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明治維新後、それまでの武士階級が華族、士族、卒族の別に区分されるようになりましたが、その際、公方や藩主から貸与されていた土地や建物を明治政府に返還したのでしょうか?

もしそうであれば、救済策として、代替地や住まいを明治政府から貸与されたのでしょうか?

A 回答 (5件)

 読んだことがありますが、扶持米に相当するコメをもらっただけだそうです。


上級の武士は城の近くに屋敷を持っていたと思いますので不動産収入があったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

世の中の仕組みが大きく変わり、職を失い地位も失い、そんなときに退職金代わり(?)にコメをもらってもあまり嬉しくないような気もします。いずれにしても大変な時代でしたね。

お礼日時:2014/03/05 20:12

>徳川将軍の家来は直臣(諸大名)で、その直臣の家来は陪臣だと理解しているのですが、藩の重役を担っていた家老クラスの人々でも卒族扱いになったのでしたら、それも酷い話だと思います



それぞれの大名は家格の差こそあれ、徳川家と同列の諸侯「家」になります。(領土を保持している)

徳川家はあくまで武家を束ねる役職を朝廷から受けただけの「家」なので、各大名「家」は家臣ではありません。

ですので各大名の家臣は直臣で、その家臣の家臣が陪臣になります、各藩の家老は直臣で家老の家臣が陪臣に当たります。

徳川旗本で言えば、奉行職が家臣で、同心が陪臣です。

また明治政府としては武士(士分、家禄を代々持つ者)を一律に士族にする意図をもっていたのですが、しかしながら判断は各藩が行い、それぞれが旧来の形(上士、下士等)を保持しようとした様です。

そして卒族はそもそも士分の格を持たない、同心(一代限りの雇用形態を取っていて、名目上世襲ではないために家禄を持つ士分には当たらない)や中間(元々従業員としての身分しかなく、実情は更に季節労働者程度の存在)が、相当する筈でした。(家老の家臣も大名「家」が決める物ではなく、家老「家」の家臣なので、大名が召抱える訳ではなく、代々の家禄が保障される物でもない)

要は「正しくは」領土を持つ「家」の家臣で代々の家禄を得ている「家」かどうかを明治政府は判断基準としていたのですが・・・、決定権はそれぞれの大名「家」に委ねられていました。

この回答への補足

こちらの補足欄を使用して回答して頂きました皆様に改めて感謝申し上げます。
どなたのご回答も全てベストアンサーであり、お陰さまで多くの知識が得ることができました。

補足日時:2014/03/08 00:40
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
わざわざお時間を割いて補足して頂き感謝いたします。

前回の例えで言うところの藩の家老が自分の裁量で雇った部下は陪臣に扱われるのですね。時代劇などでは突然現れた正義の使者に真っ先に斬られて犠牲になっている人々ですが。

お礼日時:2014/03/08 00:35

篠田鉱造著「百話シリーズ」の第2弾



「明治百話(上)」と3弾「明治百話(下)」を

読まれると、当時の世の中のドタバタの事実が、それぞれ百話書かれてますよ。

幕末百話というのもあります。

当時の頃のことをお知りになりたいのでしたら

ご一読下さい。

なんて 書いてますけど、私も、この本のこと今日の新聞で知ったばかりで

今、Amazonで注文したはかりです。

届くのが、楽しみです。

当時の世相を知る人の談話をあつめたものです。

特に幕末は、京都で長州による人斬りが日常的におこなわれていたそうです。

取り締まる新撰組も、大変だったでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご本の紹介もして頂き重ねてお礼申し上げます。

幕末は、それまでの権力者が次第にその権力を失うことになり、勝ち馬に乗るべく、皆が競い合って新しい権力構造を模索していた混沌期ですから、無政府状態にも近い様相を呈していたのでしょうね。

幕末の時代に生きた紀州藩士の奥方が「小梅日記」と呼ばれる日記を記し、それが本となって出版されておりますが、そこには当時の混沌とした生活模様が描かれていました。紀州55万石の城の門前で斬り捨てられた武士もいたとのことです。このような事件は他にもあったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/03/07 22:33

>公方や藩主から貸与されていた土地や建物を明治政府に返還したのでしょうか?


公方すなわち幕府の家臣である幕臣と大名の家臣である藩士では異なっていました。
江戸時代の藩というのは現在の独立国家と同じです。
内政にはどこも口出しができませんでした。
スタート直後の明治政府も各大名家の家臣が使用していた不動産の取り扱いにまで口出しをする余裕はありませんでした。
住居を追い出したりしたらそれこそ内乱になってしまいます。
刀を取り上げてチュンマゲを切らせただけで、佐賀の乱だの西南戦争だのと内乱が起きました。
不平武士による反乱というのはこうのような意味です。

ただし、生活費である俸禄だけは引き継ぎました。
江戸時代は米本位経済です。
租税及び武家の収入は全て米でした。
明治政府はこの俸禄の支給にあたり現金での支給に切り替えました。
結果として明治政府の財政支出の30%がこの費用でした。
直ちに、経費削減策としてこの支給を廃止する政策がとられました。
明治6年(1873年)に俸禄100石未満の下級武家に対して俸禄の返還を申し出るように命令しました。
返還を申し入れた者に対しては一時金として4ヶ月~6ヶ月分を一括払いしました。
翌明治7年に100石以上の上級武家にも同様の命令を出しました。
変換を申しでない者にたいしては所得税として約12%の課税処置を取りました。
更に明治8年に支給を全面的に廃止しました。

以降かつての武家は自力で生活費を工面する必要に迫られました。
何処かへ行くあてのある人は家屋敷を処分したとは思います。
江戸の町は大名屋敷を取り払った跡の空き地だらけですから例え売れても二束三文だったでしょう。
大名家の城下町にいた家臣のように、農地が周辺に広がっていた人達とでは、対応が全く異なっていました。

この結果生まれたのが武士の商法という言葉です。
面白いのは、江戸の町にいた武士が選んだ商売で最も多かったのがお汁粉屋だったそうです。
奥様やお嬢様にやらせたのでしょうかね~
当然バタバタ潰れました。
ともかく、食い詰めた武士の成れの果てまで記録した正式な文書はありませんので実態は不明です。
いろいろ噂話などは残っていますが、出来たばかりの軍隊へはだれも行こうとしなかったようです。
百姓町人と同じ扱うを受けることには耐え難かったのでしょう。
まして百姓町人あがりの上官に命令されるような組織には到底馴染めなかったでしょう。
警察官には地方の大名の家臣が就職したようです。
急激に公共工事や学校、官営工場が建設運営されましたので、それぞれに働き口は見つけていったようです。
有名な富岡製糸場で働いていた女性はほとんどが武士の娘達でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに、かつての身分制度のもとでは下の位置に属していた者から偉そうに命令などされようものなら、プライドが許しませんよね。かと言って、過去の栄光にすがるのも、それは更に自分を虚しくさせる行為ですが。

富岡製糸工場で働いていた女性の殆どが武士の娘たちであったというのは初耳です。かつては特権階級であった武家のお姫様たちが慣れない生産現場で働くことになり、さぞやご苦労されたのだろうと想像します。富岡製糸工場に関しては、いわゆる女工哀史のような劣悪さは無かったものと理解していますが、これは武家の子女を雇っていたことと何らかの関係があるのかもしれませんね。

今の時代も次から次へと荒波が押し寄せて来ておりますが、先人たちの頑張りを見習わないといけないな、と感じています。

お礼日時:2014/03/06 21:59

旗本屋敷や大名の上屋敷等の拝領屋敷は明治政府に接収されました。



旗本の多くは徳川氏に付き従い、駿府に移転し、そこで多くが帰農しました。

青空文庫より転載 http://www.aozora.gr.jp/cards/000354/files/2405_ …

旗本移転後の始末  勝海舟

維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは凡そ八万人もあつたが、政府では十日の間に移してしまへと注文したけれども、それは到底出来ないから二十日の猶予を願つて汽船二艘で以て運搬した。併しその困難は非常なもので、一万二千戸より外にない静岡へ、一時に八万人も入り込むのだから、おれは自分で農家の間を奔走して、とにかく一まづ皆の者に尻を据えさせた。
 この時、沼津の山間で家作も随分大きい旧家があつたがそこへ五十人ばかり宿らせて、おれも共に一泊した、その家の主人は、今一寸名を忘れたが、七十あまりの老人で、おれに挨拶していふには、拙者の家は当地での旧家だが、貴人を宿させたのはこれで二度目だといふから、二度とは何時々々と問ふたら、昔し本多佐渡守様を泊めたのと、今夜勝安房守様を泊めるのだといふ。本多佐渡守を泊めたことについては、何か記録でもあるかと尋ねたら、記録はないけれども、口碑に伝はつて居るといふ。然らば、その仔細を聞かせよといつたら、老人が話すには、それは太閣様小田原征伐の一年前で、明年ここへ十万の兵が来るから、予め糧米や馬秣を用意する為に小吏では事の運ばぬを恐れてか、本多様は自分でここえ御出になつたのだといふ。然らば明年になつて糧米馬秣は如何にしたかと問ふたら、答へるには十万の兵が来た為に米は却つて安くなつた。これは去年から皆の人が沢山貯へて置いたからだ。且つ又上様(家康)の御仕合には、沼津の海岸は常に浪が荒くつて、糧米などを大船から陸揚げすることはむづかしいのに、この当時には丁度天気がよくつて浪も穏やかであつた為に、他国からも糧米を容易に輸入することが出来たからだ。それからといふものは、此地方では風波の平穏なのを、「上様日和」と称すると答えた。古人の意を用ゐたのは昔はこの通りだ。さて、彼の八万人を静岡へ移してから、三四日経つと沢庵漬はなくなり、四五日経つと塵紙が無くなりおれも実に狼狽したよ。

・・救済策は一切無かったみたいですね。

郊外にある大名の下屋敷等は接収されなかったようです。

現在でも武家屋敷(侍屋敷)は残っているものがあります。

大名家は廃藩置県時に東京在住を命じられたので、住居であった城は維持費の問題もあり、各地で多くが売却・破棄されました。

下屋敷も建築様式、生活様式の変化に伴い、徐々に無くなったようです。

明治政府からの家禄は、その給付範囲を徐々に狭められて、明治9年に「秩禄処分」で全廃されます。

国によって士族、卒族の構成は異なりますが、主に直臣が士族で陪臣や中間などが卒族に編入されます。

しかし明治政府にとって家禄の給付は大変な財政圧迫になっており、随時「帰農帰商」は推奨されました。

そして明治5年には卒族が廃止になり、士族への編入、及び平民への復籍が行われます。

明治6年に徴兵制が始まり、士族の特権としての存在意義は完全に消滅になり、士族出身以外の兵力を保持するようになった国は、「秩禄処分」へと向かうのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

姫路城ですら取り壊しが検討されていたくらいですから、地方にある小藩の城などは躊躇なく取り壊されたのでしょうね。もしそれが今も残っていたならと思うと、何とも勿体なく感じます。

徳川将軍の家来は直臣(諸大名)で、その直臣の家来は陪臣だと理解しているのですが、藩の重役を担っていた家老クラスの人々でも卒族扱いになったのでしたら、それも酷い話だと思います。

名だたる大名たちは時代が変わってもそれなりに優遇されていたようですが、そうでない多くの人たちは精神的にも経済的にも大変だったのでしょうね。今の世にも通ずる悲哀を感じました。

お礼日時:2014/03/06 21:31

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