CDの保有枚数を教えてください

このところいくつかの同じような質問があって、眺めているうちに妙なことを思いついてしまいました。

1)公園を散歩する
2)公園で散歩する
 どちらもフツーに使うでしょう。
 日本語教育のジャンルでは有名な話のようです。
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%85%AC%E5 …

3)公園の散歩をする
4)公園での散歩をする
 どちらも無理気味です。特殊な文脈をもってくればなんとかなるかもしれません。
「公園(で)の散歩」を日課にしているくらいならアリでしょうか。

 さて、本題はこのあとです。
5)公園を掃除する
6)公園で掃除(を)する
7)公園の掃除をする
 6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。

「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
 1)と2)はほとんど同じ意味に思えます。
 でも、5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。
     それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。ヨソでやってください。
    https://kotobank.jp/word/%E3%81%A7-573220

      補足日時:2019/12/13 21:43
  • どんどん症状が悪くなっているようですね。
     ご自愛ください。

      補足日時:2019/12/19 22:27

A 回答 (29件中1~10件)

#19です。



1.

【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。

6)公園で掃除(を)する。
いわゆる動名詞と考えて良いのでしょうが、「で」によって表される公園という場所で行われる掃除という動作が、
・名詞扱い=掃除(というもの)をする。
・動詞扱い=掃除(という動作を)する。
どちらも可能になるからではないかと思います。

5)は、公園が「を」によって動作の対象と位置づけられているので、「掃除する」という動詞にならざるを得ない。
7)は、「公園の掃除」が「を」によって動作の対象と位置づけられているので、「する」という動詞にならざるを得ない。

【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。

3)公園の散歩をする
7)公園の掃除をする

「を」は動作の対象を表わしますが、公園は散歩の対象とは認識しづらいからではないかと思います。
自動詞と他動詞の違いに着目するとわかりやすくなるかもしれません。

【3】5)と6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。

5)公園を掃除する
⇒公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されている。綺麗になるのは公園。
6)公園で掃除(を)する
⇒公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されている。掃除の対象が何かは不明かと。たとえば、何かを持ち込んでの掃除だったり、あるいは、公園の一部の側溝だったり。

2.
おさわがせいたしました。
>現代の日本語にはあてはまらない文法

であっても、それなりに筋が通っていれば、「見解の相違」ぐらいのことは言ってあげられるのですが。(笑)
それだとまだマシなんですけどね。
なにしろ、辞書語釈にある、

【「で」は場所を表わす】

という日本語の意味が通じないのですから、話の糸口すら掴めない。
通じた上で、それは間違っている、と言うならまだわかります。
しかし、『日本語の意味が通じない』と申し上げたのは、比喩とかではなく本当に通じていないらしいので、困ったもんです。
冗談みたいな話ですが、辞書語釈のこの日本語の意味が理解できないからこそ、

《★「公園で掃除する」
この「で」が場所を表わすと考えられている方が多いようですが、そもそも「公園」は場所でしかなく、それにも関わらず何故「で」が場所を表わすと考えられるのか》

なんてことを平気で言ってくるのだと思います。

「公園」が場所であるのは確かなのですから、『「公園で」の「で」は場所を表わす』自体が間違いであろうはずはありませんよね?

この理屈が通じないのだから、どうしようもない。
それをわかった上で、「で」は場所以外の他の何か(たとえば、手段・理由など)も表わすことがある、と言うなら、まだ会話が成立するのですが、そうじゃないので火星人と話しているようなもんです。
あげくの果てには、

《いちいち「で」で表さなくても)「公園」を時間や、宇宙と受け取る人はいません。》

ときたもんだ。(笑)

『場所が場所であることを表わすのではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。』

と噛み砕いてあげても、

《「どんな場所なのか」→「公園」となるだけで、このレベルで応答を繰り返しても同義反復となるだけで、助詞「で」の意義の廻りを堂々巡りするだけです。》

と開き直る。
しかし、この苦し紛れの詭弁が通用するなら、
「公園で掃除する」と「公園を掃除する」の公園は、どちらも『「公園」という場所』で片づけられてしまうことに気づいていないようです。
自分の言っていることに脈絡というものがまったくなく、その場凌ぎの場当たり的な返答を延々と続ける。

最後には行き詰ってしまうわけですが、そうなると得意のソシュールパラダイムなんちゃらやカントの登場と相成る。(笑)
それなりに聞いてみたい気もしますが、そこに至る過程が滅茶苦茶なのでまったく信用できない。
1+1は3だ、と言う人に相対性原理を解説してもらおうとは思いませんよね。(笑)
長々と愚痴ってしまいましたが、ご寛恕のほどを。
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この回答へのお礼

「いわゆる動名詞」?
 日本語の文法で「動名詞」と言いますか?
 それは「スル動詞」などと呼ばれるもののことでしょうか。

「掃除する」も「散歩する」も「スル動詞」だと思います。
 なぜ接続などがこんなに違うのか、当方には見当もつきません。
「散歩」も、名詞扱い(名詞のイメージが強い?)の場合と動詞(動詞のイメージが強い?)扱いの場合があると思います。
 
>自動詞と他動詞の違いに着目するとわかりやすくなるかもしれません。
 それは可能性があると思いますが、現段階では不明です。


「SF文法」に関わっても、何も得るものはないと思います。

お礼日時:2019/12/29 14:48

おはようございます。

 生を生きたり死を死んだりします。目的語が要らないけど付けるとそれっぽくなります。再帰です。再帰っぽく公園を散歩します。それなら散歩を散歩すればいいのに。
 公園を公園するのはダメです。動作と物の違いがあります。散歩とするに別れて散歩をします。散歩を散歩をするのは気持ち悪いです。
 全部一遍に使ってみたくなります。公園を公園で公園での公園の公園をする。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
 本題に関してはどうお考えでしょうか。
 コメントNo.1のお礼に書いたことを再掲します。

【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
【3】5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。

お礼日時:2019/12/26 22:37

No.26 にお答えします。



1.
>「公園で掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されている。

で、格助詞「で」の意義は?

>「公園を掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されている。

で、格助詞「を」の意義は?

何を問題にしているのかが全く理解できていませんね。
問題の本質が理解できずに、思い込みを並べても空回りするだけです。

2.
>着点という本質的意義は

いつの間に「本質的意義」になったのですか?
日本語の意味を理解することが先決であるのに、それができていませんね。

3.
>「中河原駅を出発した。」という動作は何時に起きたのか?

「9時に中河原駅を出発した。」という文の中には、「起きた」という動詞はありません。
【動詞が表す移動性に着目しなければならない.】のに、表現されていない動詞を持ち出して説明するのは、全くのご都合主義で、意味をなしません。

融通無碍のお遊びではどうしようもありません。

まあ、いちいち対応しているとキリがないので、このへんにしておきます。
しばらくじっくり論理的な思考、解明とは何かをお考えになった上で、不明な点を別途質問下さい。
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#23です。


#25に応じて。

1.
>「どんな場所なのか」→「公園」となるだけで、
>何が根拠なのですか。「で」に指がありますか?

「公園で掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されている。

「公園を掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されている。

これらの違いが理解できない、ということですね?
まず、ここから始めてください。

2.
>それで分かった気になるため、今回のような疑問、質問が延々と繰り返されることになります。

ひと言で表すのが本質的意義ですから、実際の文に適用する場合に、色々と難しい問題が出てくるのは当たり前のことでしょう。
それをわかりやすく解説しているのが辞書の用法です。
そうか、着点という本質的意義は、この文においては、こうした用法として適用されているのだな、という理解に至ることができるわけです。
日本語の意味を理解することが先決であるのに、本質的意義を偉そうに開陳するだけでは何の役にも立たない。
しかも、それが間違っているときては終わってますよ。

3.
>これでは、「9時に中河原駅を出発した。」に何故「に」を使用するのかを説明できません。「出発」は移動の始点です。極めて倒錯した論理です。

「中河原駅を出発した。」という動作は何時に起きたのか?
という源を辿れば、それは「9時」という時刻に辿り着く。

およそ、こういった構造です。

a:中河原駅を出発した。
b:いつ?
a:9時に。

といった会話を総合してみると理解しやすくなるでしょう。
「出発」という動作の行われた時刻、それは「9時」ですよ、と格助詞「に」を使うことで表しているわけです。

まあ、いちいち対応しているとキリがないので、このへんにしておきます。
しばらくじっくりお考えになった上で、なお腑に落ちなければ新たに質問でも立ててください。
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No.23 に 答えて



1.
>『場所が場所であることを表わす』のではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。

「どんな場所なのか」→「公園」となるだけで、このレベルで応答を繰り返しても同義反復となるだけで、助詞「で」の意義の廻りを堂々巡りするだけです。

何ら、この質問者の疑問を理解したことにはならず、ましてや解明、回答などできません。

「中学生でもわかる認識なのですが。」などと言ってみたところで、この質問者が中学生でないのは明らかで、回答者のパラダイムに呪縛された思い込みを述べてみても全く解決にはななりません。

まず、この点を自覚、認識することが大切です。

2.
>いや【指す】と根拠を挙げて申しあげている。

何が根拠なのですか。「で」に指がありますか?
あなたこそ論理的根拠を示したうえで、その説の正当性を主張しましょう。

>誰か偉い先生が言ったからそうなんだ、というだけではお話になりません。

「ああ言えば、こう言う」の典型ですね。
「偉い先生が言った」からではなく、当方の主張が助詞とは何を論理的に考えれば当然そうなりますという事例を挙げたまでです。残念ながら、その後の「は」「が」論の展開は鋭い指摘はありますが、生成文法の発想に縛られ十分な解明には至っていません。

問題は、助詞とは何かを明らかにすることで、この点をどのように考えられているのでしょうか?

3.
>『無限』と感じるのは勉強不足のせいでしょうね。
限定されていますよ。

言語表現が他の絵や音楽と比し限定された表現であるのは確かですが、言語表現自体としては生成文法論者の云う意味とは異なった無限の表現が可能です。
この辺が理解できないのは、勉強不足のせいでしょうね。

>用法として示しているのが辞書の語釈

本質を明らかにできないため、用法で糊塗しているのが現在の辞書の実状です。

4.
>そのぐらいのことは辞書で誰でも確認できること。

そのぐらいしか辞書では確認できないため、質問がされているのが理解できませんか。
>見解の相違でしょうから致し方ない。

見解の相違ではなく、パラダイムの呪縛が理解できない発想の限界です。
自らの見解の不都合に気づき、いつまでもごり押ししてないで改めるという態度を見せるのが大人の作法だということぐらいは覚えておくとよろしいです。

5.
a.むべなるかな。
一律に「場所」で片づけられると勘違いする方ばかりです。

b.
>以前から申し上げている格助詞「に」の用法【着点】に附合する解説が載っている

だから、課題が残るということです。

>よくご覧になれば、それほど難しいことじゃないことがおわかりになるでしょう。

それで分かった気になるため、今回のような疑問、質問が延々と繰り返されることになります。

>動詞が表す移動性に着目することができれば,「に」が「移動の到着点」を指す働き(國廣1980)17)を身につけることができると考えられる.

この國廣氏の発想の限界、誤りを指摘しているのが先に紹介した弟子である柴谷方良(まさよし)の

「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」
(『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』 [くろしを出版,1990.6.1])

です。

「動詞が表す移動性に着目すること」というのが単なる後付けの論理でしかないことが理解できないところに、ソシュールパラダイムのラングを言語本質とする発想の限界、誤りを見なければなりません。

話者の認識の媒介という言語表現のもつ立体的な媒介の構造が理解できずに、平面的な解釈に陥った道具観の発想です。

>「で」はなぜ不可なのかについて、着点だから「に」を使う必要がある、と説明するのは、極めて明快な論理でしょう。

これでは、「9時に中河原駅を出発した。」に何故「に」を使用するのかを説明できません。「出発」は移動の始点です。極めて倒錯した論理です。
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#23です。


訂正がありますので再度失礼。

×
つまり、着点という意義を知らないと、場所だということで、「9時で中河原駅で集まった」のような文を作ってしまうと言っている。


つまり、着点という意義を知らないと、場所だということで、「9時に中河原駅で集まった」のような文を作ってしまうと言っている。
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#21です。


#22に応じる形で。

1.
>「公園」を時間や、宇宙と受け取る人はいません。

ですから、場所じゃないとは言ってませんよね?

『場所が場所であることを表わす』のではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。

と言っている。
この文の意味が理解できないのですか?

2.
> 名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体が【ある事物や動作・状態】を【指さない】。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。
ということです。日本語が理解できませんか?

【指さない】と決まってるんだから指さないんだ、と駄々っ子のようにごねるだけでは用を為しません。
こちらは、いや【指す】と根拠を挙げて申しあげている。
あなたも論理的根拠を示したうえで、その説の正当性を主張しましょう。
誰か偉い先生が言ったからそうなんだ、というだけではお話になりません。

3.
>辞書は単語の意義を説明するもので、文脈を説明するものではありません。
いちいち文脈を説明していたら、無限の説明が必要になります。
未来に使用されるものを説明することはできません。

『無限』と感じるのは勉強不足のせいでしょうね。
限定されていますよ。
本質的意義はひとつでしょうが、シチュエーションに応じ、それを咀嚼する形でわかりやすく用法として示しているのが辞書の語釈というものでしょう。

4.
>「で」の本質的意義について触れないで、毎回思いつきの都合のよい解釈を並べてどうするのですか、

上の3でも申し上げたように用法は、ある程度限定されている。
その質問に合った用法を示し、必要であれば他の用法も提示するようにしている。
これを『都合の良い解釈』としか認識できないようでは、用法という言葉の意味を知らないとしか思えませんね。
そもそも、そのぐらいのことは辞書で誰でも確認できること。

思いつきと言うなら、それは、むしろ本質的意義のほうでしょう。
「で」の本質的意義は「原因・理由」だなどと、とんでもない思いつきをいつまでも主張する御仁もおられますが、それはそれでご愛敬。
見解の相違でしょうから致し方ない。
しかし、他人の見解を聞いて自らの見解の不都合に気づいたら、いつまでもごり押ししてないで改めるという態度を見せるのも大人の作法だということぐらいは覚えておくとよろしいです。

5.
><場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->

a.
これは面白そうですね。
冒頭付近の以下のような記述が印象的かと。

※日本語学習者には,人や物の存在場所を表す「に」と動作場所を表す「で」の混同による誤りが現れることが知られている.※

むべなるかな。
ネイティブでさえ、
『場所が場所であることを表わす?
表わさなくとも公園は場所です。』
と宣いつつ、
「公園で掃除する」
「公園に砂場がある」
の公園を、一律に「場所」で片づけられると勘違いする方もおられますのでね。

b.
以前から申し上げている格助詞「に」の用法【着点】に附合する解説が載っているので、下記に引用しておきます。
よくご覧になれば、それほど難しいことじゃないことがおわかりになるでしょう。

※「9時に中河原駅で集まった」(鈴木1978)3)に「に」を正しく用いるためには,動詞が表す移動性に着目しなければならない.
日本語学習者が,動詞が表す移動性に着目することができれば,「に」が「移動の到着点」を指す働き(國廣1980)17)を身につけることができると考えられる.※

つまり、着点という意義を知らないと、場所だということで、「9時で中河原駅で集まった」のような文を作ってしまうと言っている。
「で」はなぜ不可なのかについて、着点だから「に」を使う必要がある、と説明するのは、極めて明快な論理でしょう。
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#21に応じる形で。



>>「公園で掃除する」という文における「掃除する」という動作の行われる場所として公園を指定するために格助詞「で」が使われるわけです。

「公園」を時間や、宇宙と受け取る人はいません。

No.14 で引用した通り、

 名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体が【ある事物や動作・状態】を【指さない】。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。

ということです。日本語が理解できませんか?

>>文脈からはずれた批判は避けないと議論がかみ合わなくなりますよ。

辞書は単語の意義を説明するもので、文脈を説明するものではありません。
いちいち文脈を説明していたら、無限の説明が必要になります。
未来に使用されるものを説明することはできません。
その程度のことが理解できませんか。

>>そもそも、「で」の本質的意義については触れていません。

「で」の本質的意義について触れないで、毎回思いつきの都合のよい解釈を並べてどうするのですか、
その結果、<場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->
https://kyukyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view …

のような混乱を引き起こしています。そして、課題だけが解決されずに残ります。

>>>学校が点(・)ですか。目が・になります。(@_@;)

こうした感覚では、何も理解はできないでしょうね。
中学生でもわかる認識なのですが。

非母語話者の中学生に理解できれば、上記のような問題は起きませんね。
こうした感覚では、大人の日本語学習者に対し正しい教育を行い、理解を得ることはできません。
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#19です。


#20に応じる形で。

1.
>トートロジー、同義反復という言葉をご存じでしょうか。
場所が場所であることを表わす?
表わさなくとも公園は場所です。

「公園で掃除する」
という文における「掃除する」という動作の行われる場所として公園を指定するために格助詞「で」が使われるわけです。
また、
「公園を掃除する」
という文における「掃除する」という動作の対象として公園を指定するために格助詞「を」が使われる。
『場所が場所であることを表わす』のではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。
公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されているのか、
公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されているのか、
という違い。

2.
>★ペンで字を書く。
「ペン」は場所ですか?

そんなことは一言も言ってませんが?
そもそも、「で」の本質的意義については触れていません。
要するに一言で言うなら本質は何か?
という点については取り上げていません。
文脈からはずれた批判は避けないと議論がかみ合わなくなりますよ。
まだ検討段階ですが、せっかくだから、敢えて申し上げるなら、「場面・状況」かなと考えているところ。
仮に場所だとしても、「ニューギニアで戦死した」が原因・理由という強弁よりは数段マシですよね?

3.
>>「ニューギニアで戦死した」などは、
「ニューギニア」を場所として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
と問われる可能性に気づいてないらしいのが痛いところですな。

可能性ではなく、意義の拡張の契機を考えるということです。

だから、その拡張過程が、まったく論理性を欠いている、と申し上げているわけ。
・戦争で国民の目を外に向けさせるのも一法であろう。
は確かに手段・方法でしょうが、
・ニューギニアで戦死した。
に適用するには納得の得られない用法だ、ということ。
ニューギニアは「手段・方法」でないのはもちろん、それをどう拡張、発展させたって「原因・理由」などになるはずがないでしょう。
桜を見る会の、太鼓持ち官僚の詭弁を聞いている気分になりますね。(笑)
論理というものが一切通用しない世界。
都合が悪い箇所は、思い切り端折って胡麻化す姿勢もよく似ている。(笑笑)

4.
>★学校【に】大きな木があります。
<「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。>とは、<「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している>のではありませんか、そうでなければ何を言っているのでしょうか?

ですから、自体という語を使うから、ご自分で勘違いしてしまうのではないですか、と申し上げているところ。
あなたは、『「助詞それ自体がある事物や動作・状態を指す」と解釈した誤りだ』と言っている。
そうではなく、「助詞は、ある事物や動作・状態を指す」と素直に捉えれば済む話です。
「に」自体が「ある事物や動作・状態」だと言っているわけじゃないんです。
そんなことは、どの辞書も言っていない。
であるのに、「自体」という語を使うから勘違いをしてしまうわけ。
ま、じっくりお考えになってください。

5.
a.
>学校が点(・)ですか。目が・になります。(@_@;)

こうした感覚では、何も理解はできないでしょうね。
中学生でもわかる認識なのですが。
比喩という言葉すらご存知ないようです。
論点をはぐらかさず、少しは素直に他人の言うことを検討してみましょう。

b.
>★ペン【で】(字を書く。)
「ペン」は場所ですか?
【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】していますか?

相変わらず、日本語の読解力に問題がありそうですね。
くりかえしますが、この「で」が場所だとはひとことも言っていない。
字を書くという動作のおもむくところ(この場合は着点としての「場面・状況」)を、そこ(=ペン)と指定している。
少し難しいかもしれませんが、ちょっと考えればお分かりになるでしょう。

c.
>指すことができるのは指です。

おやおや、困ったものですね。
こんなことから説明しなければならないとは。
以下に示した大辞泉の語釈を参照してください。
あなたが言っているのは、
2 (指す・差す)
㋐指などで目標とする物や場所・方向を示す。指さす。「指で―・して教える」「後ろ指を―・される」「時計の針が七時を―・している」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B7%AE%E3%8 …
という意味だけ。
すぐ下を見れば、

㋑人や物をそれと決めて示す。指名する。また、密告する。「文中のそれは何を―・しますか」

という語釈があるので、よく見て覚えておきましょう。
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No.19 の回答に答えて



1.
>>『「公園」は場所』だからこそ、
「公園で」というのは、《「で」が(公園という)場所を表わす》

トートロジー、同義反復という言葉をご存じでしょうか。
場所が場所であることを表わす?
表わさなくとも公園は場所です。

★ペンで字を書く。
「ペン」は場所ですか?

2.
>>「ニューギニアで戦死した」などは、
「ニューギニア」を場所として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
と問われる可能性に気づいてないらしいのが痛いところですな。

可能性ではなく、意義の拡張の契機を考えるということです。

3.
>>★学校【に】大きな木があります。
この「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。
「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している人などどこにもいませんよ。
誰がそんなことを言っているのですか?

学校が点(・)ですか。目が・になります。(@_@;)
画面の上のドットの集合である「に」がどうして、「学校を指定する働き」などできるのかを説明する必要がありますね。
<「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。>とは、<「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している>のではありませんか、そうでなければ何を言っているのでしょうか?
言っているのは回答者自身ではありませんか。

>>【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】
すばらしい日本語じゃありませんか。

もう一度言っておきます。

★ペン【で】(字を書く。)

「ペン」は場所ですか?
【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】していますか?

確かに、<「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している>のであり、指すことができるのは指です。画面の上のドットの集合である「に」がどうして、指(ゆび)さすことができるのでしょうか?
「すばらしい日本語」ではありますが、何の説明にもなっていません。

>>個人的に以前から認証している【着点】という意義を的確に表現した内容とも言えます。

未だに、着点などという<客体を指す>という迷妄には恐れ入谷の鬼子母神です。
自分が何を言っているのか、よく内省しましょう。

これを理解できないようではネイティブの名が廃るかもですよ。!
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