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1. あり得ない。

2. 言葉そのものによってではなく その言葉をめぐって想い起こされるわが思
いが すでに――過去においてあるいはこの今――おのれの心に逆らって成したた
くらみやその振る舞いであったことを知り そこに醸し出されるやましさによって 
おのれの腑甲斐無さを思い知る。そのような心のよごれを意識したとき わたしは
これを悔いこれを恥ぢ わが心は傷つく。

3. よって 他人の言動によって わが心が・精神が・あるいはわが身体が 傷
つくということはあり得ない。





4. もう少し細かく精神の襞に分け入って哲学は 灰色の脳細胞をはたらかせな
くてはならない。

5. というのは わが心があたかも傷ついたかのように感じる別の場合がある。

6. 愛憎の絡まっていて互いに心穏やかではない人に向き合って その相手の心
の状態を――ミラーニューロン現象のごとく――まづ感覚的にわが身に帯びて し
かもその相手の広く人生ないし思想を見守るがごとく受け留め 〔主観的にですが〕
この心の状態を鎮め治めてあげたいと思って世話を焼き 《相手を自己と同じよう
に人間として引き受ける》というとき じつはその相手の負った心の傷を同じよう
な状態で引き継いでいる。ということが起こり得ます。( Mitleid ? sympathy ? )

7. 《すべての人に対して――こちらはまったく自由人であるとき そうである
と同時に――それぞれ相手の人と同じようになる》ことはあり得ましょう。

8. その相手の問題をともに〔ただしむろん主観的にだけです〕解決する方向に
わが身を置く。のではないか。

9. そのような場合 わが身もわが心もが あたかも問題をかかえる相手の心の
状態と心情において同じようになるがごとくに 傷ついたような感覚をおぼえる。
これが あり得るのではないか。





10. けれども 相手が述べたウソ・イツハリの言葉はむろんのこと 真実を伝
える言葉でこちらの弱いところを指摘するものであっても その言葉そのものでこ
ちらが傷つくということはあり得ない。

 
――この命題を提出し 成否・当否を問います。



   *



☆ なおおまけです。

11. おのれのやましさ〔なる心とその思いや行動〕によるよりほかに 自分の
心が落としめられたり傷ついたりすることは あり得ない。マチガヒを侵さないの
に どうして心が沈むのか。

12. ディスるようなハレンチ・トークを目の敵にするのは おのれの心の中の
よごれに対して 反応しているのだ。

13. けれども おのれの心のやましさによるのでないなら どうして傷つくこ
とがあるだろうか。



14. 精神のよごれをめぐってその場の話し合いが自分にとって必ずしも都合の
良くはない情況に落ち入ったときに さらにその思いを必要以上に噛みしめねばな
らなくさせるような酷い言葉やののしりの言葉などを聞けば まづ ひとはおどろ
く。
 
15. しかも きよらかなおそれを すでに・つねに 持つひとは ひとたびは
おのれの身の振る舞いについて振り返り見ることをおこなう。心に――その心なる
海のおもてに――波風が立ち そのような〔一時的・その場だけという意味での〕
心理的なゆらめきさえを覚える。

16. けれども 心がやましくなければ 心が傷つくなどということは あり得
ない。

17. おのれのやばさなる牙がすり減って行くためのヨスガとして そのような
あたかも心が傷つくと感じる機会がある。消えなければウソである。
 
18. せいぜい 相手がまだ人間における心の深さや高き心に気づかずその高み
にも到っていないことをおもんぱかり 何とか助けにでもなれないものかと心をい
ためるのみである。

19. 心のすこやかな人間が 相手に対して おまえは最低の人間だなどと人格
を規定する言葉を吐くわけがない。



20. 傷つくのは 自業自得のみ。

21. それでも 精神が傷つくということはあり得ない。心なる海の上に波風が
立つのみ。台風まで。

22. 牙のすり減るのを味わい おのれのふるきひとのほろびゆくのを見つめ 
あらたにあたらしきひとを着る。

A 回答 (3件)

暇を持て余しているので、ドキュメンタリーをたくさん観ています。

昨日は、テッド・カジンスキー、いわゆる、Unia Bomberについての後追いドキュメンタリーを観て感慨深かったです。長いので、お暇であれば。

https://matome.naver.jp/odai/2142430879976504101

記事にされていない部分では、ハーバード大学には、返却の必要のない奨学金を四年間受け取っています。そして、心理学の教授に人体実験をされてしまう。それ以前にも、幼児のころ病弱で、両親と引き離されて療養したのち、笑うことがなくなった、と両親が回顧しています。そして、犯行を疑った弟の奥さんが、弟さんの了解を得て、FBIに通報したのがきっかけで逮捕されています。

弟さんは、逮捕後の声明で、”精神を病んだ人への、社会的認識を改めるべきである”と、兄をかばっていました。

++++

お忙しい場合は、ここから読み始めてください。

と、いうわけで、何が言いたいかというと、彼は、たまたま、以前から、精神を病んでいたわけですが、社会から疎外されたときに、どうして死を選ばずに、爆弾を作って、自分の憎んだ文明(大学・航空・金融)に送り付けたかというと、自分の正当性を押し通したからでしょう。思春期に、”自分が社会と折り合えないのは、親の愛情が足りなかったせいだ”と、親を責めたことも多かったそうです。

自分の正当性が危うくなった時、他人を責めてしまえば、精神を傷つけられることがないんですね。ただ、彼の場合は、あまりに優秀であったため、結果が凄惨なものになりました。
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目に見えないネットワークを、我々は共有していて、我々は「一人の人間」のように連続体として存在している、と言うのが私の「世界観」です。

古代の人々も、世界観として、このことを「ワンネス」という見方で受けとめていると思うんです。近年ではsymbiosis共存、渾然一体という言葉を人々は使うようになってきましたね。よい傾向だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 目に見えないネットワークを、我々は共有していて、我々は
「一人の人間」のように連続体として存在している、と言うのが
私の「世界観」です。
☆ ネットワークは いいですね。一人ひとりは その結び目の
所であるというような。結節点なら 意志の主体であることを示
し得ます。


《連続体》が どちらかと言うと 踏み込み過ぎではないかとも
感じますが それは 人それぞれなのだとは思います。


★ 古代の人々も、世界観として、このことを「ワンネス」とい
う見方で受けとめていると思うんです。
☆ ええ。つまり ほんとうにワンネスであった時代と社会では
そういう認識すらがなかったかも知れません。


★ 近年ではsymbiosis共存、渾然一体という言葉を人々は使う
ようになってきましたね。よい傾向だと思います。
☆ 共生をわたしは使ってきましたが 生物学的なイメージとし
ては まだなかったかも知れません。



大昔には テレパシーといった言葉を持っていましたよ。

お礼日時:2020/05/26 16:49

9 主客融合十分ありうる経験です。

直観の領域の力でしょうね。ですから、勿論読みすぎるくらい読んでますが、今の私は文学読みません、辛くなるからです。よく恩師に文学読めと薦められましたが、読まないでいると責められました。「なんて文学読んでも平気でいられるだろう、この人、鈍感だな」と思うことが多かったですよ。善くも悪くも、体の調に繋がるんですよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 9 主客融合十分ありうる経験です。
☆ パウロが 次のように言っています。

▲ (パウロ:コリント前書 9:19-23 ) ~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1corintian …

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、
すべての人の奴隷になりました。
できるだけ多くの人を得るためです。
・・・
すべての人に対してすべてのものになりました。
~~~~~


★ 直観の領域の力でしょうね。
☆ 日本流に言えば 以心伝心でしょうが ミラーニューロン現象
ということが一般的な現象として言われています。


★ ですから、勿論読みすぎるくらい読んでますが、今の私は文学
読みません、辛くなるからです。よく恩師に文学読めと薦められま
したが、読まないでいると責められました。「なんて文学読んでも
平気でいられるだろう、この人、鈍感だな」と思うことが多かった
ですよ。善くも悪くも、体の調に繋がるんですよね。
☆ なるほど。単純にわたしの経験を述べるなら 読書ではわたし
は 起きなかったですね。その代わり 会う人ごとにそういう状態
になっていました。

中には 相手のひとも そういう現象が――目に見えず形には現わ
れていないのに――起きているということが分かったみたいになる
ときは 何となくむくわれているのかなと思いました。


       *


ヨリ(憑り)なる原始心性とは また別なんですが。それはアニミ
ズムであり 世界との未分化一体なる心性です。

その昔 アイヌの間で こういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。
  果たしてその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に 
    わたしの体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山の
    どこにあたるかを考えてみれば そこに男は遭難している
    はずだ。



通時的には一般性として 《共通感覚 sensus communis / com‐
mon sense 》いう捉え方もできるかと思います。

お礼日時:2020/05/26 14:41

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