
No.2ベストアンサー
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スターリンは、レーニンの下で1917年のロシア革命に参加し、1924年にレーニン没後にその後継者になりました。
後継者争いをしていたトロツキーを「左翼冒険主義者」として追放し、亡命先のメキシコで暗殺しました。
そのようにしてソビエト連邦で権力を握ったスターリンは、1928年から急速な工業化や農業集団化を進め、反対する者を「国民の敵」として「粛清」しました。
「運転手を銃殺せよ」とは、この「粛清」を揶揄したものです。
しかし、スターリンは1941~1945年の第二次世界大戦(ソ連が参戦したのはドイツのソ連侵攻が始まった1941年)の独ソ戦(ロシアでは「大祖国戦争」と呼ぶ)を戦い抜いて勝利に導いた英雄でもあります。
1953年のスターリン没後にソ連を指導することとなったフルシチョフは、「スターリン批判」を行って闇に葬られていた「粛清」の実態を公表して断罪し、粛清で処分された人たちの名誉回復を行ないました。
これが「運転手の名誉を回復せよ」という発言の元ネタです。
フルシチョフは、資本主義陣営との対決姿勢(「冷戦」と呼ばれた)の緊張を緩和するために、資本主義と社会主義の併存を容認する「平和共存」路線をとりましたが、その路線に反対する勢力との争いに敗れて1964年に失脚・引退し、その後をブレジネフが継ぎました。
ブレジネフは、アメリカを筆頭とする資本主義陣営と対立しながらも、これといった業績や成果もあげられず、ソ連社会は長期的な停滞状態となりました。ブレジネフの時代の1979年に悪名高いアフガニスタン侵攻を行い、これに抗議するアメリカなどが(日本も)1980年のモスクワ・オリンピックへの参加をボイコットしました。
ブレジネフの政策は、急進的(左寄り)になったり保守的(右寄り)になったり場当たり的で一貫しませんでした。
経済は停滞しているのに、政府は「順調に進んでいる」と言い続けていました。
これを、「何も成果をあげない=寝ている」「政策が場当たり的=左右に体をゆする」「真実を伝えない=だれも列車が止まったとは分からないだろう」というように言っているのでしょう。
ブレジネフの後も、アンドロポフ、チェルネンコといった指導者がいましたが、同様に鳴かず飛ばずでした。
そういった閉塞したソ連を打破しようとしたのが1985年に登場したゴルバチョフで、「改革」(ペレストロイカ)や「情報公開」(グラスノスチ)を進めましたが、その結果として1990年のソ連の崩壊を招くという皮肉な結果となりました。
ブレジネフたちの国民に真実・実態を伝えないやり方に対して、正しく情報を公開する(これが「グラスノスチ」)ことを、列車が動いていないなら「動いていないと叫ぶことだ」と言っているのでしょうね。
・・・という風に、いちいち解説しないといけないものは、もはや「風刺」ではありません。
お笑い芸人がいろいろ「お笑いネタ」を言っても、誰も笑わない(理解できないから)というのと同じ状態です。
このような解説を書かないといけない、ということ自体が「お笑い」であって、「風刺」そのものですなあ。
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