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「我思う故に我在り」について、我は何処に在るのですか?

A 回答 (11件中1~10件)

我の中に在る。

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<我の中に在る。>ですね。
他者にも社会にも関係は無い、と言って良いですね。

お礼日時:2020/10/15 08:47

1. デカルトは 脳の真ん中あたりにある松果腺が 精神の座であると考えたようである。



1-1. 例の心身二元論として 両者がその松果腺において相互作用するのだとか。これは ほぼ退けられているようです。

▲ (ヰキぺ:実体二元論)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93 …



2. 《われ思う》においてわれの存在が確認しうるのは われによるみづからの意識であると考えられます。

2-1. 現実存在ないし実存という・言わばそのつど自己の置かれた情況にあって一回性の意志行為をなしつつ生きる姿 これが――ただし 決して究極の存在であるとは言い難く――示唆されている。と捉えられる。

2-2. ただし 《われ思う または われ疑う》ことが われの究極の存在であるという保証はどこにもない。思考ないし精神が うつろいゆかないとは限らない。



3. デカルトは このコギト命題を発表したとき まわりから《それは すでに千二百年も前にアウグスティヌスが〈自己の確証〉として〈われあやまつならば(欺かれるならば) われあり。Si fallor, sum. 〉と言っているよ》と批判されて 答え返したところでは この《思考する実体 res cogitans 》は 《非物質的・非形態的なもの(――霊性――)》のことだと言いました。
(『デカルト全書簡集』たしか第四巻におさめられる書簡)。

3-1. つまり あたかもアートマン(霊我)と言うがごとくであると見られます。

3-2. 《思考する実体 res cogitans 》というよりは ヒラメキの問題だと考えられます。

3-3. ただし 急場をしのぐための言い逃れで言った・・・のかも知れません。
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この回答へのお礼

d早速の御回答ありがとうございます。
私は哲学の素養がないせいで、ご回答が難しすぎます。
1. <《われ思う または われ疑う》ことが われの究極の存在であるという保証はどこにもない。>
2.われ思う・・・は、そもそも<急場をしのぐための言い逃れ>かもしれないのですね。

お礼日時:2020/10/17 18:07

思ってもおらんよ。

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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2020/10/15 17:01

この宇宙、この地球上に《存在する》、という事でしょう。



でも、当人がそうした自覚を持っていたとは思えません。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがというございます。
我を思うと、我は<この宇宙、この地球上に《存在する》>ことが分かった、ということですね。

お礼日時:2020/10/15 17:01

「我」は「物理的な存在=身体」として「私」ではなくて「主体としての私=自我」であることからそれはある精神的な傾向を有する脳作用あり脳機能の調和を図る脳作用です


それは脳全体に係ることから特定の部位(脳神経細胞群)にそれが現れるわけではありません
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<特定の部位(脳神経細胞群)にそれが現れるわけではありません<>ですね。
我という意識は、大脳のある局所ではなく、大脳全体が司どっている、ということですね。

お礼日時:2020/10/17 15:50

我思う故に我あり



自己を見つめ直して
精神的な何かを探ろうとする働きは
あるはずで

【働き】
この働きだけは【我・自己】だとは認識出来るはずで

見つめ直してる対象や見つめようとしてる意識などは

【意識がつくりあげてる虚像であって】

単純に【働き】だけは、虚像が関与出来ないので

その働きを、具現化したら
手で触るような、手に例えたり
目で見るみたい、目で例えたりすると

意識が具現化した虚像に成り下がってしまうので

【働き】だけとしか表現できないみたいです


動詞なのか?形容詞なのか?
伝えにくいけど

こんな感じですよ~

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

早速の御解答ありがとうございます。
<見つめ直してる対象や見つめようとしてる意識などは
【意識がつくりあげてる虚像であって】>なのですね。
<【働き】だけとしか表現できないみたいです>ですね。
難しいですね。  ¿(・w・)?

お礼日時:2020/10/17 16:05

どこにもない


ただのくだらない幻想です。
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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2020/10/17 15:51

「存在」に対する問いですね。

例えば、心臓の病で貴方の心臓が機能しなくなってしまったので取り出して、その間、貴方は人工心臓で生きているとしましょう。それでも貴方は覚醒していて意識があり「自我」があるでしょう。そうすると「心臓」に自我が「存在」していたのでは無いと言う結論になるでしょう。誰か他人の心臓を移植しても貴方の自我は変わらないでしょう。普通、一般的に考えて「自我」は、その自我を持つ本人の「脳」の中に「存在」していると考えられます。
「存在」は、「ある/在る/有る」と言う事です。その「証明」は難しいですね。貴方が自分の「自我」は在ると感じているので「我は在る」と主張しても証明するのは困難です。誰が「それは妄想に過ぎず貴方の自我などと言うものは存在しない。」と主張すればどうします? どうやって貴方は貴方の自我が存在している事を証明しますか? 相手に対して「貴方は私では無いから、私でも無い貴方がどうして私の事が解るのか?」と問い返せば相手も返答できないでしよう。日本人で初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士で有名な「知魚楽」の話を思い出します。何かが存在している事は存在している実例をひとつだけ示せれば、それで証明は完了しますが、「存在していない」事を証明しょうとすると森羅万象全てについて「存在していない実例」を挙げる必要があり、事実上、そんな事は不可能になります。
だからと言って、ひとつだけで良いので「我の自我」が存在している事を万人が認める形で実例を示して「証明」しようとしても、相手が頑なに「それは貴方の自我では無い、妄想に過ぎない。」と言って来るなら、それを否定するのもまた非常に困難なのではないでしょうか?
さて、こんな議論/押し問答を延々と続けても仕方がありません。社会的には互いに相手には自分と同じ様に相手の自我が存在しているとの前提で接しています。相手の自我を否定する事は、相手も私の自我を否定する事を認める事になるので、そんな不毛な失礼な事は行わない方が社会的にぎくしゃくしないで済みます。
「存在」について考えてみました。「時間」が無い、つまり、時刻も瞬間も無い、時間の幅がゼロだったら「何」も存在できない。すなわち「無(む)」なのではないでしょうか? 「空間」が無い、つまり、点も線も面積も体積も無い、広がりが一切無かったら「何」も存在できない。すなわち「無(む)」なのではないでしょうか? 
「時間」だけがあって、「空間」が無い宇宙とは、「無(む)」でしかないでしょう。
そもそも、「空間」も無いのにどこを「時間」は流れるのでしょうか。
「空間」だけがあって、「時間」が無い宇宙とは、「無(む)」でしかないでしょう。「空間」が存在する為の時間的な幅がゼロでは、「空間」が存在しているとは言えないでしょう。
この様に考えると、「存在」は、「時間」と「空間」の双方が必須で不可欠である。「存在」は、「時間」と「空間」のどちらか一方が欠けても成立しない。との結論になります。我々が存在しているこの宇宙は、「時間」と「空間」の双方があるので、「存在」しているのです。
この宇宙は存在していない。妄想に過ぎないと言う人も居ますが、では、妄想であると言う「証拠」を示せと言えば、その人も証拠を示すのは困難でしょう。我々は、我々の周囲に空や宇宙が広がっている事を感じる事が出来ますし、地球や月や太陽や夜空の星や銀河を観測する事が出来ます。川の流れや天体の運動に時間を感じる事も出来ます。我々が存在しているこの宇宙が約138億年前にビッグバンを起こして今も加速膨張している事を観測できるのです。下記のブログの前の約2/3で宇宙塔マスドライバーの話、後の約1/3で時間/空間/時空/宇宙/存在/創成/起源/神/宇宙生命/進化など諸々について考察しています。是非、御覧下さい。http://blog.livedoor.jp/satou_hiroshi_4649/archi …
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
1.<一般的に考えて「自我」は、その自我を持つ本人の「脳」の中に「存在」していると考えられます。>ですね。
2.とは言え<その「証明」は難しいですね。貴方が自分の「自我」は在ると感じているので「我は在る」と主張しても証明するのは困難です>ですね。
3.<社会的には互いに相手には自分と同じ様に相手の自我が存在しているとの前提で接しています。>ですね。
引用文ばかりになりました。口も手も差し込めません。

お礼日時:2020/10/18 17:19

脳を司っているのは脳です


「我想う故に我あり」
これは脳が脳自身に対する問いかけであり、それ即ち「脳作用」の現れです 
もう少し具体的に言うと脳神経細胞の総数は1000億〜2000億と見積もられています
脳神経細胞も細胞であることから脳神経細胞それ自体が生命体なのです
それぞれに関わっている脳神経細胞群が互い連携してそれぞれに関わっている事柄を適切に処理しているのです
それぞれ連携している脳神経細胞群を包括的に連携することで関わる全ての事柄を適切に処理されているです
よって「包括的に連携・処理(脳作用)する」ことが脳作用にとって最も重要な事です
この全ての脳神経細胞群の働きを「包括的に連携させる脳作用」が自我なのです
よって自我(我)とは脳作用そのものです
自我(我)=包括的に連携させる脳作用となります
それぞれに関わる脳作用群による脳作用が互い調和を図る事で「包括的な連携」が生まれるのです
その意味において自我が特定された脳作用ではありませんし、自我が脳を司っているわけでもありません
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この回答へのお礼

御解答阿智がようございましす。
<我(我)とは脳作用そのものです
自我(我)=包括的に連携させる脳作用となります>ということですね。

お礼日時:2020/10/19 17:11

よかったー、



此の レベルか、
殺人鬼 量産に、
至らなくて よかったよ。


はい、

お答えしましょう。


抑も、

場所は 特定外なので、
問い 自体が、
不成立。


∴A.解不能。(偽装回)
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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2020/10/22 18:56

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