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後漢市東夷伝に「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。
という記載がある。これによると2世紀後半の倭国は「大乱」状態であったことが推察できる。このことを考古学的に証明できる事例をあげて、説明してみよう。

という問題なのですが、分からないのでお教え願います。

A 回答 (2件)

①弥生時代の遺跡、例えば吉野ケ里遺跡などから、矢の刺さった痕跡や刀傷のある人骨が見つかっている。


②また2世紀まで数多く造られていた銅鐸が、3世紀になると出土数がかなり減少している。

特に②については、2世紀後半から3世紀初めにかけて、文化が大きく変わるほどの革命的・大規模な大事件があったと推定される。直接的な証拠はないが「倭国大乱」と結びつけても腑に落ちることではある。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2020/04/13 23:55

wikipedeiaより引用


「九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡で刀傷のある人骨などが発掘されている。それらの傷がクニ同士の戦闘を示すといえるかは定かではないが、人間を殺傷する行為そのものは起きていたことがわかる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD …

吉野ヶ里の人骨
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c501.html
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