ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

学校の授業の班の発表で「神の愛と隣人への愛」について発表する事になりました。しかしいくら本で調べてもインターネットで調べても、この部分だけ詳しく載っている所がありません。5人の班なので「神の愛と隣人への愛」の中でも5つに調べ分けなければなりません。

キリスト教の「神の愛と隣人への愛」とは、どういう意味なのですか?この「神の愛と隣人への愛」についてだけ、詳しく知りたいので、ご存知の方はぜひ教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (9件)

神の愛とは自分が自分を許した時、発生するんじゃないでしょうか。





隣人への愛は確かサマリア?人の例え話を聞いたことがあります。
詳しくは覚えていないので、私なりに書くと。
私が道で強盗にあって半死状態になった。
そこに近所の人がやってきた。
その人は自分だとわかったが通りすぎていった。

次に坊さんが通った。
自分に気づいたが、大回りをして通りすぎた。

次にいつも自分の町といがみあっている町の人がやってきた。
彼は自分を担ぎ近くの宿場に連れていき宿屋の主人に
「この人の面倒をみてやってください。わたしは用があって1週間留守にします。ここにお金を置いていきます。もし足らなくなったら帰ってきたときその分を払います」と言った。


さて 誰が私の隣人になったでしょう。


これが隣人への愛だそうです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます!!
なるほど。とても考え深い例え話でした。
班員全員で考えてみたいと思います。
この回答を参考に、良い発表にしたいと思います。
本当にどうもありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/16 18:57

#2です。

もう学校の授業の班の発表は終わりましたか?

以下は聖書の中に書かれている放蕩息子の話です。(ルカ15章11節ー24節)
ある人に息子が二人いました。弟が父に、「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言ったので父は、財産をふたりに分けてあげました。
それから、何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して財産を全部使ってしまいました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めました。それで、その国のある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせました。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれひとり彼に与えようとはしませんでした。
しかし、我に返ったとき彼はこう言いました。「父のところにはパンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行ってこう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」 こうして彼は立ち上がって自分の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き口づけしました。息子は言いました。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」
 ところが父親は、しもべたちに言いました。「急いで一番良い着物を持って来てこの子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めたというお話です。

これはイエスキリストが語った有名なたとえ話です。ここに登場する父とは天地万物を造った神様を指し、家出した息子とは神様を無視し続ける私たち人間を指しています。

つまり、罪を犯し続ける私たち人間であっても、自分の罪を認め、神様のところに来るならば、愛の神様はその罪人である人間の罪を赦し、天国へ連れて行くという道を開いてくださったのです。
 
その神様の愛によって、裁きを受けて当然の私たちを恐るべき地獄から救うために神様は,神の子であられるイエスキリストをこの世にお遣わしになり、彼に私たち人間のすべての罪の刑罰を身代わりに負わせて死なせ、3日後に復活させたのです。

すなわち、私たち人間は自分で罪の問題を解決することが出来ないゆえに、ただイエスキリストを自分の救い主として信じるだけで、信じた者のすべての罪を赦し天国に入れる特権を与えてくださったのです。これが聖書に書かれている神の愛です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

お礼が遅れてしまってすみませんでした。
回答ありがとうございました。
班で分けた中で、私はたとえ話をいくつか紹介しました。お陰様で無事に金曜日、発表を終える事が出来ました!
何とクラスで1番の評価をもらえる事ができました!!
特に私は、クラスの個人の評価シートの中で「工夫されていた、よく調べていた、分かりやすかった」という評価を多くもらえました!
本当にありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/30 15:23
    • good
    • 0

ヒント


神の愛
 神様が基準
私たちが何をしていようと、どんな事をしていた
という事関係なしにただ与えられるもの、心
私たちの愛
 自分が他の人をどのように思っているのか?行い
自分が基準

・一度教会に行って、どうして(どんな方法によって)イエス様を信じましたか?と聞いてごらん
・一度聖書の書いてあることと自分を比べてごらん
・そして親愛、信愛について、
・聖書をもっていらっしゃるならルカ10:25-37
をよんでごらん
以上を調べてくださいね。そうすればわかるかも?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅れてしまってすみませんでした。
回答ありがとうございました。
班のメンバーで聖書を調べてみたりしました。
お陰様で無事に金曜日、発表を終える事が出来ました!
何とクラスで1番の評価をもらえる事ができました!!
先生からも「よく調べてある」という評価をもらえました!!みなさん本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/01/30 15:19

おそらく、前の回答にもある。

「アガペー」について答えろと言うことでしょう。
 「神の愛」も「隣人愛」もキリスト教では、大地を潤す雨のように無条件に降り注ぐような愛であり、キリストが人類の罪を背負い十字架に磔になったような、無限で無償の愛のことを指します。神が人を愛するように、他人を愛するというのが「隣人愛」ですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
すごくわかりやすかったです。
班員みんなで「アガペー」についても調べてみたいと思います。
この回答を参考に、良い発表にしたいと思います。
本当にどうもありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/16 19:00

まず神様の愛についてですが、人間の愛と比較してみましょう。



神様の愛は「でも」の愛です。無条件の愛です。美人でなくても、かわいくなくても、かっこよくなくても、お金持ちでなくても愛する。

それに比べて私たち人間の愛は「だから」の愛です。条件付きの愛です。美人だから、かわいいから、かっこいいから、お金持ちだから愛する。

確かに人間にもすばらしい愛はあります。親の子どもに対する愛は、火事のときに子どもが取り残されたら命がけで助けに行くなどすばらしいこともありますが、愛がゆがめられたかたちで虐待となって子どもを苦しめたり、子どもを死に追いやってしまうことだってあります。
夫婦の愛や友だち同士の愛でもすばらしい愛はありますが、あんなに愛し合っていた夫婦の愛が冷め、憎しみ合うようになり、あげくの果てには殺してしまうなどということもおこります。最近では親が子どもを殺したり、子どもが親を殺したりというニュースも多くなってきています。
これは人間の愛が不完全であり永遠に続くものではないものだということをあらわしています。

一方、神様の愛は、永遠に変わらない愛であり、永遠に続く愛であり、絶対に裏切ることのない愛です。そして無条件で私たち人間を愛する愛です。

私たち人間はその神様の愛で愛されています。

さて、次に隣人への愛ということですが、といってもいろいろなかたちがあると思います。簡単にいえば人に親切にするということややさしく接してあげること、助けてあげることも隣人への愛だと思います。
キリスト教の精神は#2の方も言っているように、自分がしてもらいたいと同じことを相手にしてあげなさいということです。でも、これはなかなか簡単なようで難しいですよね。人に親切にしてあげたり、やさしくしてあげたり、助けてあげるということをするときにやっぱりよくよく考えてみると無意識のうちに条件がついているのではありませんか?自分を嫌っている人や、ましてや自分を憎んでいる人にはいくら困っていても助けてあげたり、やさしく接してあげることなんでできませんよね。あるいは、同じように困っている人がいたら、男性だったらかわいくて困っている人のほうに手を差し伸べてあげるだろうし、女性だったらかっこよくて困っている人のほうに手を差し伸べるでしょう。

学校の授業の班の発表をするために調べているということですが、がんばってくださいね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答、どうもありがとうございました!!
とても参考になって、助かりました!
「なるほど」と読んでいて何度も納得してしまいました。学校の授業の参考としてだけでなく、自分の中でもとても勉強になりました。
班員全員で全部の回答を読んで、良い発表にしたいと思います。
本当にどうもありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/16 17:57

神への愛は、唯一誠の神への信仰ともいえるかもしれません。

神が人間に望むこと、それは、神への忠誠、神のおきてを守ることなどが関係するのではないでしょうか?賢者ソロモン曰く「すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである。」
隣人への愛は、確かギリシャ語でアガペーと言います。仲間を愛するのはどんな悪人でもできますが、ここでいうアガペーはたとえ敵であっても愛するというものです。男女間の愛(エロス)とは違います。

蛇足ですが、「ハレルヤ」は「ヤハを賛美せよ」という意味です。ヤハはヤハウェ、ヤーヴェの短縮形です。神にはこういった名前が存在します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答、ありがとうございます!
とても参考になりました!
この回答を踏まえたうえで、班員全員で話し合ってもっと深く調べていこうと思います。また機会があればよろしくお願いします。
どうもありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/16 17:52

まず神様の愛について説明するためには神様ということから話をしなければなりません。

なぜなら日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるわけで、
日本人が神ということばを使ったときにあまりにも神という概念がばらばらだからです。

聖書に書かれている神というのは、人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造したお方です。無から有を作り出せるからこそ神なのです。次に神は唯一(ただひとり)です。神様はなんでも出来るお方ですからたくさん存在する必要はまったくありません。そして、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在されるお方で、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方であり、永遠から永遠に存在されるお方であり、そして愛なるお方なのです。。

さて質問の神様の愛についてです。聖書には「神は愛なり」(第(1)ヨハネ4:16)と書かれています。神様の愛は世界中の人を平等に完全に永遠に愛することの出来る愛です。人間にはそんな愛はありません。でも、神様は持っています。そして、その愛で私たち人間を愛してくださっています。

しかし、神様が愛であると同時に、「神ご自身が義」(ローマ3:26)であるということも事実です。神様は愛だからといって罪人である私たち人間の罪を、その罪を裁くことなしに受け入れることはできません。その裁きの結果は、私たち人間をおそろしい永遠の地獄へ投げ入れてしまわなければならないということです。

ところが神様の愛は人間を天国へ連れて行ってあげようという愛です。その愛によって裁きを受けて当然の私たちを恐るべき地獄から救うために神様は,神の子であられるイエスキリストをこの世にお遣わしになり、彼に私たち人間のすべての罪の刑罰を身代わりに負わせて死なせ、3日後に復活させたのです。

すなわち、私たち人間は自分で罪の問題を解決することが出来ないゆえに、ただイエスキリストを自分の救い主として信じるだけで、信じた者のすべての罪を赦し天国に入れる特権を与えてくださったのです。これが聖書に書かれている神の愛です。

隣人への愛は、隣人に愛を与えるときには、自分がしてもらいたいと同じことを相手にしてあげなさいということです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
とても助かりました。そしてこの回答を読んでいてすごく興味がわきました。それと同時に、まだ自分自身知識が少ない事を実感したので、新約聖書を読んでみようと思います。班員全員で考えていい発表にしたいと思います。
本当にどうもありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/16 17:48

住んでみえる地域に、教会はありませんか?


そこへ連絡をして、学校の授業で発表する為に調べていると話して、牧師さんに質問するのはどうでしょうか。
色んな教会があると思いますから、地域で一番、評判のいい所を訪ねてみては?
牧師さんも喜んでお話してくれるんじゃないかなあ。

あとは、やはり、自分達なりに聖書を読んでみる、とか。正解はないように思います。読む人によって、解釈の仕方があると思うので。
旧約よりは新約の方が、読みやすくて、また質問の答えも見つけやすいのかなあと思います。
ずっと昔に読んだ事がある程度なので、参考にはならないかもしれませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼、遅くなって申し訳ありません!
回答どうも有り難うございました。とても助かりました。
そうですね、教会の牧師さんに尋ねてみるというのはとても良い事だと思いました。近所にあるので、実行してみようと思います。また教会に通っている習い事の先生もいるので、その先生にも質問してみようと思います。
あと両親に聞くと、新約聖書もあるというので、読んでみようと思います。
ありがとうございました!!

お礼日時:2005/01/16 17:39

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Qギリシャ哲学とキリスト教の人間観の違いについて

大学のレポート作成の課題なのですが、難しくて理解できません。図書館で哲学書を借りて読んでみたものの最初から興味のない学科でいまいち理解できません。どの本を読んでも理解できず、落ち込んでいます。参考になるわかりやすい本があったら教えて下さい。ちなみにソフィの手紙は半分ほど読み終わりました。

Aベストアンサー

ソフィーの世界を読んだのであれば、そのまま掘り下げたのが

●『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』
日本放送出版協会 (ISBN:4-14-080258-8) 1020円なり

浅く、広く知りたいのであれば
●『哲学者達は何を知りたかったの?』 
飛岡 健著 河出書房新社 720円

あくまで興味がないのであれば、このへんで妥協して良いかと思います。

参考URL:http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=19770568

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む

Qエロスとは?

エロスとは何ですか? エロスという言葉は、文脈によって、以下のように様々な意味で語られているように思えます。(1)に限定していればわかりやすいのですが、(4)まで広がってしまうと、そもそも「エロス」って何なのか、さっぱりわからなくなります。

(1)性欲、性愛、男女間の愛
(2)男女間の愛よりも広く、人間一般への愛、隣人愛・人類愛などを含む。
(3)人間への愛だけではなく、物事への愛を含む。知識欲などを含む。
(4)もっと広げて、「生きる」ことへの情熱、あるいは、欲望全般。

結局、「エロス」って何なんでしょうか?

Aベストアンサー

エロスはもともとギリシア神話における愛の神の名で,ローマ神話におけるクピド(キューピッド)に相当します。
あらゆるものを結合する力を擬人化したもので,アフロディテ(ローマ神話ではヴィーナス)の子とされます。

エロスは人間の娘プシケと恋に落ち,アフロディテが課した過酷な試練を乗り越えて恋を成就させます。
このことから,エロスは(1)のように恋愛・性愛を指して用いられるのが一般的です。

(2)のような無償の愛,神の愛はアガペーと称され,エロスとは対比されることが多いと思います。
(2)や(3)をエロス含めるのは,たぶんプラトンにおける独特の用法ではないでしょうか。
『肉欲から始まり,愛の上昇の種々の段階を説き,最高の純粋な愛は美のイデアに対するあこがれであるとし,
エロスは真善美に到達しようとする哲学的衝動を意味する』(広辞苑第五版)
というのがプラトンの説です。

また(4)は,フロイトの精神分析における用法に近いものです。
フロイトは生の欲動(本能)の意味でエロスの語を用い,晩年にはこれを死の欲動(本能)であるタナトスと対置させました。

エロスはもともとギリシア神話における愛の神の名で,ローマ神話におけるクピド(キューピッド)に相当します。
あらゆるものを結合する力を擬人化したもので,アフロディテ(ローマ神話ではヴィーナス)の子とされます。

エロスは人間の娘プシケと恋に落ち,アフロディテが課した過酷な試練を乗り越えて恋を成就させます。
このことから,エロスは(1)のように恋愛・性愛を指して用いられるのが一般的です。

(2)のような無償の愛,神の愛はアガペーと称され,エロスとは対比されることが多いと思い...続きを読む

Qキリスト教の唯一神の名は何ですか

ユダヤ三教はいずれも一神教です。

例えば、
1.ユダヤ教の唯一神の名は「エホバ(ヤハウエ)」、
2.イスラム教の唯一神の名は「アッラー」です。

それでは、
3.キリスト教の唯一神の名は何ですか。ご存じの方、教えて下さい。

Aベストアンサー

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源)という呼び名もあったが、
・現代のキリスト教では、単にGod(神)と大文字で表記し、普通名詞としてのgodと区別することが多い。
唯一神なのだから、単に、固有名詞の「神」だと考えればわかりやすい。
・日本の信者間での通称は、「主」(しゅ)が一般的である。
・私が子供の頃は、「天主」という呼び方もあったと記憶している。古い教会で「浦上天主堂」などと呼ばれているのはその名残。多分「天使」と混同するから使われなくなったのだろう。

・尚、カトリックでは、「三位一体」説というのがあり、神には、「父」と「子」と「聖霊」の3つのペルソナ(人間なら「人格」と訳すが、神なので「位格」と訳す。英語のパーソンに相当)があるが、本来は同じ一体の「神」の別の表れ方という解釈がなされている。
→ http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/dic/trinitas.html
仏教の阿修羅のように、一体なのに、顔が四方についているイメージを思い浮かべば、イメージしやすいかもしれない。

この内、「父」は、「天の父」であり、
「子」は、「神の子」でありながら、人類の救いのため、人間の姿になって地上に降られた「イエス・キリスト」であり(その意味で、「イエス・キリスト」は「救い主」(メシア)と呼ばれる。)
「聖霊」(「精霊」ではない)は、イエスの誕生、洗礼及び復活のとき、イエスの中に満たされるとともに、今日ペンテコステ(聖霊降臨の日)と呼ばれる日に舌の形で弟子たちのもとに下り、一瞬の内に出身国・国語の異なる弟子たちの言葉が通じ合い、喜びに満たされた、という話があり、今後も「聖霊」が人類に与えられることによって救いが完成すると言われています。
→ http://www.pauline.or.jp/spirit/sps3.php

このように、三位一体説は、非常にわかりにくい教義で、3つのペルソナの中で、すぐにイメージしやすいのは「子」であるイエス・キリストのみであり、教会内にキリスト像ないし十字架上のキリスト像があるが、あとの2つは、像もなく、目に見えにくいイメージですね。

神=イエス・キリストという回答も間違いとは言えませんが、正確には、イエス・キリストは神の3つのペルソナの一つであり、「キリスト教の唯一神は固有名詞の「神」Godという呼称で呼ばれています。」という回答の方が、現代では一般的だと思われます。

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源...続きを読む

Qイスラム教の預言者ムハンマドは、なぜ最後の預言者なのか?

イスラム教などに興味を持ち、自分なりに調べてみてよくわからなかった事が、なぜムハンマドは(最後の預言者)だと言われているのかがよくわからなかったのでこの件について、知っている人は是非教えてください。

Aベストアンサー

 イスラム教では、おそらくご存知のとおり、ムハンマド以前にも預言者(神の言葉を預かるもの)の存在を認めます(モーゼやイエスなど)。しかし彼らを通じて伝えられた神の言葉は、誤って解釈されている。だからムハンマドを通じて再び正しい言葉を伝えるのだ。とアッラーは言っている訳です。もちろんムハンマドの口を通じてですが..。ムハンマドはシャーマンのようにたびたび神懸かりの状態になり、初期のムスリムたちにはアッラーが直接語っている様に感じられたのではないでしょうか。正しい教えは全て伝えた。以後新たな預言者は必要ない。それが「最大にして最後の預言者」と言うことでしょう。単に後発の強みとも言えるかも知れませんが...
 砂漠気候の厳しい自然環境による、規範の絶対性も作用しているでしょう。

Qキリスト教の「隣人を愛せ」という教えの本質は?

仏教の教えの本質は、執着からの脱却で、その目的は人生の苦しみから逃れるため、と解釈しています。
では、キリスト教の教えの本質は何でしょうか?
隣人を愛せよと説いていますが、その目的はなんでしょうか?
平和な世の中を作るためでしょうか?
魂の浄化に関わってくるのでしょうか?

物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えたので質問します。
(仏教で愛を説かないのは、その人物に執着しすぎてしまう恐れがあるからと解釈しています)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的で誰にでもわかる台詞でありながら本質に迫る問いであり、
人間を成長させる力を持っている言葉だと私は思いました。

私は、キリスト教も仏教も人間の幸福を希求していると思います。
より深く人を愛するには 慈悲と悟りの両面のレベルアップが求められる気がします。 
執着するなではなく、執着が無意味に思えるレベルまで認識が拡大することが悟り・解脱ではないでしょうか。
キリストの言行は、シンプルでありながら矛盾を含むようでもあり、
愛への認識の拡大を迫る。
個々の局面で自分の中の執着や冷酷さと向き合うことを要求する。

キリスト教の愛と、「愛別離苦」といった使い方をする仏教的な愛とでは、そもそも概念が違うと思います。
キリストの問いた愛は執着を超えた大きな愛であり、
キリストの言動は、そういう愛への示唆に満ちていると私は思います。

こんばんは。私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Qキリスト教の人と結婚したらどうなる?

今付き合ってる彼の家はクリスチャンだそうです。彼自身は熱心な信者と言うわけでもないようですが、やはり彼と結婚したら生活に何か影響が出てくるのでしょうか?

私はバツイチの子持ちなのですが、私や子供も入信しなければいけないのでしょうか?またキリスト教でも離婚をしてはいけない派閥があると聞きましたが、バツイチの人と結婚するのはどうなんでしょう?

また私の家は熱心ではないですが仏教徒です。しかも親戚にお寺があると言う、家柄です。
宗教の違いと言っても怪しい宗教ではないですし、私自身キリスト教系の学校に通っていた為、なじみが全く無いわけではありません。特にキリスト教に対する偏見などもありません。

ただ、先日神社であったお祭りに出かけた時「お参りする?」って聞いたら「宗教が違うからしないほうがいいような気がする・・・」と言われ、これが宗教が違うと言う事なのか!と実感してしまいました。
またクリスマスもやはり毎年ミサに参加しているそうで、「良くある『ホテルで2人でディナー』とかは出来ないの?」と聞くと「親戚とか集まるからクリスマス位は・・」ということでした。イヤ特にホテルのディナーに行きたいわけではありません。私も去年のクリスマスは子供と一緒に近所の教会へ行ってみたほどなので。ただそういった「宗教的行事」などは強制参加になるのでしょうか?

お付き合いしていく分には特に支障はないようなのですが、今まで自分が当たり前にやってきた宗教行事(お葬式、法事等)とかけ離れた世界の事が日常的に繰り広げられてるようで結婚後の想像がつきません。
また宗教が違うと結婚の際もめたりする事は考えられるのでしょうか?何か体験談等ありましたらお聞かせください。

今付き合ってる彼の家はクリスチャンだそうです。彼自身は熱心な信者と言うわけでもないようですが、やはり彼と結婚したら生活に何か影響が出てくるのでしょうか?

私はバツイチの子持ちなのですが、私や子供も入信しなければいけないのでしょうか?またキリスト教でも離婚をしてはいけない派閥があると聞きましたが、バツイチの人と結婚するのはどうなんでしょう?

また私の家は熱心ではないですが仏教徒です。しかも親戚にお寺があると言う、家柄です。
宗教の違いと言っても怪しい宗教ではないですし、...続きを読む

Aベストアンサー

私自身クリスチャンですが、クリスチャンの中にも色々あります。彼がどのぐらい生活の中に宗教を入れているか、によって違います。また、結婚となると彼のご家族とのお付き合いもあると思いますので、彼のご家族の信仰に対する姿勢も関係してきますね。「相手も絶対にクリスチャンじゃなきゃイヤ!」って方もいらっしゃいますし。

一般的なクリスチャンの生活です。日曜日は教会に行く。礼拝ですね。そして毎日聖書を読む。朝夕お祈りをする。食事の前にも必ずお祈りをする。週に1回は聖書の勉強会みたいなのに出席する。奉仕で教会の掃除をする。教会の運営に携わる。などでしょうか?また、結婚式の仲人も神式だったら引き受けないとか、身内の結婚式でも神式だったら式場の外で待っているとか、お葬式でお焼香はしないし、手を合わせたりの行為(人を拝む)はしないとか、お供えものは頂かないとか、初詣もしないし、七五三もしない。お祭りや地蔵盆も拒否っていう人も。

私のクリスチャン生活。礼拝に出席する。聖書は時たま。寝る前にお祈りする。食事の前のお祈りはおなかがすいているので出来ない(笑)。勉強会は気が向いたとき。奉仕はしない。教会の運営にも携わらない。結婚式は何でも出席する。お葬式も数珠持って拝むし、お焼香ももちろんする。お供え物は頂ける物はなんでも!初詣もするし、息子はきっちり三歳と五歳に七五三しましたよ。お祭り大好き!地蔵盆も息子と行きました。(これを読んで怒るクリスチャンの方もいらっしゃるかと・・・)

と、言うように一般にクリスチャンといっても千差万別。また、カソリックやプロテスタントとの違いもあります。彼はミサというのでしたら、カソリックでは?プロテスタントではミサとは言いません。

彼と彼の家族がバリバリのクリスチャンだったら、あなたと子どもさんも宗教行事に参加でしょうね。でもあくまで自由参加。私の夫も行ったり行かなかったりです。でも教会の人達は「ご主人も参加してもらおうね」とか言ってきます。心の中で「大きなお世話!」と言ってしまっている私がいます。(主よ お許しください)その辺を彼がどう思うか、彼の家族がどう思うかによって変わりますよね。

具体的に話が進んで行っているのですね。お幸せに。

私自身クリスチャンですが、クリスチャンの中にも色々あります。彼がどのぐらい生活の中に宗教を入れているか、によって違います。また、結婚となると彼のご家族とのお付き合いもあると思いますので、彼のご家族の信仰に対する姿勢も関係してきますね。「相手も絶対にクリスチャンじゃなきゃイヤ!」って方もいらっしゃいますし。

一般的なクリスチャンの生活です。日曜日は教会に行く。礼拝ですね。そして毎日聖書を読む。朝夕お祈りをする。食事の前にも必ずお祈りをする。週に1回は聖書の勉強会みたいなの...続きを読む


人気Q&Aランキング