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観念論だとか唯物論だとかありますが結局のところ「神」というものはいるんでしょうか。
もしいなかったとすると宗教のために戦争がおきることがかなり虚しいんですが。

A 回答 (27件中1~10件)

神々からの慈愛を独占したがる杜撰な欲張りの表れが、


蓋し宗教的な対立を生み続けてきたのでしょうね。
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神の存在についての哲学はまだ勉強したことがないですが参考までに。



私は神はいないと思っています。
人間は愛されていなければ生きていけない動物だと言われており、それが実現してない場合は私達は妄想をし、あたかも自分がそうであるように見せかけます。そういう弱い心から生まれたのが神です。

もう一つの例として、ぬいぐるみにお金をくれと祈ったとします。
ぬいぐるみに祈ったところでご利益なんてないでしょう。たまたまお金がもらえたとしてもそれは偶然です。しかし、今度は神に祈ったとします。この時、たまたまお金がもらえると、祈りが通じたのだと錯覚します。祈るのは神でもぬいぐるみでもなんでもいいのです。神はいないのですから。

>もしいなかったとすると宗教のために戦争がおきることがかなり虚し いんですが。
宗教のために戦争がおきるのは、彼らは神がいると信じているからでしょう。宗教は国の文化の一部である場合がほとんどだと思います。哲学的や科学的に神がいなくても、文化の一部である以上彼らの心の中にはいることになります。
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 神仏はいると私は確信しています。


 理由は、聖徳太子・空海・マザーテレサ・ナイチンゲールは、多くの人々の幸せに尽くした立派な尊敬する方々であり、ウソをつく人ではありませんよね。この尊敬するウソをつかない方々本人ご自身が、神や仏陀の実在を告げ、尊崇しておられるからです。
 また、宗教戦争につきましては、釈尊もイエス様も宗教戦争をしなさいなどと言っておられるわけもなく、愛し合いましょうと言っておられるのは明白ですよね。
 例えば教師が自分のクラスの生徒全員を愛し、みんな仲良くしてすばらしいクラスにしようと熱心に呼びかけても、現実には生徒間では意見や意向の違い等からケンカになったり、またもちろん逆にすばらしい体験を共有し合ったり、色々な出来事が起きるでしょう。苦い体験は基本的に嫌なものですから、今後はそうならないように、改善して行けばいいでしょう。試行錯誤を繰り返しながら、だんだんとよくなって行くようにすればいいのでしょう。宗教に限ったことでもなく、職場や家庭や地域社会生活等々、同様のことなのではないでしょうか。
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いくら考えても分からないことです。


が、いると思います。
それが人間の形をしていなくても・・・

そもそも宇宙ができたことがなぞです。
今はビックバーン説が有効ですが、それが起こる前には何もない無の世界であったそうです。
何もない世界で突然爆発がおこるでしょうか?
そのあたりに答えが潜んでいるはずです。
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 神はいます。

それは存在全体を存在せしめている
 宇宙を貫く「理法」であり、少し地球的に言えば「愛」です。
 ただ「神」というと一般には一神教の手垢がついてしまっていて
 個別のいわゆる「神」同志が激突してしまうので
 東洋思想になじんでいるわれわれにとっては
 「天」とか「道」とか「法」とかの言葉で表現した方が
 いいようです。
 
 過去に何度か似たような質問にもう少し具体的に答えています。
 よろしければ私の過去ログ参照ください。
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こんなに時間がたっているのに、すいません。

面白いのを見つけてしまいました。
閉めてませんでしたので一言、ご参考になればと思い投稿させていただきます・
>>結局のところ「神」というものはいるんでしょうか。
まず「神」の捉え方ですが100人いれば100人
の認識がおそらくは違っているとおもいます。
どんなに説明しても一人一人の認識に差があり、
そもそもの定義が違っていることも多いと思われます。

たとえば、「愛」ということを考えても、そうですが、3次元のこの世の中で目にも見えず音も聞こえずにおいもせず、形もなくば、手にもとれない、
しかし「愛」を否定する方は少ないと思われます。
なかには愛を知らず、認めない方もいらっしゃるで
しょう、しかし厳然として愛は存在しています。

マザーテレサを見よ!過去、愛の塊となって生き抜いた人々を見よ!と言いたいです。
その純粋な愛はどこからきているのか?
また、愛なくば親子、夫婦、兄弟、友達、恋人、あらゆる人間関係が成り立ちません。
愛はほんの日常的な愛、与える愛、隣人愛、としても存在するだけではなく、
もっと高次な愛もいくらでも存在しております。
人を愛する事を知らずに生きてきた人はかわいそうです。
なんとか知ってほしいと願わずにはいられません。
しかし、この愛を形有らしめる事は、証明する事は全く出来ません。
この精神活動を愛の思いを、他の人からどれほど、否定されても、
愛が存在しないなんて事は自分の中では全くありえない事です。
愛とはなんと、神、と似た存在でしょうか。
証明する事はできないが、確かに自分の心が、
魂がその存在を確信している。信じている、
といい続ける以外証明できないのです。
この物質世界の中で目に見えない価値の素晴らしさを認識出来る事はなんと素晴らしいことでしょうか。

しかし、この信じるという行為、信仰という行為のなかに実は「信仰とは事実の確認である」という経験をする方が多いのです。愛を信じた時に幸福を感じたように!神はほんの隣にいらっしゃる事を、事実として認識する事も多いのです。

>>宗教のために戦争がおきることがかなり虚しいんですが。

偉大な偉大な過去の偉人、神近き方々、の残されたものを謙虚な気持ちで見てみますと、
世界宗教になったものは共通する普遍的真理があります。
それは他を愛せよ、悪い思いは反省せよ、良いことには良い結果があり、
悪い原因には悪い結果となり、
善人は天国で悪人は地獄(すごく簡単にいいますと)この2点とあの世の観点があります。

これは神(人格神)、または宗教が原因ではありません。宗教の教えを勝手に間違って解釈した人間の過ちであります。人間がまちがったのであります。
ひとからげに宗教のせいだと言えるようなものではありません。

本当の自分として、素直な自分として生きていく中で「神」「仏」あるいは「仏神」「主」いろいろ呼び名はありましょうが、いつかそのようなきっかけがあり、一つの答えにたどりつきますように、心よりご祈念いたしております。
ちなみに私は神を光の塊として霊的に観じた事があります。(古代の大陸の神「人格神」)
また私の知人にはギリシャ時代の人格神を観じた方がいらっしゃいます。(他にも多数)
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私もNo.17の方に賛成です。


神とは信じる対象だからです。「信」じて「仰」ぐのですから。
信じなければ「神はいない」し、信じれば「神はいる」と思います。
多神教に唯一神は存在しないし、一神教に多神は存在しません。「龍」や「河童」、「妖精」などと同じモノではないでしょうか。
ただ一つ私が思うは、「神の名の下に」「戦」をするのは「神」に対する最大の冒涜だと思っています。
だって、「人として生きる教え」が伴う神様ならどなたでも「人が幸せになれる」「戦をしないこと」を必ず説いているはずですから。それを「神の名の下に」って…。

後半話が少々脱線しました。
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神に対する考え方は非常に様々ですよね。


人類は有史以来様々な信仰を神に捧げてきました。
文明が遅れているといわれる地域でも信仰はあります。
多数決にするなら神は居るということになります。
しかし、神が居ようが居まいが、なんら私たちの生活に関係のない話だと私は思うのです。
何故なら、神が存在するのなら必要とあればその存在を神自ら証明するでしょうし、必要なければ永遠に姿を現すことはない。そして、もともと存在しないのなら姿を現しようもないですからね。
存在するのならば、信仰しなければならないと考えるのはちょっと違いますよね。
神が万能ならば万人に信仰させることなど容易いはずですから、「神は存在するか」という疑問さえ存在するわけがない。
神の存在とはこの世に起こる全ての偶然のことを指すような気がします。
少なくとも”神”が自分自身で存在を現すまでは、私が神の存在を肯定することはありません。
つまり、今現在は”神”は存在していないというのが真実ではないでしょうか?
わざわざ振り回されることはありません。
幸せな日常を送っていればいいのです。
心の中に神を持つことは良いことだとは思いますけどね、あくまでも抽象的な心のよりどころとしてですよ。
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私は、神様は実在すると信じます。


人間という存在が偶然にこの宇宙に発生したとします。
だとすれば、全ては偶然の連続ですから、突然変異の「なれの果て」が
人間だとも言えますね。しかし、突然変異がいつ起こるかも分からないのに、
どうして、偶然に、脳と頭蓋骨と動脈と静脈と肋骨と心臓と、肺と胃と腸と
肛門と口と・・・・が、ちゃ~んと連結され得るでしょうか?
合目的的に合体し得るのでしょうか?ナンセンスなのですね・・・。
DNAの螺旋構造が偶然に出来る確立は0だと科学者は言っていますよ。
科学を信じない人は、神様も信じられないのかも知れませんね。

「神様がいない!」というからには、神様がどういう方かを知らないと
いけません。ここに「ひまわり」があります。と言える人は、
「ひまわり」がどういう存在かを知っている人だけなのですね。
ですから、神様を知らない人は、少なくとも、「神様はいない!」
とは言ってはなりません。「神様はいないと信じます」若しくは「分からない」
と言うべきなんですね。

又、人間が偶然に生まれたのなら、生来、人間には存在価値はないという
ことになります。理論的にそうです。存在目的は、創造目的に因ります。
創造目的がないのに、存在目的はありえません。存在目的のないものに、
存在価値は、本源的には、無いのです。自分で価値があると言い聞かせてみても、
それは、自慰行為でしかありません。
価値というものを追求する心を持っている人間は、存在価値があるから、
そうするのです。つまり、存在目的があるからなのです。

そうでなければ、人間の尊厳性なんて言ってみたところでナンセンスだと
お思いになりませんか・・・?
主な外国の基本法(憲法)の前文を読んでみてください。
ほとんどが、創造主なる神様の存在を歌っています。
なぜでしょうか?そうでなければ、人間の存在価値がなくなるからです!!
人権の拠り所がなくなるのです!!

私は、毛虫がさなぎになり、蝶に生まれ変わり大空を飛んでいくのを、
考えるといつも不思議でなりません。彼らの口はストローのようになっています。
なぜでしょう?花の蜜を吸いやすいようにです。
ならば、蝶は、生まれる前から、この地上に花があり、蜜があることを
知って生まれたことになります。
人のまつげは、なぜありますか? ごみが目に入りにくいようにする為では
ないですか?心臓は何のためにありますか?血液を体中に循環させる為ですね。
全ての機能的存在には目的があるのです。偶然に発生した物に一体どうして、
目的性を持たせることが出来ますか?又、自分でそれを持ちえましょうか?
無理なんですね。
目的をもってそれぞれが存在してるのに、その合目的的統一体である人間
それ自体には、存在目的がないなんてわけがあるはずがない
じゃありませんか??簡単なことです。理論的にそうなのですね!
目の必要性を感じなかったアメーバーがどうしていつ、目の必要性を
感じたのでしょうか?感じたらといって、目が自然に造れますか?
だから、偶然ではないのですね。この宇宙は、すべて創造目的があります。
目的性があるので、秩序性があります。
人間も目的があって進化してきたのです。偶然に進化してきたのではありません。
私の信じる進化論はですから、「目的論的進化論」なんです。
この宇宙に創造目的があるということは、その背後に意思があるということです。
ですから、創造主なる神様がいるだろうという推論は可能だと言えます。
それでは、今日はこの辺で・・・。
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 回答になっていませんが、神がいるかどうか僕にもわかりません。

ただ、宗教について自分なりの意見を書かせてもらいます。僕は、宗教自体は人々が幸福になるためにつくられたものだと考えています。ただ、それを作り出した、少なくとも形にしたのは人間でしょう。こんなことをいうと怒られるかもしれませんが、宗教というのは、人が幸福になるために創り出された1つのツールだと僕は捉えています。つまり、宗教はあくまでも人が幸福になるための手段として存在するのであって、目的であってはいけないと思うのです。
 数々の宗教紛争は宗教自体を目的としていることから生じるのではないでしょうか。確かに、宗教の性質上これは仕方のないことかもしれません。しかし、宗教はあくまでも個人的なものです。つまり、宗教は個人の内側に存在するものであって、個人の外側には存在しないのではないでしょうか。宗教は個人の内にあってのみ絶対のものであればいいのだと僕は思います。ところが、宗教紛争が起こる場面を見てみると、宗教は個人的なものではなく、集団的なものになっているように思えます。人々は、宗教の絶対性を己の内側のみならず、外にまで求めているのです。
 宗教を一括的に捉え、集団と集団の対立構造としてみる限り、宗教紛争は永遠になくならないのではないでしょうか。そして、宗教をあくまでも個人的なものと捉える、すなわち、多様な価値観を認め合うことができるようになることは、やはり個人の力にかかっているでしょう。まずは、宗教を持っている者は自らの属する集団、教団に対して批判的な目を持つことが大事でしょう。宗教団体=宗教ではないのだということを肝に銘じておくべきです。

この回答への補足

貴重な意見をありがとうございます。
補足としては特定の宗教を信仰してらっしゃる方はえてして他の宗教を頭ごなしに否定してしまうというようなことがあるようなので。
>まずは、宗教を持っている者は自らの属する集団、教団に対して批判的な目を持つことが大事でしょう。
すべての人がこうであれば世の中は変わるんでしょうかね。
「教え」を実践していれば自分で考えることをしなくて楽だとは思うんですけど。
ちなみに私は現在無宗教ではありますがこの先どうなるかはわかりません。
そして無宗教ではありますが全ての宗教に関して否定的な考えをもつこともしていません。
回答していただいた皆さん。全てのご意見に対してはコメントをしていませんが他意はありませんので。

補足日時:2002/11/18 01:24
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