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織田信長を殺した後、織田信長の長男が助けを求めた二条殿(親王の屋敷)を武装した大軍で取り囲み、二条殿を戦場に選び親王を屋敷内から歩かせて叩き出した明智光秀。
この親王とは、生前織田信長が尽くしていた天皇の子。

明智光秀にとって自分の出世に利用出来る権力者(主君)ではなかったため、親王に対してこのような無礼が働けたのでしょうか?
その利用してきた権力者(主君)というのも、織田信長を殺したことで、自分が一番の権力を持ったと勘違いし、自分が神になったかのように錯覚してしまったから、天皇への畏れもなくなってしまったのではないでしょうか?
明智光秀としては、一緒に殺してしまってもどちらでもよかったのではないでしょうか?

親王は自害した方がよいかと明智光秀に文を送るが、明智光秀は無視をしています。
助け出す気配もありません。
見かねた、織田の家臣が明智光秀と交渉し、親王の命だけは助けると約束をとりつけ、解放された。

もとから、明智光秀に尊王思想はなかったんでしょうね。

なにか明智光秀は生い立ちに問題でもあるのではないでしょうか?
出自不明の下賤の民から、非道な行為で主君のものを横取りしたまさに、戦国時代最大の下克上。
だからこそ主君殺しの明智光秀は、安土城で乱取りに走れたし、尊王思想もなかったのではないか?

A 回答 (1件)

室町~戦国時代は、天皇・朝廷が経済的にも最も落ちぶれていた時代だ。


それでも天皇朝廷には権威があった。学の有った武家は勿論、学の浅い武家さえ、朝廷から官位を貰えるのであれば喜んで大金を払っていた。

おそらく、戦国大名の中で、そういった天皇の権威の謎を考え込んだのは、信長くらいではないだろうか。できれば自分も天皇のような権威を持つためにはどうしたら良いか必死に考え抜いていただろう。
その意味で、信長は戦国最強の尊王思想研究科だっただろう。

合理的な信長にとっては、一向宗徒が何故死を恐れずに本願寺の言うことに従うのかも大いなる謎だったに違いない。

安土城には天皇と仏教に関する施設があった。
本丸御殿は、天皇が居住する清涼殿に似ており、摠見寺という結構な規模の大寺もあった。この寺は一般人の白の入り口にあり、お参りしてから城内に入る仕組みになっていた。
信長は、天皇と本能寺座主の権威を併せ持った法皇的存在を目指し、日本一の武力と権威を合わせ持とうとしていたのではないか。それが彼の尊王思想と仏教研究の結論だったのではないか。

光秀は、極々普通に天皇や宗教に敬意を持った普通の日本人でしかなかったのだろう。しかし、頭脳明晰な光秀のことだ。信長の信じがたい野望を察知し恐怖したことが謀反のキッカケではなかったかという推測も成り立ちそうだ。
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