを肯定する根拠と同じく――な
いわけです。
やましさ反応を起こさせ 恥ぢの意識をおぼえさせるのは ナゾからのその
ハタラキカケであるのではないか? という気がわたしはします。
幼子は母の胸に抱かれて安らいでいます。
少なくとも、幼子にとっては母とは一心同体、と云えるでしょう。
宇宙の本体から生まれた生き物にとって、この宇宙は(地球は)母親も同然。
となれば、現代の地球の痛々しさに心を向けざるを得ぬ人間は、自然な感情であると思います。
宇宙と生き物とのつながりをなぜ“ナゾ”としてしまうのでしょうか?
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