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1. または 唯物論と唯心論とは 同じひとつの信仰が見せるふたつの貌であるはずだ。

2. 経験事象を モノかココロかに分けて認識し思考しているとき それぞれを抽象化しさらには 非思考の超経験へと純粋化し揚げて行ったかたちだ。どちらも。

3. 神をそれぞれ 《物質》か《世界精神》かに分けて呼んでいるに過ぎない。

世界:経験世界(事象)――(概念思考)・・・・・・・→非思考(超経験;神)
_________________________________________
モノ:内容(コンテンツ)――質料(マタ-;ヒュレ)・・→第一質料=物質(マタ-)
心 :形式(フォルム)―――形相(フォルム;エイドス)→第一形相=世界精神



4. つまりは モノの究極が 物質(第一質料)であり それがすでに神という概念に当たる。
しかも ココロの究極が 世界精神(第一形相)であり やはりこれが 神という概念に当たる。

5. 唯物論を無神論と呼ぶのは けっきょく対極の唯心論を有神論としてあつかうのと同じことになる。

6. 唯物論も唯心論も ともに広い意味の観念哲学としてそれぞれの世界観を構築した。ともに 非思考の場において兄弟のようなものだと見ます。どうでしょう? 

7. 信仰でない無神論=唯物論は あるか?

A 回答 (4件)

模写説というのがあって、人の認識は外界にある実在を忠実に模写したものと説明する。

たとえるならピンホールカメラのようなものである。これなら、「物自体」などという超自然・超経験的なしろものを要さずに、認識が可能になる。今風に言えば、センサー付きのコンピューターが物を認識するようなことである。
エンゲルスがある有機物を例に挙げていた(アリザニン)。その昔、有機物は生物の体内でしか作れないと思われていたが、今は科学的に合成できる。認識や思考についても同様と考えられる。
ただし、それだけでは機械的唯物論になってしまうので、マルクス・エンゲルスらの弁証法的唯物論は前述の模写説に加えて「実践」を導入した。人は認識したことの真理性を、実践を通して証明できると説く。
ということで、ご質問の答は弁証法的唯物論である。ずいぶんベタな答えだが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 物自体
☆ は やっかいな概念だと思います。
▲ (ヰキぺ:物自体) ~~~
1 概要
物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。
~~~
☆ 《認識できない》または《知り得ないと証明された》場合は 不可知なんです。

証明しえたという要因にもとづき不可知は 経験事象に属します。したがって物自体は 《人の主観に依存しない》かも知れないが 《因果律に従うことがない》とは 言えない。

ちなみに 超自然・超経験なる場ないしチカラは 《非知》です。《知り得るか知り得ないかが知り得ない incomprehensible incomprehensibility 》。

つまり 物自体なる仮説に従うことは出来ない。




★ 模写説というのがあって、人の認識は外界にある実在を忠実に模写したものと説明する。
☆ ややこしい説だと思います。世界を知覚するとき なるほど人の身体(感性)が 世界を映す鏡のようにはたらくかも知れない。ただし その鏡の映像を 取り出すことはむつかしい。感性だけによる知覚とそれを概念で認識しようとする広義の知覚とは 別だと考えられるから。

つまり:
★ 忠実に模写
☆ した像が あるかどうか分からないし あってそれが 知覚され認識にまわったのだとしても その分析は むつかしい。ふつうは 知覚+認識(主観バイアス)で世界を捉えていると考えられる。


★ ただし、それだけでは機械的唯物論になってしまうので、マルクス・エンゲルスらの弁証法的唯物論は前述の模写説に加えて「実践」を導入した。人は認識したことの真理性を、実践を通して証明できると説く。
☆ 《認識したとおりに実践したら うまく行った》というような証明でしょうか?

認識というより 人びとによるさまざまな意見があってそれらをめぐり取捨選択が成され 実践に移される。としたら 実践が初めの模写説の証明になるかどうかも分からない・・・のでは?


☆ 釈然としないんですが それよりもまづ 《物質》を言ったなら 形而上学に入っているはずだし 実は考えるではなく 無条件に受け容れる(つまり 信じる)の問題に入っているはずだと思うんですがねぇ。

物質からその自己運動というように 経験事象へとつなげて来るかも知れないんですが。

お礼日時:2021/01/06 22:27

論理の根本が想定した言葉であること


だからあなたの論理はあなたのものでしかないのです
他者に押し付けようとする行為自体無意味です
論理学の不完全性を学びなさい!
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この回答へのお礼

いいえ。想定ないし仮説法(アブダクション)――仮説演繹法と言ったりもしていますね――です。

超自然・超経験なる場ないしチカラについては 演繹法も帰納法も無理です。

想定した内容が じっさいの世界事実に合っているなら ひとまづ妥当であるとされます。


科学の方法です。しっかりと学んでね。

お礼日時:2021/01/04 08:30

あらゆることはいかようにも論ずることが可能だ


だから大切なのは 自分という奇跡の謎を
どのように解き明かして明日を生きるかの
一点のみなのだ!
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この回答へのお礼

そんなことはありません。――ご回答をありがとうございます。


生き方や自己表現が まったく自由であることに間違いありません。

ところが その自己表現は 答責性を帯びます。ここは どういう意味か? その推論はまちがっていないか? と問われたら 説明をもって答えなくてはいけません。

したがって 表現内容は――自分の思想は―― しっかりと理論立てたものでなくてはなりません。

哲学をあなどってはいけません。

お礼日時:2021/01/04 08:02

唯物論と唯心論とは 宇宙の根源、森羅万象の根源がなにかということにつきます。



唯心論では人間が把握できない超自然的なもの(神、精神)に求めるのに対し、唯物論ではそれを物質にもとめるというものです。

ですから超自然的、人智の及ぶところではない神に対しての信仰はありうるでしょうが、物質に対する信仰などありませんよ。

ですので唯物論の信仰はありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 唯物論と唯心論とは 宇宙の根源、森羅万象の根源がなにかということにつきます。
☆ ええ。そうですよね。


★ 唯心論では人間が把握できない超自然的なもの(神、精神)に求めるのに対し、唯物論ではそれを物質にもとめるというものです。
☆ いいえ。根源としては どちらも同じ内容を求めています。《超自然・超経験》です。

モノないし質料は 目に見える経験事物ですが 究極の物質は 感性や知性を超えているものです。

超自然的なものを 唯心論が神・世界精神と呼ぶところを 物質と呼ぶという表現の違いにしか過ぎません。つまり 物質も 神のことなんです。



★ ですから超自然的、人智の及ぶところではない神に対しての信仰はありうるでしょうが、物質に対する信仰などありませんよ。
☆ とは なりませんよ。


★ ですので唯物論の信仰はありません。
☆ ぢゃあ 《物質》を経験事物だというのでしたら それを見せてください。見えるものは みな 質料です。(むろん かたちあるものでも 《物質》と呼ぶという慣行はありますが げんみつには 話が別です)。

お礼日時:2021/01/04 05:31

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