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神は 不可知ではないのです。

世界のものごとは 認識するにあたって 知り得るものである《可知(これはまた 既知と未知に二分されますね)》とそして知り得ないと証明されたものである《不可知》とに分かれます。

人知つまり認識を超えたところのナゾである神については 可知でないばかりか 不可知でもないんです。

人間の知性を超えているのですが 神は 《知り得ないと証明されたもの(不可知)》でもないんです。

神は 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか》だとなります。

このナゾは 認識にとっては《非知》と言います。




早い話が 《われ 神を見たり》とか《わたしゃ 神の声を聞いたよ》とか言ったばあい そのことを証明できないのですが それだけではなく その発言の内容を否定しきることも――人間には――不可能です。

不可知ではなく 非知だからです。知り得るのではないのですが 知り得ないのでもない。このふたつのことが 同時に成り立っています。




ということは 一人の人間としてのわれにとっては 神についてそのイメージなり理論なりを――およそ自由に――えがいてもよいとなります。

ただしそれは その主観の内側でのみ成り立つということです。他人(ひと)に話しても――話をするのは 表現の自由にもとづき いいのですが―― その内容が伝わるかどうかは 何とも言えません。

《知り得た》と思っても――そこまではいいのですが―― じつはそのことと同時に一般に《知り得ない》という側面も成り立つのでなくては 神ではないのです。


ぎゃくに 《神はいない》という発言はどうか? これも その主観として・その内部においてだけは 自由であり自分がそう思っていても だいじょうぶなわけです。つまり 《神はいるんだ》という別の発言が 同時に 成り立つということをわきまえていれば いいわけです。


《知り得るか知り得ないか それが 知り得ない》という非知の定義をまもっていれば どんな内容の神観でも 自由であり〔主観真実として〕いだいていてもよいとなります。



――このように 出来るだけ一般的なことを議論するのは 〔元はわたしの主観としての神観ですが〕 一般性がある内容であればそれは 神論として・つまり哲学としてみとめられるものと思います。

なお 信仰として神観を整理して神学を築く場合もあります。〔主観真実としての神観。それを――主観真実をのこして――或る程度理論的に整理したものは 信仰(神観)の延長として神学を築きます。経験合理性にもとづく理論(仮説)は 哲学として神論を形成します〕。



☆ 以上についてご見解をうかがいます。

A 回答 (8件)

放っておいてください。

わたしの好きなようにします」←毎回放っておいてるが?

そして 回答者も 好きな様に回答してるだけ・・

立場は同じなのだから 「放っておいてください。わたしの好きなようにします」は 回答者も そう・・

あなたが不要なら 無視すればイイだけの事


ネットに書かれたものは 全人類のもの・・

あなただけの質問では無いのだから・・
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追記・・誰に問うか?・・が 重要



顔も知らない第三者に問うたって あなたは 自分の信じてきた事を変えないでしょ?

尊敬する人から言われたら 信じる事が 出来るでしょ?


何故 其処を理解出来ずに 何時までも 質問 するのだろー?
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この回答へのお礼

哲学あるいは学問を知らない者のことばです。

お礼日時:2020/11/26 19:47

わたしは あなたが《見えるのが神》だと言うので 《どこに見えますか?》と問い返したのです。



《見えないと言ったり》はしていません」←だから 此処での質問を辞めれば?

此処は 質問者のあなたの頭の中の世界

そんな ちっぽけな世界に留まっているから見えない

あなたって 此処が くだらない遊びサイトだと 何時 気付くの?
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この回答へのお礼

放っておいてください。わたしの好きなようにします。

お礼日時:2020/11/26 19:46

見えるのが神


☆ って? どこに見えますか?」←?


見えてるのに 知らないから 見えてない様に思える

あなたが 見えて無いって言うのなら あなたは 見る力が無いだけ・・

まっ 何にしても こんな場所で 他人に聞く様では・・? くらいです・・

そろそろ 質問を するのを辞めてみれば?

そうすれば 神は見えてくる筈・・

見えないのでは無く 見ない努力を あなたが してるだけなので・・
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この回答へのお礼

★ 見えてるのに 知らないから 見えてない様に思える
☆ いいえ。《見えているか見えていないかが 分からない》のです。


★ あなたが 見えて無いって言うのなら あなたは 見る力が無いだけ・・
☆ わたしは あなたが《見えるのが神》だと言うので 《どこに見えますか?》と問い返したのです。

《見えないと言ったり》はしていません。

お礼日時:2020/11/26 15:04

つまり真理は神のみぞ知るということで

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


示された主題は ドンピシャの問い求めとは違いますが すぐ隣りに控えている問題です。


《有る神》派にあっては その神についていろいろ――自由のゆるすかぎり――忖度します。

神とは 人間の知性にかかわる相対的な真偽ではなくそれを超えたところの真理をその属性とする――といったかたちです。


神は 真理であり それは人知を超えているからには:
★ 真理は神のみぞ知る
☆ となります。


ただし この言い回しは そういうことではなく 人間の意志行為が互いに関係して織り成す社会的なものごとについての ①事実認識の当否としての真偽や ②その事柄のよしあしとしての真偽を 人間は往々にして知り得ないことがある。それは 神のみぞ知るというかたちで扱う。――ということでしょうね。

お礼日時:2020/11/26 10:48

この地球だと、人間がいなければ神はいません


神は人の心の中にいる
従ってこの長々とした文章は無価値です
「人がいなければ神はいないとどうして言えるんだ、証明して見ろ」
と言うのなら、精神異常者を相手にする気などありません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ この地球だと、人間がいなければ神はいません
☆ そうでしょうか?


★ 神は人の心の中にいる
☆ 場合もあれば 《おれの心には神などいるもんか》という場合も 同時に あります。よ。

どちらも 一方的に否定され得ませんが 同じく一方的に肯定され証明されるということもあり得ません。どちらも 互いにみとめなくてはならない。

★ 従ってこの長々とした文章は無価値です
☆ 上の議論だけによっても 有価値でしょう。


★  「人がいなければ神はいないとどうして言えるんだ、証明して見ろ」
と言うのなら、精神異常者を相手にする気などありません
☆ もう少し寛容になって 何とか無知な相手には 説明してやろうか とでも一度思ってみてください。

お礼日時:2020/11/26 09:46

可哀想に・・としか言えない



神って 勉強しないと分からないものなのかな?

可知だ不可知だ非知だ理論だ・・なんて勉強しなくても見えるのが神

だから 高度成長を遂げる前の歴史から伝われてきたのです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 見えるのが神
☆ って? どこに見えますか?

主観の内面における真実として 《われは神を見たり》という神観は 自由であり それとしてみとめられる・・・という立ち場ですが。

お礼日時:2020/11/26 09:42

好奇心で質問させてください。



信仰に目覚めたきっかけは何でしょうか?

そして、神を知る方法として聖書、コーランなどを読むということがあるかと思います。
ただ、いくら、それらを読み祈っても沈黙を続ける神を信仰するメリットって何でしょうか?
それともメリットうんぬんではなく、純粋な信仰心なのでしょうか?
あるいは西洋哲学を真に理解するためでしょうか?

愚かな質問で申し訳ありませんが、もし、よろしければご教授くださいませ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 好奇心で質問させてください。
☆ はい。

★ 信仰に目覚めたきっかけは何でしょうか?
☆ 神の理論を知らずにという場合で言えば 人事を尽くして天命を俟つといったことわざを身に帯びたときだとかとして顧みることができるのではないでしょうか。

この神だと――神とはこういう神だと――思ったのは アウグスティヌスの『三位一体論』を読んだときです。

文体は いわゆる護教論ふうが交じりますが 論理もつらぬかれ気品もただよっており 信じることができると感じました。

その後は この信じることがあたえられたのだと理解するようになりました。

きっかけは ですから 天から降って来たのだと思います。



★ そして、神を知る方法として聖書、コーランなどを読むということがあるかと思います。
ただ、いくら、それらを読み祈っても沈黙を続ける神を信仰するメリットって何でしょうか?
☆ 論理を取り上げるなら 《悪は 善の損傷でありその欠けであって・またそういう現象であって 悪という独立したものがあるわけではない》という命題が 信をつよめました。

アブラハムは 仕事や生活や体調やなりがよいときも・あしきときも それに立ち向かうことができるというチカラを確立したそうです。

言ってみれば 神はひとをえこひいきすると思われる節がありますが 有限で相対的な人間の真偽や善悪や知性のよしあしを超えて生きる力の源泉なのでしょう。



★ それともメリットうんぬんではなく、純粋な信仰心なのでしょうか?
☆ メリット・デメリットあるいは幸不幸をまづはそのまま認識するようにという信仰のチカラなのでしょう。



★ あるいは西洋哲学を真に理解するためでしょうか?
☆ ブディズムから移ったときには そういうねらいでした。


★ 愚かな質問で申し訳ありませんが、もし、よろしければご教授くださいませ。
☆ とんでもないです。舌足らずについて ご容赦をお願いします。(字数制限ゆえ)。

お礼日時:2020/11/26 05:45

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