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<準体助詞>という誤りについて
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11792915.html

で<準体助詞>という誤りを指摘したが、文末の「の」も<形式(抽象)名詞>で、<終助詞>ではない。
先の、≪疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう≫
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html

の質問者からも次のような、泣きが入っている。
>>
行く?
行くの?
行くのか?
 この「の」が準体助詞(もしくは形式名詞)とはとうてい思えません。//

これらは<準体助詞>や<終助詞>、つまり<助詞>ではない。動詞の連体形「行く」に続くのであるから<名詞>である。<助詞>が続くのであれば、<連用形>である「行き」でなければならない。

<助詞><名詞>とは何なのか、どう異なるのかの理解もなしに、何の根拠もなく感覚的に「とうてい思えません」などと言ってみても始らないのは明らかである。

以下に、三浦(つとむ)による、これらの誤りの論証を引用する。
質問者他諸賢の御意見を御伺いしたい。
(なお、(f)系などの例文は「<準体助詞>という誤りについて」を参照。)

学校文法はこれを<終助詞>とし、岩波の『広辞苑』その他、権威を誇る国語辞典にしても教科書と同じく<終助詞>と規定している。「あなたが行く【の】?」は疑問を、「ええ行く【の】。」は軽い断定を、「あなたが行く【の】!」は命令や主張や詰問を表現し、「行く【の】行かぬ【の】とうるさいわね。」では対等関係に立つことを示す<並立助詞>だという。

このような通説は、現在の言語学が持っている二つの弱点のあらわれと見るべきであろう。

その第一は、子どもたちの言語表現をその認識の特殊性とのかかわりで研究せずに、特殊な語彙や対象に関心を向けていることである。実体と属性は区別しなければならないのだが、現実に不可分であるし、現象的な認識の段階では実体と属性との区別がない。人間の行動にしても、実体のあり方として実体的にとらえられている。子ども特に女の子の対象認識には、【属性表現を直接的に実体的に把握する習慣】が成立していて、<動詞>として表現すべきところを<名詞>的に表現している。「おやすみ」「お遊び」「おいで」「お帰り」「お急ぎ」「お待ち」「お困り」「おめかし」等々といい、お手玉のときにも「おつかみ」「お手のせ」などと、<接頭語>「お」を加えて<名詞>化している。【属性を媒介的に実体的にとらえなおした】(f)系の「の」を属性表現に加え、「食べる【の】」「見る【の】」「行く【の】」「知らない【の】」のように立体的に「わく」づける習慣も、これと無関係ではないと思う。どちらの場合も

【おめかし】はいそいでね。
【食べるの】はこれとそれね。

のように思想の主体としての実体的な把握が行われているのだが

私はそれを食べた。

に対して

私はそれを食べた【の】■。
(引用者注:■は判断をあらわす零記号。)

は、「私はそれを食べた」という現実を「の」で実体的にとらえなおし、【そのことを動かぬものとして認識している】ことになる。理由や条件の表現を伴って、

おなかがすいたから食べた【の】。
兄さんに会えてうれしい【の】。
私なんにも知らない【の】。

になると、この実体的なとらえなおしによる動かぬものとしての確認は、【自分の行動についての折り目正しい説明ないし反対や妨害を許さない積極的な主張】ともなる。「行く【の】行かない【の】とうるさいわね。」というのは、こうした積極的な主張として実体的に扱って問題にしているのであって、「の」それ自体は列挙的に使われているが、「の」で対等関係を表現していると解釈するのはこじつけでしかない。<並列助詞>などではないわけである。

大人も、やはり属性を思想の主体として扱ったりよびかけの対象にしたりする必要があるし、行動についての折り目正しい説明や積極的な主張をする必要があることにも変りはない。それで、属性を直接に実体的に把握して<名詞>にしたり、媒介的に実体的にとらえなおして<形式名詞>を加えたりする習慣も、続いていく。けれども大人になると、対象の複雑な構造を多面的に認識することが必要になり、また可能になるから、表現構造も複雑化していく。直接に実体的に把握する場合にも「女あそび」「里帰り」「回答待ち」などのように複合化したり、媒介的に実体的にとらえなおして(f)系の「の」を使う場合も、「ふとらないようにいつも注意して食べている【の】に。」「とびきりきれいに御化粧してうちの人をびっくりさせてやる【の】。」などのように長い句を承けるようになったり、するわけである。言語学者は言語の歴史を、言語規範の歴史的な変化をたどって積極的に追求してきたが、個々の表現主体の認識の発展に伴う言語表現の歴史的な変化を追跡する努力は不十分であったことも否めない。

その第二は、音声あるいは文字による言語における表現がその対立物である非言語表現を伴い、これらが調和する矛盾として発展していくことを、理論的に解明しなかった弱点である。音声言語における抑揚(イントネーション)や、文字言語自体は、いずれも非言語表現として利用することができる。音声言語の抑揚を使って感情や欲求を示すことは、すでに子どもが積極的に行っているし、文章を明朝の活字で組みながらその中にゴシック活字を挿入して強調を行う方法は、われわれが論文を印刷するときにしばしば採用している。これらの非言語表現は、言語表現と統一されているだけでなく、内容的にも言語表現と連関があるために、言語表現といっしょくたに扱う学者がすくなくないのだが、この二種の対立した表現の差別と連関を正しくとらえないと、文末に使われる(f)系の「の」を<終助詞>と錯覚してしまう。女性が「いまおひま?」と問うような場合、音声の「おひま」はもちろん<名詞>で客体的表現の語であると同時に、これに伴う尻上がりの抑揚は非言語表現で感情や疑問を訴える主体的表現になっている。「いらっしゃいます【の】?」と問う場合も、同じように音声の「の」は<名詞>で客体的表現であると同時に、これに伴う尻上がりの抑揚は非言語表現で感情や疑問を訴える主体的表現になっていると、理解しなければならない。それにもかかわらず、「の」は「おひま」とちがってきわめて抽象的であるばかりか、独自の対象も存在しない。だから「の」の内容を理論的につかめないと、これに伴っている非言語表現の感情や疑問を【「【の】」の内容によこすべりさせて、【の】が軽い判断を示す主体的表現だと思いこむ】。時枝理論には零記号という発想があるのに、文末の「の」の下に想定しようとしなかったし、また言語表現と非現語表現との対立物の統一という観点が欠けていたために、文末の「こと」や「の」の内容を感動だと錯覚して<助詞>と規定し、その間違いを反省できなかった。//

注:三浦つとむ『日本語の文法』(勁草書房:1975.7)
「第三章 日本語の<形式名詞>―「の」とその使いかた」の「七  文末の「の」は<終助詞>ではない」より引用、省略あり。■

質問者からの補足コメント

  • 元の質問のNo.17 の疑問にお答えしておきます。

    最初の疑問は、上記説明が解明している通りです。

    >>外にも疑問を抱えていて、「そうなのだ」の「な」と「だ」と(同じ語)の間に入る「の」。「行くだ」「嬉しいだ」とは言えないのに、「行くのだ」「嬉しいのだ」と言える理由など、多く疑問が残ります。

    「行くだ」「嬉しいだ」は栃木方面や東北の方言として使用されています。零記号としての判断辞が表現されたもので合理的な表現です。標準語の規範としては、零記号のままとするか丁寧形を使用し、「行きます」「嬉しいです」になります。(この場合は、当然連用形接続です。)

    不明な点があれば質問下さい。■

      補足日時:2020/07/28 18:24
  • なお、

    おなかがすいたから食べた【の】■。
    兄さんに会えてうれしい【の】■。
    私なんにも知らない【の】■。

    と肯定判断辞が零記号として存在しています。

    これを明確に表現すると、

    おなかがすいたから食べた【の】(だ/です)。
    兄さんに会えてうれしい【の】(だ/です)。
    私なんにも知らない【の】(だ/です)。

    となり、女性であれば「ます」を使用します。■

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/29 21:48

A 回答 (1件)

「零記号」は見掛けることはありますが、みずから使うことがありませんので、意味が分かりません。


誰が使い出したのか、また必要な言葉かどうかも分かりません。(省略のこと?)
 下記の部分が全く分かりません。
>「行くだ」「嬉しいだ」は栃木方面や東北の方言として使用されています。零記号としての判断辞が表現されたもので合理的な表現です。標準語の規範としては、零記号のままとするか丁寧形を使用し、「行きます」「嬉しいです」になります。(この場合は、当然連用形接続です。)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

時枝誠記が『国語学原論』で提起した概念で、端的に言えば省略です。

認識としては存在するが形には表現されていないということです。
「行く■」「嬉しい■」として、肯定判断が存在していますが、形、語としては表現されていません。
これが、丁寧形の場合には表現されて、「行き【ます】。」「嬉しい【です】。」になります。

形容詞述語の後には零記号としての肯定判断が存在していますが、これまでの規範では零記号のままで、最近は「赤いです。」「楽しいです。」と表現され容認されつつあります。

また、「行くの?」が疑問を表わすのは、零記号としての疑問が存在するもので、音声の場合は抑揚(イントネーション)という非言語表現が伴いますが、文字化すると表現できないために記号「?」を付けています。文末の<形式(抽象)名詞>「の」自体が疑問を表わすのではなく、零記号が伴っていることを理解できないと「の」自体に機能として押し付け、<終助詞>という誤った判断になります。これが、上記で、三浦が「第二の弱点」としている内容です。

引用されている『日本国語大辞典』も、単に機能を問題にするだけなのでこうした認識と表現の関係を捉えることができず、本質的、論理的な説明ができず「文末にあって活用語の連体形を受け、【文全体を体言化し、詠嘆をこめて確認する】。」ということになります。

そのために、

日本国語大辞典の記事が、形式名詞の用法がそのまま「終助詞」になったかのような書き方になっており、そのあたりが不分明です。

ということになりますが、

しかし、「の」が直接「疑問」を表すとは言えない、(イントネイションに左右されるから)「こういうわけなの。」という説明(念押し)用法になったり、~、「の」があれば必ず「?」がつくのではありません。

と問題点を捉えられているのは、さすがです。

なお、「行くのだ。」「そうなのだ」は、「行く」「そうな」(「な」は判断辞の連体形)を媒介的に、抽象的な実体として捉え直し「の」と表現し、判断辞「だ」で肯定判断した表現で、「学生だ」という名詞、(この場合は名詞句)を肯定判断するごくありふれた表現ということです。

この辺は、「七  文末の「の」は<終助詞>ではない」で詳しく論じられていますが今回の引用では省略しました。

ご希望であれば引用しますが。■

お礼日時:2020/07/29 13:43

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