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1. 感じるや考えるをもあわせて それぞれの対象を捉えるなら:

2. 感じるのは 世界におけるそれとして現象するモノ・コトである。

3. 考えるのは: 
① 感じて得たモノ・コト――これらは イメージをふくめてすでに言葉≒概
念と成っている――であり 
② さらにそれらを 感覚の対象であることから離してあたかも考える(想像)
だけでこしらえた言葉ないし観念である。


3-1. 天・人・馬は 感性によって捉えたモノ・コトであり 考えるため
の言葉≒概念である。

3-2. ところが ペガサスやケンタウロスは すでに言葉であるが感性に
直接かかわりのない・つまり頭の中にのみある観念である。世界に現象してい
ない想像の産物である。



4. では 信じるのは 何か? 信じるとは どういうことか?

5. 天馬や人馬なる観念としての存在(事象)を 信じるのか? 

6. そうではない。それは 天・人・馬を知覚していて・したがってそれら
を信じると規定するのはふさわしくないのと同様に 天馬や人馬についても 
信じるのではなく 考える(想像をめぐらす)のである。



7. 天は 目に見える空を超えたところを想像し そのように自然を捉える
感性を超えているだけではなく 理性(思考)をも超えているその場ないし或
る種のチカラだと仮定した場合 その《天》を ひとは信じるのか? 

7-1. 天は人の上に人を作らず 人の下に人をつくらず というふうに言
って。

8. その超越的な天のチカラをあたかも体現した人を想定したときこの《ひ
と》を われわれは信じるのだろうか?

8-1. 良心・信教の自由は 必ずしも証明できるものではないが公理のご
とく つよい基本原則であって たとえば誰かがわれは現人神なりと言った場
合 われわれはこれを否定も肯定も出来ない。



9. 感じる感性 考える理性 そして――推測としてみちびくだけであるが
―― 信じる霊性・・・ということになるか?

10. 霊性は 想像の産物であることを超えている。考える(理性・知性)
の対象ではない。

11. ――というふうに・なぜなら 《仮定や想定》がこの思考過程には闖
入して来ている ゆえにその想定じょう―― 考えることができる。か?



       *


12. そうして 霊性とは――議論抜きになるが―― 絶対性のことである。

13. 絶対性は 信じる霊性について――それは すでに考えるところの善
悪を超えているが――その属性をわれわれ人間がわざわざ憶測し忖度して 善
悪の彼岸たる至高善(スムム・ボヌム)または絶対善として規定したものであ
る。

14. 想定じょうの仮説理論からみちびいた概念――絶対善――を むやみ
に経験哲学なる思考において振りかざし振り回しても――霊性は 考えるを超
えているからには―― 無理でありムダであり まったくの徒労に終わる。と
いうことは 火を見るより明らかではないのか?

質問者からの補足コメント

  • №9つづき1

    ● 一切衆生 悉有仏性
    ☆ と言えば すでにそこから意識が生じ自覚も生まれると言ったほ
    うがよいかも知れないからです。

    ●その通りです。
    ☆ 確認しました。
    そして つづく二件のやり取りをも確認しつつ割愛しますが 三つ目
    に行きます。

    ☆☆
    >仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり じつにわれわれ人間
    には その知性等の能力を超えているものであるからには 容易に認
    識など出来ない相談なのですから。

    ●その通りです。
    ☆ 総論として 確認できました。

    つづく

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/05 13:35
  • №9つづき2

    ● 
    しかしながら、『仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり』、、、
    という意識や認識は持ちながら、そうした事に対して少なからずや探求
    する事で、信は深まるものなのではないでしょうか。
    ☆ これはですね。微妙ですが おそらく:
    ● 信が深まる
    ☆ というよりも:
    ○ 信についての説明の仕方や内容が 深まる・・・
    ☆ のではないかと。


    ● 
    まして、『仏教』という教えは、そうした衆生生命に光を当てて、様々な
    人間の抱える問題を解決するために説かれたものだからです。
    ☆ たぶんそれは 神論=生命論としてではなく 経験思想としての哲学
    や心理学・論理学といった分野での寄与ではないかと。

    信仰は 別だと。

    次のご指摘も おなじようだと理解しますが。:

    これをただの『宗教の話』という事ではなくて、現実の人間社会と
    照らし合わせて学ぶ事も無駄ではないとは思います。

      補足日時:2020/09/05 13:38
  • №10つづき

    いっそのこと そういった具体的な細かいハタラキのような神々は 基本
    としての霊性なる生命また普遍神の 分身 として捉えておけばよいと考
    えます。


    ● この点については、仏教者としては譲れない点です。
    これを許してしまえば、仏教は意義を失います。
    ☆ ですから 不都合は生じないと思いますよ。


    ● 信が深まる
    ☆ というよりも:
    ○ 信についての説明の仕方や内容が 深まる・・・

    ● そう理解されても良いと思います。
    ☆ ありがとうございます。


    ● 【十界論】:仏性を含む生命状態と個々の人間の作用の関係、そして
    さらに取り巻く環境までを含んで関係性を説いたものが仏教理論

    ☆☆ 経験思想としての哲学や心理学・論理学といった分野での寄与では
    ないかと。

    ● まあ、そこはどういった分類をされても、構わないと思いますが、、、。
    ☆ これも ありがとうございます。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/05 16:54
  • №12つづき

    ● という事になると、『霊性』も仏界。仏性とはイコールではないと言え
    るでしょう。
    ☆ 絶対性ではない・・・のですか?


    ● 【付録】:『仏界』『仏性』
    ☆ すでに説明しましたように 人間の側から捉える場合には どうしても
    人間にとって都合のよい見方をするものです。哲学でも自然科学でもです。
    人間原理と言います。

    仏性は アートマンと同じく絶対性であるのに 人間の境涯の中におさまっ
    ているというふうに図式化すると あたかも部分的な小さなものであるかの
    ように見えて来てしまいます。

    ですが 絶対性であるゆえに そのような縮小化にも 自由自在にその見方
    や説明の仕方に応じて あたかも姿形を変えているかのようであるというこ
    とです。


    仏性も霊性も そして生命も 絶対性であり 絶対性であると言うならそれ
    は 神なのです。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/06 12:51
  • №18つづき

    ゴータマは 要するに アン‐アートマン(無我)をかかげた。(アンは アン‐イ
    ンストールのアン)。つまり 霊性の無ないし無い神。シューニャター(空)ない
    しニルワーナ(涅槃)。

    ところが 後世において 人びとは けっきょくアートマン(霊我)を復活させた。
    タターガタ・ガルバ(如来蔵)またはブッダタ―(仏性)と呼び名を替えて。

    ブラフマン神に対して アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)ないしマハ―ワイロ―チャ
    ナ・タターガタ(大日如来:毘盧遮那仏)を当てる。


    このような事情において 神は――絶対性として・霊性として――つらぬかれている
    と見ます。アン‐アートマンと呼んだ《〈無い神〉という神》としてもです。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/12 18:32

A 回答 (23件中11~20件)

■お礼、補足を見落としてしまいました。


申し訳御座いません。

>☆ ですから もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら この
普遍神には 《有る神》とそして《無い神》とが互いに同等に――呼称
の違いとして――あり得る。ということ。これを提唱しています。

●この文での、、、『もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら』
、、、で、『神』となると話は別であると言っているだけです。
☆ そうでしょうか。《神》は 超経験で 人知を超えていて 絶対性で
ある。生命なる霊性も 絶対性である。ですから・・・。

● ただし、私個人としてそこには賛同できないと言っているだけですか
ら。』
となります。
☆ 分かりません。正直 分かりません。

>☆☆ あらたに神論=生命論として――絶対性を基礎として――仮説する
かたちなんです。

● 今まで質問者様とやり取りをしてきた中で、生命の絶対性は言っていな
いと思います。
☆ そうですか。

絶対性:神(普遍神)・アートマン(霊我):霊性
絶対性:仏性・仏界・・・・・・・・・・・:霊性
絶対性:生命・・・・・・・・・・・・・・:霊性?

☆ 生命については まだ保留なのですね?


●●保留ではありません。
先より論議している『仏性(仏界)』については、絶対性を認めています。
しかし、生命には『仏性(仏界)』だけではなく、その他の九界も含まれます。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界です。
これらは縁に触れ瞬間瞬間変化していきます。



>● 『霊性』という事自体、魂、あるいは精神的なものかと・・・
☆ 次のように定義しています。
☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~
9. 感じる感性 
   考える理性(☆ =精神)
   信じる霊性?

10. 霊性は・・・考える〔理性・知性(☆ =精神)〕の対象ではない。
・・・
12. そうして 霊性とは・・・ 絶対性のことである。
~~~~



★ それは、『生命』=『仏性』ではないからです。
どちらかというと、生命の奥底にある十種の境涯の中に仏界・仏性は含まれ
るからです。
☆ 絶対性〔なる仏性〕が 何か形のある・量としてある経験的相対的なも
の――境涯――の中におさまるというのは 腑に落ちません。


十界の中に仏界があるというのは 人間という前提をおいて捉えた場合でし
ょう。人間の側から見れば 絶対性なる仏性がそなわるというのは あたか
も《分有》するといったかたちになり表現もそうなると思います。

仏性じたいは 絶対性であり 変わりないのにです。

その全体は おそらくけっきょく 《生命》であるとなるはずです。再考い
ただきたいと存じます。


●●これは、再考出来ません。
何故なら、天台仏教において、既に体系化されているからです。
1500年も前に。

参考①:『一念三千法門』 著:天台大師

参考②:『十界』
 十界については、先の回答でも述べた通りです。
 これは、法華経で既に説かれているものです。
 『一念三千法門』は、この『十界』をベースに天台大師が
 体系化されたものです。




>№12つづき

● という事になると、『霊性』も仏界。仏性とはイコールではないと言え
るでしょう。
☆ 絶対性ではない・・・のですか?


●●そこは、質問者様がお考えいただきたい。
『霊性』という言葉を用いてきているのは、質問者様なのですから。
先の回答において、私は、、、

*************************************************
『霊性』も仏界。仏性とはイコールではないと言えるでしょう。
どちらかというと、生命、魂、精神、念心と同じ概念かと思います。
*************************************************

と言っています。




>● 【付録】:『仏界』『仏性』
☆ すでに説明しましたように 人間の側から捉える場合には どうしても
人間にとって都合のよい見方をするものです。哲学でも自然科学でもです。
人間原理と言います。

仏性は アートマンと同じく絶対性であるのに 人間の境涯の中におさまっ
ているというふうに図式化すると あたかも部分的な小さなものであるかの
ように見えて来てしまいます。

ですが 絶対性であるゆえに そのような縮小化にも 自由自在にその見方
や説明の仕方に応じて あたかも姿形を変えているかのようであるというこ
とです。


仏性も霊性も そして生命も 絶対性であり 絶対性であると言うならそれ
は 神なのです。


●●質問者様独自のものとして受け止めます。

また、『神』というものは、宗教宗派により考えは異なるもので、これも
その人がどう考え、判断するかは自由であると思います。
仏教者の立場からすれば、『神』は対外的なものであり、必ずしも『絶対性』を
求めるものではない事を述べておきたいと思います。

尚、今回の質問・回答において、途中から『霊性』=『神』という概念が展開される
事は、いかがなものかと感じます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


☆☆ 
絶対性:神(普遍神)・アートマン(霊我):霊性
絶対性:仏性・仏界・・・・・・・・・・・:霊性
絶対性:生命・・・・・・・・・・・・・・:霊性?

☆☆ 生命については まだ保留なのですね?

● 保留ではありません。
☆ となると 生命≠絶対性 ですか。

● 先より論議している『仏性(仏界)』については、絶対性を認めています。
☆ はい。

● しかし、生命には『仏性(仏界)』だけではなく、その他の九界も含まれ
ます。
☆ 何の問題もないはずですが? 絶対性が 相対的な世界のすべてを包む
ということは 無理なくあり得ます。

生命=仏性=絶対性 でしょう。仏性にも 全体としてのそれと 仏性が人
間において分有されるという場合の十界のひとつとしてのそれとがあります。
何の問題もありません。

十界のひとつとして仏性があるというのは 人間の人間原理による説明の仕
方です。絶対性ゆえに仏性は そういった説明の中にあたかも縮小化されて
おさめられるというにすぎません。

十界の中の一つに過ぎないというのであれば 仏性は 絶対性ではなくなり
ます。


☆☆ 再考いただきたいと存じます。

● これは、再考出来ません。
何故なら、天台仏教において、既に体系化されているからです。
☆ 全体としての《生命=仏性=絶対性》があり それは 人間の境地とし
て説明する際には 十界のひとつの界に甘んじる。という説明について再考
いただけないでしょうか?

天台智顗にしろ誰にしろ 《全体としての〈生命=仏性=絶対性〉》という
命題をじゅうぶん説いているはずです。

▲ 『一念三千法門』 
☆ 一念三千という境地の内容を 人間のその時その場の状態がふくんでお
り その中に仏性(仏界)をもふくむという説明。このとき その全体とし
ては 《生命=仏性=絶対性》であると言っていなければウソです。

人間は 有限の存在ゆえに この《全体としての仏性》をあたかも体現する
というわけには行かないのですから。人間の側からすれば 仏性を分有する。
仏性の側からすれば 世界の全体です。(世界を超えている のですが)。

人が一念三千の当体であることと 一念三千を全体として成り立たせている
仏性=生命=絶対性とは 両立します。それゆえ 十界互具なんです。

お礼日時:2020/09/08 20:48

●● (回答№3) 『仏性』〔は〕 霊性であり 絶対性のことだ


☆ と受け取ったのですが:
● 《絶対性》として、『共通』ではないでしょう。
☆ 絶対性ではあるが 《共通》という言葉が ふさわしくない・・・と
いうことでしょうか?

いや、そうではなくて、、、

>『仏性』〔は〕 霊性であり 絶対性のことだ
☆ と受け取ったのですが:


●上記は、それで良いのですよ。


>☆ ですから もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら この
普遍神には 《有る神》とそして《無い神》とが互いに同等に――呼称
の違いとして――あり得る。ということ。これを提唱しています。

●この文での、、、『もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら』
、、、で、『神』となると話は別であると言っているだけです。

ただし、No.11回答にも書きましたが、、、、

『●それは、質問者様ご自身が仮説的に体系化するという事なのでしょう。
世の中の定説として『こうだ』という事ではないのでしょう。
でしたら、質問者様がどう考えようと自由なのではないでしょうか。
ただし、私個人としてそこには賛同できないと言っているだけですから。』

となります。



>☆☆ あらたに神論=生命論として――絶対性を基礎として――仮説する
かたちなんです。

☆☆ >《生命》は 複雑で微妙でまた厄介だったんですが いまでは
〔直観としてですが〕絶対性として霊性であり神のことであると受け取っ
ています。

● それは、・・・世の中の定説として『こうだ』という事ではないので
しょう。
☆ そのとおりです。

● ただし、私個人としてそこには賛同できないと言っているだけですか
ら。
☆ ということは:
○ 《生命》は 絶対性ではない
☆ というお考えなのでしょうか?

そうではありません。

ただここでも疑問に思いますが、『○ 《生命》は 絶対性ではない』と言われると
今まで質問者様とやり取りをしてきた中で、生命の絶対性は言っていないと思います。
以前から、質問者様とのやり取りの中で『仏界、仏性』については『絶対である』と
言っています。

以前の質問においても、『仏性』についての絶対性は認めています。

**************************************************

(No.3回答)

>(あ)
如来蔵(タターガタ・ガルバ)またはブッダタ―(仏性)ないし仏界
(ブッダ・ダートゥ)は 絶対性ですか?

★ 信じるのは 自身の生命の奥底に具わる『仏性』である
☆ ということですから 霊性であり 絶対性のことだと思われます
が。


●そうです。

**************************************************

また、質問者様は『霊性』という言葉を用いられておりますが、『霊性』
という事自体、魂、あるいは精神的なものかという意味でここでは(この質問・
回答においては)了承いたしました。
本来であれば、別なものあるいは包括的なものというニュアンスも感じられますが。
それと、『生命』という一言で言ってしまう意味にも、不確定さを感じます。
それは、『生命』=『仏性』ではないからです。
どちらかというと、生命の奥底にある十種の境涯の中に仏界・仏性は含まれるから
です。
という事になると、『霊性』も仏界。仏性とはイコールではないと言えるでしょう。
どちらかというと、生命、魂、精神、念心と同じ概念かと思います。



【付録】、、、、「仏教哲学大辞典」から引用

『仏界』・・・仏の境界のこと。

『仏性』・・・仏の性分、本性のこと。
       仏果を得るための因としての一切衆生に具わっている種子のこと。
       仏とは十界の中の仏界をいい、また覚悟の義で真理を悟り真智を開くこと。
       性とは不改の義で、仏界の生命が本然的に具わっていて無死無終に存続し
       ていること、また外的影響によって変化しないこと。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


>☆ ですから もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら この
普遍神には 《有る神》とそして《無い神》とが互いに同等に――呼称
の違いとして――あり得る。ということ。これを提唱しています。

●この文での、、、『もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら』
、、、で、『神』となると話は別であると言っているだけです。
☆ そうでしょうか。《神》は 超経験で 人知を超えていて 絶対性で
ある。生命なる霊性も 絶対性である。ですから・・・。



● ただし、私個人としてそこには賛同できないと言っているだけですか
ら。』
となります。
☆ 分かりません。正直 分かりません。



>☆☆ あらたに神論=生命論として――絶対性を基礎として――仮説する
かたちなんです。

● 今まで質問者様とやり取りをしてきた中で、生命の絶対性は言っていな
いと思います。
☆ そうですか。

絶対性:神(普遍神)・アートマン(霊我):霊性
絶対性:仏性・仏界・・・・・・・・・・・:霊性
絶対性:生命・・・・・・・・・・・・・・:霊性?

☆ 生命については まだ保留なのですね?



● 『霊性』という事自体、魂、あるいは精神的なものかと・・・
☆ 次のように定義しています。
☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~
9. 感じる感性 
   考える理性(☆ =精神)
   信じる霊性?

10. 霊性は・・・考える〔理性・知性(☆ =精神)〕の対象ではない。
・・・
12. そうして 霊性とは・・・ 絶対性のことである。
~~~~



★ それは、『生命』=『仏性』ではないからです。
どちらかというと、生命の奥底にある十種の境涯の中に仏界・仏性は含まれ
るからです。
☆ 絶対性〔なる仏性〕が 何か形のある・量としてある経験的相対的なも
の――境涯――の中におさまるというのは 腑に落ちません。


十界の中に仏界があるというのは 人間という前提をおいて捉えた場合でし
ょう。人間の側から見れば 絶対性なる仏性がそなわるというのは あたか
も《分有》するといったかたちになり表現もそうなると思います。

仏性じたいは 絶対性であり 変わりないのにです。

その全体は おそらくけっきょく 《生命》であるとなるはずです。再考い
ただきたいと存じます。

つづく

お礼日時:2020/09/06 12:49

>● 『仏性』を『神』とは置き換えません。


☆ 《絶対性》として共通である・・・というところまでは確認しても
らったかと思うのですが。


●《絶対性》として、『共通』ではないでしょう。



>● 逆に、他の宗教(哲学ではなくて)で、『神』の存在を『生命(霊性)』
の中にある存在だと説いている教えは有るのでしょうか??
☆ というよりも あらたに神論=生命論として――絶対性を基礎として
――仮説するかたちなんです。

>《生命》は 複雑で微妙でまた厄介だったんですが いまでは〔直観とし
てですが〕絶対性として霊性であり神のことであると受け取っています。


●それは、質問者様ご自身が仮説的に体系化するという事なのでしょう。
世の中の定説として『こうだ』という事ではないのでしょう。
でしたら、質問者様がどう考えようと自由なのではないでしょうか。
ただし、私個人としてそこには賛同できないと言っているだけですから。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

>●● 『仏性』を『神』とは置き換えません。
☆☆ 《絶対性》として共通である・・・というところまでは確認しても
らったかと思うのですが。
●● (回答№3) 『仏性』〔は〕 霊性であり 絶対性のことだ
☆ と受け取ったのですが:
● 《絶対性》として、『共通』ではないでしょう。
☆ 絶対性ではあるが 《共通》という言葉が ふさわしくない・・・と
いうことでしょうか?





☆☆ あらたに神論=生命論として――絶対性を基礎として――仮説する
かたちなんです。

☆☆ >《生命》は 複雑で微妙でまた厄介だったんですが いまでは
〔直観としてですが〕絶対性として霊性であり神のことであると受け取っ
ています。

● それは、・・・世の中の定説として『こうだ』という事ではないので
しょう。
☆ そのとおりです。

● ただし、私個人としてそこには賛同できないと言っているだけですか
ら。
☆ ということは:
○ 《生命》は 絶対性ではない
☆ というお考えなのでしょうか? 絶対性であるなら いづれこの仮説
が 定説になります。

お礼日時:2020/09/06 10:52

>● この、哲学カテにもたくさんの質問者、回答者の方がいらっしゃい


ますが、質問者様と同様にその存在に気付いている人は、どれだけいら
っしゃるのでしょうか??
☆ ですから もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら この
普遍神には 《有る神》とそして《無い神》とが互いに同等に――呼称
の違いとして――あり得る。ということ。これを提唱しています。そう
いう気づきでよいのではないか?


●『仏性』を『神』とは置き換えません。
何故なら、仏教において『仏性』と『神』の存在を別にしているからです。
逆に、他の宗教(哲学ではなくて)で、『神』の存在を『生命(霊性)』の中に
ある存在だと説いている教えは有るのでしょうか??
有るとすれば、全ての世界宗教は覆ると思います。

また、質問者様ご存知でしょうけれど、仏教では『仏』を信仰の対象(本尊
と言います)としていますが、『神』は信仰の対象とはしていません。

この点については、仏教者としては譲れない点です。
これを許してしまえば、仏教は意義を失います。




№9つづき1


№9つづき2

 
>●しかしながら、『仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり』、、、
という意識や認識は持ちながら、そうした事に対して少なからずや探求
する事で、信は深まるものなのではないでしょうか。
☆ これはですね。微妙ですが おそらく:
● 信が深まる
☆ というよりも:
○ 信についての説明の仕方や内容が 深まる・・・
☆ のではないかと。


●そう理解されても良いと思います。


 
>●まして、『仏教』という教えは、そうした衆生生命に光を当てて、様々な
人間の抱える問題を解決するために説かれたものだからです。
☆ たぶんそれは 神論=生命論としてではなく 経験思想としての哲学
や心理学・論理学といった分野での寄与ではないかと。

信仰は 別だと。

次のご指摘も おなじようだと理解しますが。:

これをただの『宗教の話』という事ではなくて、現実の人間社会と
照らし合わせて学ぶ事も無駄ではないとは思います。


●前の回答で【十界論】について書きましたが、仏性を含む生命状態と
個々の人間の作用の関係、そしてさらに取り巻く環境までを含んで関係性
を説いたものが仏教理論です。
その人間生活に直結した教えである事から、世界に広まり実証があるのです。



※P.S 
>経験思想としての哲学や心理学・論理学といった分野での寄与ではないかと。

まあ、そこはどういった分類をされても、構わないと思いますが、、、。
実際に、哲学カテにおいても、『本当に哲学か、、、』と思われるような質疑は
多々ありますから。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


☆☆ 《無い神》
☆ これは 無我(無‐霊我:アン‐アートマン)を説いたゴータマ氏に
ついては この《無い神》を仮説しているはずです。

ゴータマ氏は タターガタ・ガルバ(如来蔵)ないしブッダタ―(仏性)
は 説いていません。ブッダ(目覚めた)とは言いましたが。

後世の人びとが アミターバ・ブッダ〔無量光(光は イデアでしょう:
阿弥陀仏〕を説きました。つまり 《有る神》です。ふたたび《アート
マン》説に戻ったのです。


● 『仏性』を『神』とは置き換えません。
☆ 《絶対性》として共通である・・・というところまでは確認しても
らったかと思うのですが。


● 何故なら、仏教において『仏性』と『神』の存在を別にしているから
です。
☆ おそらくそれは 鬼神であるとか何なに菩薩であるとかといった細か
い分類の問題であって 基本の理論として――前項でも触れましたように
――間違いは生じていないと思いますよ。


● 逆に、他の宗教(哲学ではなくて)で、『神』の存在を『生命(霊性)』
の中にある存在だと説いている教えは有るのでしょうか??
☆ というよりも あらたに神論=生命論として――絶対性を基礎として
――仮説するかたちなんです。

● 有るとすれば、全ての世界宗教は覆ると思います。
☆ 敢えて言うとすれば つまりオシへとしての――なぜならすでに人間
の言葉で表現していて経験的な思考としての思想になっているからですが
そのオシへとしての――宗教は すべて 

① 個人の信仰とは別の――集団組織としての――あゆみをして来ている
② もし仮りに信仰という基本をたもち守っているとすれば それは オ
シへをともなうからには 特殊な絶対性としての信仰になる ゆえに そ
の特殊性にとどまるか または くつがえるかする

と考えます。

《生命》は 複雑で微妙でまた厄介だったんですが いまでは〔直観とし
てですが〕絶対性として霊性であり神のことであると受け取っています。


● 仏教では『仏』を信仰の対象・・・としていますが、『神』は信仰の
対象とはしていません。
☆ これも 鬼子母神といった各論で出て来るものの所為で困っておられ
るのではないかと思います。

生命という大元の神――普遍神――があるという構えを建てます。

つづく

お礼日時:2020/09/05 16:52

>問題は そのままで――という意味は その《霊性のやどり》につい


て何も自覚しなくとも――その仏性が 発現するのか? いつ・どこ
ででも人は 難なく仏性を発揮しうるのか?


●発揮し得ます。




>わたしの勝手な結論としては:
(あ) 倫理規範を内容とするようなオシへをかかげてそれをあたか
も神の言葉(または 仏性が発現するために唱えるもの)として説教
する組織宗教は 要らない。これが ひとつ。
(なぜなら ことは 信仰――思考ないしオシへにあらず――の問題
だから)。


●仰る通り。
ただし、あくまでも個人の信仰上の話としての回答です。
実際、核心部分の話として、私の会得しているものは、組織からの教
えではないからである。自らの疑問の上に、会得したものであるから
である。



>(い) ただし その仏性具有ないし霊性のやどりは 感性や思考を
超えたところ(非思考の庭なる信仰の動態)においてチカラがあらわ
れると自覚することは 必要ではないか? です。

●当然です。
しかしながら、それを『知っている』、『認識している』人間は世界に
どれだけいるのでしょうか??
この、哲学カテにもたくさんの質問者、回答者の方がいらっしゃいますが、
質問者様と同様にその存在に気付いている人は、どれだけいらっしゃるの
でしょうか??

また、以前質問者様との質疑の中で、『九識論』や『仏性』を話す中で、
『仏性』というものは、何ものにも影響を受ける事の無いものである事
は確認できていると思います。


>おっしゃるように:
● 一切衆生 悉有仏性
☆ と言えば すでにそこから意識が生じ自覚も生まれると言ったほ
うがよいかも知れないからです。

●その通りです。



>○ 仏性が現われて仏界を湧現するのは それでは《一切衆生 悉有
仏性》という認識を持てば その認識によって実現するのか? 
☆ という問いが現われます。

●その通りです。



>○ 《仏性具有》という認識とその内容こそが 仏性なるチカラのみ
なもとなのか?
☆ おそらく そうではないでしょう。人知や認識を超えているので
すから。

●その通りです。


>仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり じつにわれわれ人間に
は その知性等の能力を超えているものであるからには 容易に認識
など出来ない相談なのですから。

●その通りです。
しかしながら、『仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり』、、、
という意識や認識は持ちながら、そうした事に対して少なからずや探求
する事で、信は深まるものなのではないでしょうか。
まして、『仏教』という教えは、そうした衆生生命に光を当てて、様々な
人間の抱える問題を解決するために説かれたものだからです。
これをただの『宗教の話』という事ではなくて、現実の人間社会と
照らし合わせて学ぶ事も無駄ではないとは思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 
> 問題は そのままで――という意味は その《霊性のやどり》に
ついて何も自覚しなくとも――・・・難なく仏性を発揮しうるのか?

● 発揮し得ます。
☆ たしかにそうでしょうね。すでにそなわっているのですから。

あるいは 発揮し得たときに それは仏性のチカラであったと事後的
に分かるだけでもよい・・・かも知れない。

分からなかったなら 分からないまま 過ぎてゆく・・・?


☆☆
>(あ) 倫理規範を内容とするようなオシへをかかげて・・・
(なぜなら ことは 信仰――思考ないしオシへにあらず――の問題
だから)。

● 仰る通り。
ただし、あくまでも個人の信仰上の話としての回答です。
実際、核心部分の話として、私の会得しているものは、組織からの教
えではないからである。自らの疑問の上に、会得したものであるから
である。
☆ ここは すばらしい自己表現であられると思います。


☆☆
>(い) ただし その仏性具有ないし霊性のやどりは 感性や思考を
超えたところ(・・・)においてチカラがあらわれると自覚することは 
必要ではないか? 

● 当然です。
しかしながら、それを『知っている』、『認識している』人間は世界に
どれだけいるのでしょうか??
☆ つまり 先ほどは 《分からないなら分からないまま 過ぎてゆく》
と見ました。

そして逆に あやまって知っている場合も 問題になるかも知れない。


● この、哲学カテにもたくさんの質問者、回答者の方がいらっしゃい
ますが、質問者様と同様にその存在に気付いている人は、どれだけいら
っしゃるのでしょうか??
☆ ですから もし霊性なる生命が 普遍神と言い換え得るなら この
普遍神には 《有る神》とそして《無い神》とが互いに同等に――呼称
の違いとして――あり得る。ということ。これを提唱しています。そう
いう気づきでよいのではないか?



● また、以前質問者様との質疑の中で、『九識論』や『仏性』を話す
中で、『仏性』というものは、何ものにも影響を受ける事の無いもので
ある事は確認できていると思います。
☆ そのとおりに思います。《ひとり満ち足りている存在(チカラ)》
なりと。

つづく

お礼日時:2020/09/05 13:33

>霊性なりブッダタ―(仏性)が人なるわれにやどるとき 仏性とわが人


間性とは:
● 一体であり
☆ と言えると思いますが でもその一体性というのは 《絶対性と相
対存在なるわれ》との一体性ですから:
● 不二である
☆ というのは 条件つきで言わなければいけないのではないでしょう
か?


>すなわち:
○ 《絶対(無限)と相対(有限)とが――絶対なる霊性のハタラキに
よって―― 一体である》とき 《その実現した状態としては あたかも
両者が〈不二〉である》
☆ というふうにです。つまり 《実現した状態としては(≒成仏した
ときには〔?〕》と《あたかも》というふたつの条件です。いかがでし
ょう?


『仏性』というものは、等しく衆生生命の中に初めから具わっているものです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


● 『仏性』というものは、等しく衆生生命の中に初めから具わって
いるものです。
☆ ええ。アートマンも そのほかの神の霊(ルーアハ;プネウマ;
アニマ;スピリトゥス・・・)も およそ同じように《生まれつきの
自然本性に そなわっている》と言われます。

問題は そのままで――という意味は その《霊性のやどり》につい
て何も自覚しなくとも――その仏性が 発現するのか? いつ・どこ
ででも人は 難なく仏性を発揮しうるのか? です。



わたしの勝手な結論としては:
(あ) 倫理規範を内容とするようなオシへをかかげてそれをあたか
も神の言葉(または 仏性が発現するために唱えるもの)として説教
する組織宗教は 要らない。これが ひとつ。
(なぜなら ことは 信仰――思考ないしオシへにあらず――の問題
だから)。

(い) ただし その仏性具有ないし霊性のやどりは 感性や思考を
超えたところ(非思考の庭なる信仰の動態)においてチカラがあらわ
れると自覚することは 必要ではないか? です。




☆ ただし これだけでは 説得力がないかも知れません。

おっしゃるように:
● 一切衆生 悉有仏性
☆ と言えば すでにそこから意識が生じ自覚も生まれると言ったほ
うがよいかも知れないからです。


問題は そこで こうなります。

○ 仏性が現われて仏界を湧現するのは それでは《一切衆生 悉有
仏性》という認識を持てば その認識によって実現するのか? 
☆ という問いが現われます。

○ 《仏性具有》という認識とその内容こそが 仏性なるチカラのみ
なもとなのか?
☆ おそらく そうではないでしょう。人知や認識を超えているので
すから。

仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり じつにわれわれ人間に
は その知性等の能力を超えているものであるからには 容易に認識
など出来ない相談なのですから。



☆ おそらくこの《信仰》論は 結着がつかないということではなく
――なぜなら どこかでヒラメキがはたらくと考えられるからですが
つまり――たしかに互いの了解に到るとは思うのですが なにしろ或
る意味で雲をつかむような話をしているのですから つかみどころが
少なく議論には なじまないところがあるかと思われます。

ぼちぼちまいりましょうか。

お礼日時:2020/09/05 09:57

それは一体であり、不二である。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


● それは一体であり、不二である。
☆ つまり:
○ 《自身の生命の奥底に具わる『仏性』》もしくは同じことで《霊性・
絶対性》 と 自己 とが ですか?

霊性なりブッダタ―(仏性)が人なるわれにやどるとき 仏性とわが人
間性とは:
● 一体であり
☆ と言えると思いますが でもその一体性というのは 《絶対性と相
対存在なるわれ》との一体性ですから:
● 不二である
☆ というのは 条件つきで言わなければいけないのではないでしょう
か?


すなわち:
○ 《絶対(無限)と相対(有限)とが――絶対なる霊性のハタラキに
よって―― 一体である》とき 《その実現した状態としては あたかも
両者が〈不二〉である》
☆ というふうにです。つまり 《実現した状態としては(≒成仏した
ときには〔?〕》と《あたかも》というふたつの条件です。いかがでし
ょう?

お礼日時:2020/09/04 20:25

>生命なる霊性のほうから、自己にやってくるということだと思います。



ここで言うところの、『生命なる霊性』とは何を指していますか??

また、『自己』とは何を指していますか??
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


● ここで言うところの、『生命なる霊性』とは何を指していますか??
☆ 次のごとく確認してもらった《自身の生命の奥底に具わる『仏性』》
もしくは同じことで《霊性・絶対性》のことです。

☆☆ (№3お礼欄) ~~~~~~~~

 ☆☆ (あ)
 ブッダタ―(仏性)ないし仏界(ブッダ・ダートゥ)は 絶対性です
 か?

 ●● (回答№2) 信じるのは 自身の生命の奥底に具わる『仏性』
 である
 ☆ ということですから 霊性であり 絶対性のことだと思われます
 が。

 ●● (回答№3) そうです。
 ☆ はい。はっきりしました。
~~~~~~~~~~~~





● また、『自己』とは何を指していますか??
☆ これは 単純に言ったほうがよいと思います。

自分のことを指して《わたし》と自称する人のことです。その《わたし》
です。

お礼日時:2020/09/04 20:02

質問者様仰っている事は、『信仰』という事ではなくて、『縁』を言っている。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


核心をつくコメントを表わしましたので 回答者さんは みとめることの
むつかしいかと思われます。

前回と同じコメントを繰り返すことになります。



《霊性なるナゾの何ものかが あたかも心の窓をノックする》と言いまし
たが これは あくまで比喩です。

要は 《万法すすみて 自己を修証する》というごとく 生命なる霊性の
ほうから 自己にやってくるということだと思います。

ですから そのことは 人間どうしの偶然・必然をふくむ出会いのような:
● 縁
☆ の問題ではないんです。相手が ナゾなるものですから。


議論には なじまないところがあるでしょうから かんたんに進めて行け
るとも たしかに思えないようではあります。


疑問とするところがありましたら お尋ねください。出来るところはみな
お応えします。

お礼日時:2020/09/03 21:26

>信仰が成るということについては 何ものかのほうから人間はあたえ


られる・・・ということではないかと。 

●信仰が成る、、、入信(入会)をする、もしくは自身の信に値するものが見つかる、、、という意味ですか??
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

● 信仰が成る、、、入信(入会)をする、
☆ 信仰と宗教(オシへ)――特に組織宗教(なぜなら オシへのほかに
人為的な権限体系としてのヒエラルキアに従わなければならない)――と
は 似ても似つかない別のものです。

信仰は 自由です。自由とは 信仰のことです。



● もしくは自身の信に値するものが見つかる、、、という意味ですか??
☆ この定義は あいまいですね。

信仰が成るには ふたつの側面(段階)があります。



《非知》なるナゾの何ものか――生命――のほうからやって来て 比喩と
してたとえばわが心の窓をノックする。

そしてわれは このノックに応じて そのいまだに何であるかが分からな
いナゾの生命(霊性)を 無条件で無根拠にてわが心に受け容れる。


後段は たしかに《受け容れる》というのは わが――人間としての――
意志行為です。

けれども 前段は 純粋に《あちら側からのハタラキカケ》であり:
▲ 万法すすみて自己を修証する
☆ ことを意味します。

その窓をたたく音を 迎え入れて 言わば領収証を発行する・・・これが
が 信仰が成ることです。





つまり――なぜ先ほどの定義があいまいかと言いますと―― たとえわが
心に受け容れるとしても それが 《思考》において:
● 自身の信に値する
☆ といったかたちで《判断》を成したがゆえにではないからです。

非思考の庭と 信仰を言いかえたのは 思考にあらず・つまり思考を超え
ているからです。


そうでなければ 信じるところの生命(霊性)を すでに人間としてのわ
れが その知能において《知っている》ことになります。相対存在なる人
間が 絶対性なる生命を知っている――あたかも打ち出の小槌のごとく利
用することができる――という恰好になります。

日蓮は 傲慢です。

お礼日時:2020/09/03 13:23

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