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先に、≪疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう≫
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html

という質問がされた。内容は、

疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」について教えてください。
 この「の」は準体助詞という解釈が一般的にようです。
 ↑の「の」は省略が可能だと思います。準体助詞は、省略できないのでは。
 ↑の「の」は終助詞と考えることはできませんか。//

というものであるが、これは<準体助詞>や<終助詞>ではなく、<形式(抽象)名詞>であることを縷々 No.2/No.3 で回答済みであるが、残念ながら質問者や他の回答者はこの内容が理解できずに頓珍漢な応答をされている。唯一理解を示されたのは、No.12の回答者である。

この質問者の根本的な誤りは、「品詞はなんなのでしょう」と問いながら、その質問の前提である<準体助詞>という品詞分類自体が誤りであることに気付くことなく、屋上屋を架す誤った質問を繰り返していることにある。質問者も記しているように10年も前からの課題であり、再度同じ誤った質問を繰り返し、堂々巡りを繰り返していては、後10年経とうが、20年経とうが問題は解決しない。

この根本的な誤りを指摘し、回答者ら諸賢のご意見を御伺いしたい。

まず、<助詞>と<名詞>は学校文法でも付属語と自立語という全く異なる品詞類に区分され、〔実は「準体助詞」と呼んでも「形式名詞」と呼んでも構わないと思います。〕などとコメントされているが、それでは品詞区分の意味をなさないというしかない。品詞の定義、区分が全く理解されていないのである。

質問文にもある、「なんな【の】でしょうか」の「の」も<形式(抽象)名詞>であり、「な」は連体形の判断辞で、活用の接続からも「の」が名詞でないと中学生にも分かる、活用理解の誤りというしかない。

この程度の日本語文法の基礎の理解もなく幼稚なSF文法を振り廻すのは止めてもらいたいものである。

とはいえ、<準体助詞>という名称、区分を生んだのは学校文法の提唱者である橋本進吉である。ここに、形式主義、機能主義的な橋本文法の欠陥と矛盾が露呈しているのである。

いま、<普通名詞>を使い、

(a) 青い【リンゴ】はすっぱく、赤いリンゴはあまい。
(b) 私が干渉した【行為】は、よくなかった。

というところを、初出以後はもっと抽象的に、<形式名詞>を使用し、

(c) 青い【もの】はすっぱく、赤い【もの】はあまい。
(d) 私が干渉した【こと】は、よくなかった。

と表現することも多いし、さらには「もの」と「こと」との段階をも超えてもっと抽象的にとらえて、

(e) 青い【の】はすっぱく、赤い【の】はあまい。
(f) 私が干渉した【の】は、よくなかった。

とどちらも同じ形式の「の」で表現することもしばしば行われている。

対象それ自体のあり方は何ら変化していないのだが、認識がヨリ抽象的ヨリ普遍的になったために、次第にその具体性・特殊性が後にかくれてしまったのであり、その抽象的な概念を表現するために適当な言語規範がつくり出されて「もの」や「こと」が生まれ、ついには「の」が使われることになったのである。

(a)の「リンゴ」や(b)の「行為」ならば、誰でも口をそろえて<名詞>だというに違いない。だとすれば、これらに代って使われる(c)の「もの」や(d)の「こと」も、具体と抽象とのちがいこそあれ、やはり<名詞>だと考えなければならない。通説も、これを<名詞>と認めて、いまでは<形式名詞>と呼んでいる。(e)(f) の「の」にしても、文法の教科書などに縁のない素朴な人びとなら、これも「もの」や「こと」と同じ性格の語と受け取って、やはり<名詞>だというであろう。極度に抽象的で、対象がどんな実在かよくわからないけれども、客観的なものごとを扱った客体的表現であるぐらい、検討がつくのである。

しかし、多くの学者は、この「の」を「もの」や「こと」に相当する語だと認めながら、しかも<名詞>とは見ていない。その理由の一つは、彼らが<名詞>の本質をその内容にではなく形式や機能の特殊性に求めているところにあり、今一つは、日本語の特徴である<助詞>の中にやはり同じ<形式>の「の」が存在しているところにある。

橋本進吉は、品詞分類の根本的な基準を、自立して文節を構成できるか否かに置いたから、<名詞>は自立して文節を構成できる語だと規定した。「花」は、「花、実ともに美しい。」のように自立した文節になるし、「花を」「花に」「花だ」などのように<助詞><助動詞>が付属してさなざまな文節がつくれる活用のない語であるから、これは<体言>であり<名詞>であるという。

(e)(f)の「の」が、自立して文節を構成できないことはもちろんである。しかも、他方で、同じ「の」は「梅【の】花」「私【の】財産」のような形で多く使われているし、これらは<格助詞>とよぶのがふさわしい。(e)(f)の「の」は、自立して文節を構成できない点で<格助詞>と一致するという事情もあって、これらを<格助詞>の特殊性な使い方だと解釈するのが通説となっていった。

形式主義は語の内容よりも形式を優位に置き、表現主体の認識ではなく語の「かたち」を何よりも重視する。彼らにしても、形式が変わることなしに内容が変わるという歴史的事実は否定しない。「たたむ」という動詞が、そういう性質を持つ実体の名称になって「たたみ」という<名詞>が生まれたというような、語の転成も否定しない。【けれどもこれらは、語が本質的に異なった性格のものに変化したわけではない】。同じ<名詞>としての意味の変化であり、同じ客体的表現いわゆる<詞>としての語の転成である。

橋本は形式主義者であるだけに、「の」を<助詞>と見て、山田孝雄の資格付与節を吟味し克服するどころかこれを忠実に受けついだばかりか、山田とは逆に「の」を格助詞から追放してしまった。こうして橋本は、<体言>につく「の」を<準副体助詞>、他の語についてその語に<体言>の資格を付与する「の」を<準体助詞>と区別するのである。

『国語法研究』は、橋本の形式主義およびそれを補強するための機能主義を読みとるのにふさわしい。「の」は形式的に<助詞>であるけれども、「赤い【の】を見せる。」「死ぬ【の】は困る。」などを考えてみると、これらの「の」は「他の語について或る意味をを加えて、全体として体言と同じ機能を持ったものを作るもの」と思われてくる。<助詞>は橋本文法では<辞>とよばれ付属語とされているのだが、【これらの「の」は他の語につくことで全体が、<詞>すなわち自立語と同一の機能を持つものになる】、と説明する。「の」それ自体は<体言>ではないが、これが他の語につくと「の」をふくめた全体が<体言>の資格を持つことになると見て、これを「準用」と名づけた。「語が或る品詞の資格を得て、その品詞と同等に用いられる事をその品詞に準用せられたものと見るならば、その資格を与えるこれらの各種の辞を準用辞又は準用助詞と総称してよかろうと思う。」先の例でいえば、<助詞>「の」は用言「赤い」「死ぬ」に特殊な資格・特殊な機能を与えるわけであって、「赤いの」「死ぬの」全体が<体言>機能を獲得する。それゆえ「の」はここでは<準体助詞>とよばれることになる。

ここでは、「赤いの」「死ぬの」という、連体形「赤い」「死ぬ」と形式(抽象)名詞「の」との活用の関係は無視されることになる。文法の持つ論理性をこのような機能論では捉えらえないことになる。

また、「の」はすべて<助詞>とされ、その中に<格助詞><準体助詞><終助詞>を区別する。(f)の「の」は、<準体助詞>で、「これ欲しい【の】」 のように文の終わりに使われる「の」は終助詞である。これが「のか」「のさ」「のね」「よね」「のよ」などの形をとるときにも、一語として扱うのが普通である。

質問者の質問は、この誤った品詞区分の中での堂々巡りに過ぎない。

こんな、非科学的なSF文法による寝言を何十年繰り返しても何の進歩も、意味もないのは明らかであろう。

注:三浦つとむ『日本語の文法』(勁草書房:1975.7)
「第三章 日本語の<形式名詞>―「の」とその使いかた」の「三  橋本文法は「の」を<準体助詞>と解釈する」を基に引用、改変しました。■

質問者からの補足コメント

  • プンプン

    なお、この<形式(抽象)名詞>「の」の理解の誤りは、当然ながら<接続助詞>とされる「ので」の理解の誤りに引き継がれ混迷しています。これについては、

    接続助詞「ので」という誤り ― ―  辞書の混迷
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9041 …

    を参照下さい。■

      補足日時:2020/07/28 12:36

A 回答 (1件)

一つ質問があります。


>質問文にもある、「なんな【の】でしょうか」の「の」も<形式(抽象)名詞>であり、「な」は連体形の判断辞で、活用の接続からも「の」が名詞でないと中学生にも分かる、活用理解の誤りというしかない。
 この中の「活用の接続からも活用の接続からも「の」が名詞でないと中学生にも分かる、と中学生にも分かる、」の「 」内の
  「の」が名詞でないとは、→「の」が名詞であるとは、
となるのではありませんか。
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この回答へのお礼

「の」が名詞でないと、中学生にも分かる活用理解の誤りというしかない。

というつもりでしたが。

>>「の」が名詞であるとは、
の場合は、

「の」が名詞であるのは、中学生にも分かる接続である。

ということですが。助詞であれば、当然ながら連用形でなければなりません。話者の認識は無意識ながら「の」を名詞とし、連体形に接続しており、言語規範の論理性が貫徹しています。

なお、
>>どうしてそういうことになる<の>だろう。 この「の」は「ん」に変化することもありますが、どうしてこんな「の」が入ってくるのでしょうか。

ですが、これは次の通りです。

まず、この「なるの」の「なる」も連体形です。口語の場合は終止形/連体形が同じなので見逃され易いと思うのですが。

そして、「の」は「どうしてそういうことになる」を媒介的に抽象的な実体として捉え直し、動かぬ、確実なものとして示し、判断辞「だ」でこれを肯定することにより自分のいいたいことを明確にかつ強調するためです。

これは話者の認識を捉えない限り解明できません。■

お礼日時:2020/07/27 21:46

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