初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

「ヲ格」「二格」は何でしょうか?

「「ヲ格」「二格」は何でしょうか?」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 大学の先生からもらったプリントですが、テキストじゃないと思います。

    「「ヲ格」「二格」は何でしょうか?」の補足画像1
      補足日時:2019/12/27 15:04

A 回答 (10件)

「格」とは、


文法で,名詞・代名詞などが,文中で他の語に対してもつ関係のことです。
日本語では,「が・の・に・を」などの格助詞が格の関係を示す。(大辞林より引用)

「弟を叱る」
この文の「弟を」は「ヲ格名詞句」と呼びます。
この「を」は、「弟」という名詞が、「叱る」という語(動詞)の [ 対象 ] (という関係)であることを表わしている。

「弟に話しかける」
この文の「弟に」は「二格名詞句」と呼びます。
この「に」は、「弟」という名詞が、「話しかける」という語(動詞)の [ 向かう先(着点) ] (という関係)であることを表わしている。

【写真の解説文に書いてある内容】
1.「兄が弟を叱る」
この能動文のヲ格名詞句(=弟を)を受身文の主語にすると、
「弟が兄に叱られる」
という文になる。

2.「兄が弟に話しかける」
この能動文のニ格名詞句(=弟に)を受身文の主語にすると、
「弟が兄に話しかけられる」
という文になる。
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https://www.tomojuku.com/blog/passive/passive-2/
「日本語教師の広場」

1、わたしは 部長に ほめられました。  部長がわたし<を>ほめた。(ヲ格の受身)
わたしは 部長に 仕事を 頼まれました。部長がわたし<に>仕事を頼んだ。(ニ格の受身)
2、わたしは 誰かに 足を     踏まれました。(所有の受身or持ち主の受身)
わたしは 母に  マンガの本を 捨てられました。(所有の受身or持ち主の受身)

 受身の分類に「迷惑」かどうかを使ってはいけません。
  ありふれた「ヲ格の受身」
 友達が私を殴った。(能動文) →私が友達に殴られた。(受身文)も結果は「迷惑」

上記2、の「わたしは 母に マンガの本を 捨てられました。」は明らかに、「(私は)ライバルが先生にほめられた」
と同じ格好です。どちらも迷惑ではあります。自動詞の受身が「結果が迷惑になる」のは確かです。(例外あり)
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言葉の意味だけでは単純に受け身をあらわすだけ。


例文の場合、通常の会話等では、私は(主語)は省略されるケースです。
先生に息子を褒められた。
先生にライバルを褒められた。
息子に対する(私の)認識と、ライバルに対する(私の)認識に大きな差があるだけです。
実際にこの言葉を発する際にも、その認識のもとで発します。
息子=私と同じという感覚、自分の遺伝子を受け継いだ誇るべき存在。
ライバル、私と同じという感覚ではライバル足りえません、異質だからこそ競い合います、当然相手を超えようとしています。
先生が褒めた気持に全く差がなくても、受け取る(私)の理解認識は当然ことなります。
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#7です。


#1 OKATさんの疑問に関して私見を少し。

>「私は 先生に 息子をほめられた」は迷惑の意味がない、と書いてあるのに、他人(ライバル)だと迷惑になるのでしょうか。

「受身」とは、【文法で,他者からの動作・作用を受けるものを主語として述べるもの。】(大辞林)です。
[ 他者から受けた動作・作用 ] が迷惑になることもあれば、むしろ嬉しい場合もある。
あくまで動詞次第でしょう。
それだけのことではないかと。
「息子をほめる」という動作を他者から受ければ嬉しいに決まってる。
「突然、同僚の女性からクリスマスプレゼントを渡された」なども迷惑の意味はないはず。
よほど嫌いな相手なら別ですが。(笑)

ライバルを褒められる場合は、どなたかもおっしゃっていましたが「嫉妬」の感情が湧くという意味で迷惑と認定されることになる場合もある。
むろん、正々堂々切磋琢磨する相手として、自分のことのように喜べる人の場合は別です。
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No.4 について。



>>手の皺に見る、→主に肉体労働に従事して年おいた自身の状況を
  手の皺を見る、→単に文字の通り、または上の状況を頭に浮かべつつ・・・見る。

これは、格助詞「に」「を」の意義ではなく文の意味を解釈しているもので、質問に対する適切な回答にはなりません。

名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。

ということが全く理解できていない、「に」が場所を表わすという発想と同じレベルに過ぎません。■
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>>「私は 先生に 息子をほめられた」は迷惑の意味がない、と書いてあるのに、他人(ライバル)だと迷惑になるのでしょうか。



「迷惑受身」というネーミング自体が受身の論理構造を正しく捉えていないプラグマティックな誤った命名だということです。
以下に、受身の論理構造を展開した三浦つとむの解説を引用しておきます。

ある属性が、それ自体能動的であって、他に【直接】に作用するときに、この作用の対象からすればこれは受動的だということになる。それで、西欧の言語たとえば英語では<他動詞>の<対格>になっている語を語順を変えて<主格>の位置に持ってきて、 Taro killed Jiro. なら Jiro was killed by Taro. のかたちに変えて受身を表現する。ところで、遊ぶと学ぶとは必ずしも別に存在するわけではなく、遊ぶことが同時に他面では交際のしかたやチームワークを学ぶことになるように、他動と自動とは必ずしも別に存在するわけでなく、自動たとえば死ぬことが同時に他面では【媒介関係】で家族に悲しみや絶望を与える他動でもあるという論理構造が成立する。

それで西欧の言語でも、<自動詞>を<他動詞>的に使う必要が起ってくるし、この媒介関係を<前置詞>で扱ったりしている。これに対して日本語は膠着語であるから、受身も<動詞>に<接尾語>を粘着させて表現する。「太郎は次郎を殺した」を「太郎に次郎は殺された」と変えれば受身になる。

<動詞>の内容いかんを問わず<接尾語>を結びつければよいのだから、属性の直接の作用の受身だけではなく、媒介関係の受身も同じように扱うことができ、<自動詞>の受身という形式があらわれた。

「息子になぐ【られ】て死ぬ」のは、いわば【直接】に手を下す親殺しで、「息子に山で死な【れ】て生きるのがいやになった」のは、いわば間接の手を下さない親殺しである。
<自動詞が>それ以前の一連の語と結び付き、さらに受身の<接尾語>で媒介関係の他動を示して以後の語に結び付く。山田(孝雄)はこれを「西欧には決して行わるゝことなき現象」だといったが、なぜそうなるのかの説明はない。松下(大三郎)はこれを「被害の受身」と名づけた。佐久間(鼎)も『日本語の特質』で、「不利を感じ取る者を主語の位置に保つような文で可能になるわけです。即ち、この受身の主体は、まさしく『有情』の者、人間の心性をそなえる者であるべきです。」と人間の特殊性から説明した。プラグマティックな扱い方である。しかしながらこの問題は、【膠着語はどう矛盾を扱うか、という論理的な反省の中で考えられるべきもの】である。

直接の作用の受身(佐久間のいう「動作のうけみ」)は、能動がそれ自体他面からは受動だという、直接的同一性の構造を持つ単純な矛盾である、媒介関係の受身(佐久間のいう「利害の受身」)は、自動が媒介的に他動であって、そこに能動面と受動面の直接的同一性を生みだすという複雑な矛盾である。直接と媒介の統一の論理は、マルクスが『経済学批判序説』で模範的に展開していて、これを経済構造から抽象して矛盾論として問題にすべきなのだが、この論理それ自体には「闘争」がないから矛盾を「対立物の統一と闘争」と規定する官許マルクス主義の教科書には出てこない。もちろんソ連や中国の言語論にもあらわれない。

【矛盾を一言でいうなら、対立物の統一であるが、日本語はこの対立した両側面をそれぞれ別個に把握・表現して粘着的に結びつけるという、矛盾の表現に適した性格を持っている。】「有難迷惑」「痛し痒し」などの複合語が日常ひろく使われているし、マルクスの原文では produktive Konsumtion と二語になっているのを「生産的消費」と複合語化して訳したりしている。受身にあっても能動が同時に受動だという矛盾を、使役と受身と対立した内用の<接尾語>を粘着的に組合せて、「カーブを投げ【させられ】た」「きらいなものを食べ【させられた】」と、端的に表現する。

前述のように、漢語の内容が<動詞>的だと、<抽象動詞>「する」を連結して「白状する」「爆笑する」と表現するが、受身のときにはこれも矛盾を表現するかたちをとって、「拷問でむりやりに白状【させられた】」「寛美の阿呆ぶりには爆笑【させられた】」のように表現する。「させる」はこのように<抽象動詞>的な内容を持ち、現に「私に【させて】くれ」のように<抽象動詞>としても使われている。

直接の作用の受身のとらえかたには、「石【が】彼【から】投げ【られ】た」「石【が】私【に】投げ【られ】た」「私【は】石【を】投げ【られ】た」など、多様であるけれども、受身の<接尾語>の連結のしかたは変りないし、媒介関係の複雑な矛盾でも、山で死んだ息子の例のように、能動面と受動面を入子型にして受身の<接尾語>で両面を繋ぐことで忠実に表現している。「先週は女房に寝こま【れ】て、炊事や洗濯を【させられ】た」のような、矛盾の発展も簡単に表現できるわけである。

佐久間は媒介関係の受身を矛盾としてつかまないで、「有情」の者が主体だときめてしまったが、論理的に考えれば人間の心性をそなえていない自然現象にもこの種の矛盾が成立するであろうことが予想できる。事実、気象情報でも、「低気圧に居すわ【られ】て雨があがらない」などとチャンと受身のかたちで表現しているのである。

(三浦つとむ「形式主義的文法論の吟味」『文学・哲学・言語』国文社 ;1973)より■
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手の皺に見る、→主に肉体労働に従事して年おいた自身の状況を


手の皺を見る、→単に文字の通り、または上の状況を頭に浮かべつつ・・・見る。
これを「動」と「静」の関係で説明できるのかはなはだ疑問でありますね、質問者は理解できるでしょうか。
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最初に、質問の文の誤りを指摘しておきます。



×「ヲ格」「二格」は何でしょうか?⇒○「ヲ格」「二格」【と】は何でしょうか?

「これ【は】何んでしょうか?」のように、直接対象の疑問を表わすのではなく、間接的に他の文や文章の内容などを質問する場合には、引用の「と」を用います。

さて、質問の「ヲ格」「二格」とは、格助詞「を」「に」で格付けされた語の格、つまり他の語に対する資格、関係の認識を表わします。示された例文で説明しましょう。

★私が 弟【を】 しかる。
★兄が 弟【に】 話しかける。
★弟が 兄【に】 しかられる。
★弟が 兄【に】 話しかけられる。

上記の格助詞【を】【に】で格付けされた、「弟」「兄」がそれぞれ「ヲ格」「二格」で表わされた語です。

これらは、動詞「しかる」「話しかける」「しかられる」「話しかけられる」と「弟」「兄」との資格、関係、つまり話者による「弟」「兄」の捉え方を表わしています。

格助詞「を」は運動と静止の関係にある二者、この場合は「私」と「弟」ですが、その一方である運動、動作の主体である「私が」という「私」の立場に立って、対象である「弟」との繋がりの変化、動的な関係の変化の対象を捉え表しています。ここでは、「しかる」という運動、動作の対象として「弟」を表わして、

★私が 弟【を】 しかる。

と表現しています。


格助詞「に」は対象の空間的・時間的な位置付けの認識を表わしています。

★兄が 弟【に】 話しかける。

この場合は、空間的な位置付けの認識を表わし、位置付けなので静的な対象の認識になります。「兄」が「話しかける」静的な対象として「弟」を認識し表現しています。

「しかられる」「話しかけられる」も同様に、その動作の静的な対象である「兄」が「に」で表されています。

この、「に」は、

★家の前【に】車を止めた。
★学校【に】行く。

の「に」と同じで、話者による空間的な位置付けの認識を表すものです。

この「に」が【場所を表わす】などという誤った解釈が辞書や、他の多くの回答者により為されているのが現状なので注意が必要です。

 名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。

ということです。また、

★先生に本をもらいました。
★大阪に帰ります。

のようにも使用します。

時間的な位置づけの場合は、

5時に会議が始ります。
5時には会議が終わります。

のように使用します。■
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ヲ格・ニ格の説明しませんでしたが、「ヲ格の受身」「ニ格の受身」の意味が分かれば、簡単なことです。

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ヲ格→「格助詞」の『を』。

 ニ格→「格助詞」の『に』。それぞれの使い方は辞書等で確かめてください。これが問題のテキストですか。 渡されたのはプリント(愛知淑徳大学)でも、もとはテキスト(東京YMCA日本語学校)です。
 私が問題にした、「私が、先生に ライバルを ほめられた」を除いてはマットウな内容です。
「私は 先生に 息子をほめられた」は迷惑の意味がない、と書いてあるのに、他人(ライバル)だと迷惑になるのでしょうか。
 文法に詳しい方(例えば庭三郎氏など)のご意見も伺いたいと思います。
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