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歴史に詳しい人に質問します。今でもたまに私は◯◯の隠し子だ!みたいな人がいますが歴史上ですでに研究者などに認められてる(多分そうだった)という日本史世界史問わずそういう人物はいるでしょうか。例えば◯◯は明らかに母が独身だったり身分が低いのに◯◯将軍や◯◯王になったときに出世してる(能力がなかったりするのに)や◯◯は全然身分が低い子なのに実子に準ずる扱いを受けている、当時の文献をみていると世間一般に隠し子として認定されてるみたいな例のことです。私は世界史を選択で習っているのですがたまにそういう例をみたので他にもないか質問させて頂きます。

A 回答 (2件)

保科正之は隠し子で有名ですね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2020/09/07 18:53

日本史で有名なのは、吉宗のご落胤と称した、天一坊事件 が有名ですが、これは当時の幕府の調査で嘘とされ天一坊は処刑されています。



この事件の発端ともなった徳川吉宗ですが、紀伊徳川家の徳川光貞の四男として生まれて、その母親は、光貞の世話係(湯殿番)でしかなく、吉宗は隠し子的な存在でした。
光貞の男子のうち次男は早世しており、吉宗は3男とも数えられています。

光貞が1697年に江戸の紀州藩邸で5代将軍の綱吉に謁見した際、兄二人は正式に綱吉に謁見して大名に取立てられました。
光貞の長女が綱吉に嫁いでおり、紀伊藩邸に綱吉が来訪する切っ掛けになっています。
吉宗はこの時、次室に控えていたのですが、老中のとりなしで、ついでの形で綱吉に謁見してもらえることになり、兄二人と共に大名に取立てられました。
吉宗の”吉”は、紀伊藩主に就任時に綱吉から賜ったものです。

光貞は1698年まで紀伊藩主を勤め、その後を長男綱教に譲りますが、1705年に綱教が死去し、3兄弟の父、光貞も直ぐに死去します。
その後は、三男の頼職が紀伊藩主の座を次ぎますが、この時、三男の綱職は江戸から急いで紀伊に帰った為体調を悪化させて、やはり同年中に、死去してしまいます。
幼少時に吉宗が預けられた家が、藩の諜報活動をする家柄だったらしいという話もあり、同年中に3人が亡くなった事に疑問を持つ歴史家はいます。

この時点で、隠し子的な存在だった吉宗は紀伊藩の藩主となり、もし、徳川本家に何かあれば将軍職を継ぐ権利を持ったことになります。
徳川御三家のうち、家格から、尾張、紀伊、水戸(は財政が逼迫して将軍職どころでは無かったらしい…) と、吉宗は御三家の No.2まで出世しました。

この後、1716年の8代将軍就任することになりますが、この時、尾張藩との駆け引きが色々あったりしています。
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この回答へのお礼

初めて知りました。ありがとうございます。

お礼日時:2020/09/07 18:53

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