1. 感じるや考えるをもあわせて それぞれの対象を捉えるなら:
2. 感じるのは 世界におけるそれとして現象するモノ・コトである。
3. 考えるのは:
① 感じて得たモノ・コト――これらは イメージをふくめてすでに言葉≒概
念と成っている――であり
② さらにそれらを 感覚の対象であることから離してあたかも考える(想像)
だけでこしらえた言葉ないし観念である。
3-1. 天・人・馬は 感性によって捉えたモノ・コトであり 考えるため
の言葉≒概念である。
3-2. ところが ペガサスやケンタウロスは すでに言葉であるが感性に
直接かかわりのない・つまり頭の中にのみある観念である。世界に現象してい
ない想像の産物である。
4. では 信じるのは 何か? 信じるとは どういうことか?
5. 天馬や人馬なる観念としての存在(事象)を 信じるのか?
6. そうではない。それは 天・人・馬を知覚していて・したがってそれら
を信じると規定するのはふさわしくないのと同様に 天馬や人馬についても
信じるのではなく 考える(想像をめぐらす)のである。
7. 天は 目に見える空を超えたところを想像し そのように自然を捉える
感性を超えているだけではなく 理性(思考)をも超えているその場ないし或
る種のチカラだと仮定した場合 その《天》を ひとは信じるのか?
7-1. 天は人の上に人を作らず 人の下に人をつくらず というふうに言
って。
8. その超越的な天のチカラをあたかも体現した人を想定したときこの《ひ
と》を われわれは信じるのだろうか?
8-1. 良心・信教の自由は 必ずしも証明できるものではないが公理のご
とく つよい基本原則であって たとえば誰かがわれは現人神なりと言った場
合 われわれはこれを否定も肯定も出来ない。
9. 感じる感性 考える理性 そして――推測としてみちびくだけであるが
―― 信じる霊性・・・ということになるか?
10. 霊性は 想像の産物であることを超えている。考える(理性・知性)
の対象ではない。
11. ――というふうに・なぜなら 《仮定や想定》がこの思考過程には闖
入して来ている ゆえにその想定じょう―― 考えることができる。か?
*
12. そうして 霊性とは――議論抜きになるが―― 絶対性のことである。
13. 絶対性は 信じる霊性について――それは すでに考えるところの善
悪を超えているが――その属性をわれわれ人間がわざわざ憶測し忖度して 善
悪の彼岸たる至高善(スムム・ボヌム)または絶対善として規定したものであ
る。
14. 想定じょうの仮説理論からみちびいた概念――絶対善――を むやみ
に経験哲学なる思考において振りかざし振り回しても――霊性は 考えるを超
えているからには―― 無理でありムダであり まったくの徒労に終わる。と
いうことは 火を見るより明らかではないのか?
A 回答 (23件中21~23件)
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No.3
- 回答日時:
No.2です。
>(あ)
如来蔵(タターガタ・ガルバ)またはブッダタ―(仏性)ないし仏界
(ブッダ・ダートゥ)は 絶対性ですか?
★ 信じるのは 自身の生命の奥底に具わる『仏性』である
☆ ということですから 霊性であり 絶対性のことだと思われます
が。
●そうです。
(い)
★ 行学により、信は深まる。
☆ 《信ないし信仰――非思考の庭なる動態――》が一たん成ったと
きには その状態が《深まる》と主観において感じるのは わたしの
理解では いろんなキッカケがあると見ます。また 人それぞれであ
り 同じ一人の人間にあっても いろんなキッカケがあり得ると捉え
ます。
つまり たとえ《行学》が無くてもという意味です。
★ 信は行学より生じる。
☆ これは 一概に決まっていないと見ます。というより むしろ信
じるというコトが成るのは 絶対なるブッダタ―(あるいは アート
マン)のほうからのハタラキカケによる。と捉えます。
つまり 人間の能力や努力を超えて 信があたえられるという意味で
す。
絶対性を 相対存在なる人間がいかにチカラを尽くしても どうにか
することが出来るというのは あり得ないと考えます。
ここが 根本的に見解を互いに異にするところだと思います。
●信ずる、、、という事にも、浅深があるという事です。
レベル的な事です。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ (あ)
ブッダタ―(仏性)ないし仏(ブッダ・ダートゥ)は 絶対性ですか?
★ 信じるのは 自身の生命の奥底に具わる『仏性』である
☆ ということですから 霊性であり 絶対性のことだと思われます
が。
● そうです。
☆ はい。はっきりしました。
(い) ~~~~~~~~~~~~~~
★ 行学により、信は深まる。
☆ 《信ないし信仰――非思考の庭なる動態――》が一たん成ったと
きには その状態が《深まる》と主観において感じるのは わたしの
理解では いろんなキッカケがあると見ます。また 人それぞれであ
り 同じ一人の人間にあっても いろんなキッカケがあり得ると捉え
ます。
つまり たとえ《行学》が無くてもという意味です。
★ 信は行学より生じる。
☆ これは 一概に決まっていないと見ます。というより むしろ信
じるというコトが成るのは 絶対なるブッダタ―(あるいは アート
マン)のほうからのハタラキカケによる。と捉えます。
つまり 人間の能力や努力を超えて 信があたえられるという意味で
す。
絶対性を 相対存在なる人間がいかにチカラを尽くしても どうにか
することが出来るというのは あり得ないと考えます。
ここが 根本的に見解を互いに異にするところだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
● 信ずる、、、という事にも、浅深があるという事です。
レベル的な事です。
☆ そうですね。ここは――わたしの側の仮説理論としては――はっ
きりしているところです。
つまり《信じる》について それが成ることと そして深まることと
は 分けて捉えることが出来ます。
● 浅深があるという事
☆ は 信仰がみづからの内で成立したあとのことだという見方です。
信仰が成るということについては 何ものかのほうから人間はあたえ
られる・・・ということではないかと。
お手数ですが もう一度だけこの点について あらためてのご見解を
しめしてくださいますか?
No.2
- 回答日時:
>信じるのは 何か?
自身の生命の奥底に具わる『仏性』である。
【参考資料】
【十界】
・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。⇒以上、四悪種
・人 界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天 界・・・喜びの境涯。⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁楽界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。⇒声聞、縁楽二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏 界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。
この十種の境涯が、一つも欠けることなく人(衆生)の生命に具わっている事を『十界互倶』と言います。
そして、何かの縁に触れる事によって、瞬間瞬間にその境涯が変化していくのです。
その生命の奥底にある十種の境涯が、意識や言葉、表情や態度や動作にそのまま表れてくるのです。
そしてそうした事が関係して、自身の生活環境や地域社会を形成しているのです。
>信じるとは どういうことか?
信は行学より生じる。
行学により、信は深まる。
ご回答をありがとうございます。
二点 質問ないし批判をもってコメントします。
(あ)
如来蔵(タターガタ・ガルバ)またはブッダタ―(仏性)ないし仏界
(ブッダ・ダートゥ)は 絶対性ですか?
★ 信じるのは 自身の生命の奥底に具わる『仏性』である
☆ ということですから 霊性であり 絶対性のことだと思われます
が。
(い)
★ 行学により、信は深まる。
☆ 《信ないし信仰――非思考の庭なる動態――》が一たん成ったと
きには その状態が《深まる》と主観において感じるのは わたしの
理解では いろんなキッカケがあると見ます。また 人それぞれであ
り 同じ一人の人間にあっても いろんなキッカケがあり得ると捉え
ます。
つまり たとえ《行学》が無くてもという意味です。
★ 信は行学より生じる。
☆ これは 一概に決まっていないと見ます。というより むしろ信
じるというコトが成るのは 絶対なるブッダタ―(あるいは アート
マン)のほうからのハタラキカケによる。と捉えます。
つまり 人間の能力や努力を超えて 信があたえられるという意味で
す。
絶対性を 相対存在なる人間がいかにチカラを尽くしても どうにか
することが出来るというのは あり得ないと考えます。
ここが 根本的に見解を互いに異にするところだと思います。
参考:
▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~
自然といふは
自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず
然といふは しからしむといふことばなり。
しからしむといふは行者のはからひにあらず
如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
* 爾(に・じ):しかり。そうである。
▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~
自己を運びて万法を修証するを迷とす。
万法進みて自己を修証するは悟りなり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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№9つづき1
● 一切衆生 悉有仏性
☆ と言えば すでにそこから意識が生じ自覚も生まれると言ったほ
うがよいかも知れないからです。
●その通りです。
☆ 確認しました。
そして つづく二件のやり取りをも確認しつつ割愛しますが 三つ目
に行きます。
☆☆
>仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり じつにわれわれ人間
には その知性等の能力を超えているものであるからには 容易に認
識など出来ない相談なのですから。
●その通りです。
☆ 総論として 確認できました。
つづく
№9つづき2
●
しかしながら、『仏性は 絶対性であり霊性ないし生命であり』、、、
という意識や認識は持ちながら、そうした事に対して少なからずや探求
する事で、信は深まるものなのではないでしょうか。
☆ これはですね。微妙ですが おそらく:
● 信が深まる
☆ というよりも:
○ 信についての説明の仕方や内容が 深まる・・・
☆ のではないかと。
●
まして、『仏教』という教えは、そうした衆生生命に光を当てて、様々な
人間の抱える問題を解決するために説かれたものだからです。
☆ たぶんそれは 神論=生命論としてではなく 経験思想としての哲学
や心理学・論理学といった分野での寄与ではないかと。
信仰は 別だと。
次のご指摘も おなじようだと理解しますが。:
●
これをただの『宗教の話』という事ではなくて、現実の人間社会と
照らし合わせて学ぶ事も無駄ではないとは思います。
№10つづき
いっそのこと そういった具体的な細かいハタラキのような神々は 基本
としての霊性なる生命また普遍神の 分身 として捉えておけばよいと考
えます。
● この点については、仏教者としては譲れない点です。
これを許してしまえば、仏教は意義を失います。
☆ ですから 不都合は生じないと思いますよ。
● 信が深まる
☆ というよりも:
○ 信についての説明の仕方や内容が 深まる・・・
● そう理解されても良いと思います。
☆ ありがとうございます。
● 【十界論】:仏性を含む生命状態と個々の人間の作用の関係、そして
さらに取り巻く環境までを含んで関係性を説いたものが仏教理論
☆☆ 経験思想としての哲学や心理学・論理学といった分野での寄与では
ないかと。
● まあ、そこはどういった分類をされても、構わないと思いますが、、、。
☆ これも ありがとうございます。
№12つづき
● という事になると、『霊性』も仏界。仏性とはイコールではないと言え
るでしょう。
☆ 絶対性ではない・・・のですか?
● 【付録】:『仏界』『仏性』
☆ すでに説明しましたように 人間の側から捉える場合には どうしても
人間にとって都合のよい見方をするものです。哲学でも自然科学でもです。
人間原理と言います。
仏性は アートマンと同じく絶対性であるのに 人間の境涯の中におさまっ
ているというふうに図式化すると あたかも部分的な小さなものであるかの
ように見えて来てしまいます。
ですが 絶対性であるゆえに そのような縮小化にも 自由自在にその見方
や説明の仕方に応じて あたかも姿形を変えているかのようであるというこ
とです。
仏性も霊性も そして生命も 絶対性であり 絶対性であると言うならそれ
は 神なのです。
№18つづき
ゴータマは 要するに アン‐アートマン(無我)をかかげた。(アンは アン‐イ
ンストールのアン)。つまり 霊性の無ないし無い神。シューニャター(空)ない
しニルワーナ(涅槃)。
ところが 後世において 人びとは けっきょくアートマン(霊我)を復活させた。
タターガタ・ガルバ(如来蔵)またはブッダタ―(仏性)と呼び名を替えて。
ブラフマン神に対して アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)ないしマハ―ワイロ―チャ
ナ・タターガタ(大日如来:毘盧遮那仏)を当てる。
このような事情において 神は――絶対性として・霊性として――つらぬかれている
と見ます。アン‐アートマンと呼んだ《〈無い神〉という神》としてもです。