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コロナの影響で授業もスピーディーなため、子供が理解しきれていないので説明してあげたいです。
江戸幕府と大名の関係性はどのように変化していったか教えてください。

A 回答 (2件)

お子様が「小学生」の場合


江戸幕府は「将軍」の下に「大名」がいて、大名は「藩」の支配を幕府に任されていました。
大名は御三家(紀州・尾張・水戸)と言われる、家康の子供が治めた藩のほかに
1徳川家と親戚関係の「親藩」2関ヶ原のと高い以前から家臣だった「譜代」3関ヶ原以降の家臣である「外様」
に分けられ、「武家諸法度」などの決まりを守るように決められ、
違反すると「改易(取りつぶし)」といった厳しい処分もありました。
また1年ごとに江戸と支配地を行き来する「参勤交代」や妻子を江戸の屋敷に住まわせる取り決めもあり、
幕府の命令で全国の治水や道路工事、江戸城の改修などを命じられ、各藩の財政は年々厳しくなりました。

中学生の場合(上記の内容のほかに)
老中などの幕府の重要な役職は主に譜代大名から選ばれました。
また外様大名は江戸から遠いところに「藩」を持たされました
江戸幕府は家康から家光までは大名に「厳しく」接していました。これを「武断政治」といいます。
しかし、浪人が多数出るなどの社会問題があり、4代将軍家綱の頃になると少し緩やかになりました。
これを「文治政治」といいます。
8代将軍吉宗以降は、幕府の政治改革のために多く大名が、協力して幕府政治を行いました。

高校生の場合(上記内容のほかに)
幕府は、禄が1万石以下の旗本と1万石以上の大名とにわけ、
旗本には「禄」を幕府が与えることが一般的であった。逆に支配地を与えられたのが大名である
各大名は大阪に蔵屋敷を持ち、収支の管理をし、幕府は江戸の蔵前に蔵屋敷を持った。
基本的に幕政の関与は「旗本」と「親藩」「譜代」に限った。「御三家」や「外様」は関与しなかった
「藩」の行政権は各藩に委ねられたが、幕府による「お手伝い普請」などの命令で藩の財政は安定しなかった
武断政治の結果、浪人が江戸市中にあふれ、治安が悪化したり町奴との諍いも増え、
特に「慶安事件」が起こると、それまでの方針を転換して「文治政治」を行い「改易」を減らした。
江戸中期以降は、改易といったことも減ったが「参勤交代」などの財政負担が多くの大名に重くのしかかり
幕府は「幕府も含め大名家の経済対策」のために改革を行ったが、なかなか効果が上がらなかった

概論としては、このようになると思いますが、教科書によってはさらにいろいろな記述があります。
どの程度まで教えになられるかは、お子様の意欲次第だと思います。
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最初の家康、秀忠の時期は、仲間の中から選ばれたリーダー。


3代目の家光は、就任挨拶で、先の二人は皆(大名)に対し、仲間意識からの遠慮があっただろうが、余は生まれながらの将軍じゃ、遠慮はせぬぞ。と言ったとか。3代かけてしっかりと徳川幕府の安泰がはかられてます。
尾張徳川家、紀州徳川家。水戸徳川家がいわゆる御三家。本家の後継者がいないときは、尾張か紀州のどちらかから、次の将軍を選ぶことになってて、このルールで将軍になったのが、紀州出身の暴れん坊将軍、徳川吉宗。
水戸徳川家は、尾張、紀州より所領は小さいけど、江戸との距離が近いので、藩主は江戸に常駐、将軍の補佐役(そういう役職名は無いけど、副将軍的な地位)をするように。水戸黄門で、格さんが印籠を出して、先の副将軍にあらせられるぞ。ってのはここから。
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