No.6ベストアンサー
- 回答日時:
本来の釈尊の教えは、衆生(人間)の生命と自分自身の周囲に起きる事の因果関係を説いたもので、本来は正しい法を受持し、自分自身の生命境涯を高めるため教えを説いたのです。
法華経寿量品には、釈尊自身が今世において成道(仏に成る)したのではなくて、久遠の過去世に仏になったことが記されています。そして、法華経には、仏になるための『法』の存在が書かれています。
もっとも、当時の仏道修行者の最終的な目標としては、この『仏』に成るために修行を積んでいたのです。今では、考えられないとは思いますが、それは事実として残っています。そして、法華経の中で釈尊は多くの弟子に対して、未来において仏になる事を予言しています。これを受記と言います。
要するに、大事なのは自らの生命状態であり、その事を説いているのです。
また、釈尊在世の時を『正法』といい、釈尊滅後仏像や仏閣が建造される時代を『像法』、そして釈尊滅後、釈尊の法の効力が失われる時代を『末法』と言います。しかし、末法を向かえると、釈尊が法華経において地涌の菩薩に託した『法』を持って世の中に現れ、その法を広めます。
その『法』こそが、『南無妙法蓮華経』なのです。
ですから、単に身である釈尊や、仏像を崇拝する事や本尊とすることは間違いだと言う事です。これを厳しく戒めているのです。
No.9
- 回答日時:
> ブッダは死の間際弟子たちに、自分の教えが尊いのであって私自身はどうでもよく、仏像?など作るな、私を崇めるな、みたいなニュアンスのことを言ったそうですが
シャカムニが紀元前5世紀よりも前に死亡するときに、弟子達に言った言葉の中には、そのようなニュアンスの言葉は、ないでしょう。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/42_buddh …
第一回結集~第四回結集(紀元前1世紀)でも、そのような言葉は伝えられてはいないようです。
4世紀以降に中国語で書かれたものに、次のようなニュアンスのものがあります。
例①『十誦律』巻48(漢訳5世紀):仏身像の如きは応に作るべからず。願わくば、佛の我(給孤独長者)に菩薩侍像を作ることを聴したまわば善からん
例②『増一阿含経』巻21(漢訳4世紀後半):如来の身は造作すべからず、諸天の及ぶ所にあらざればなり
例③パーリ本『長部経典』巻1「梵網経」73 5世紀末の偽作:如来の体が存続している間は、天人も人もそれを見る。身体が滅んで命が終わった後、天人も人も見ることはない
なお、実際には、紀元前6、5世紀頃以降、数百年にわたり、インドでは仏像、狭義のシャカやブッダの肖像は造られた形跡はないようです。 なお、ゾロアスター教は偶像否定で、バラモン教も神デーヴァ(deva)の姿を人間になぞらえても造形化することはなかったので、このインドや中近東では、肖像、偶像、尊像を造るっていうことが、そもそもなかったのでしょう。 時代は下りますが、イスラム教でも尊像、偶像を造って、その像を礼拝するのは禁止です。 キリスト教でも、イエスやマリアの像や図像が出現するのは4世紀頃からです。
自分の教えが尊いとか、教えを守れ、先人や優れた指導者を礼拝しろ、寄付や布施をだせというようなことは、結構言っていたし、そのような行為を勧めることはあっても、禁止したりはしていないです。
今の時代だと、写真や絵画、像で、自分をアピールすることも多いし、自分の先輩や先祖、宗祖のような人の写真や絵画、像を飾り礼拝するのも、ごくよく見かけるスタイルの一つですが、2世紀以前だと、エジプトなどを別にすると、像を造って礼拝するという発想そのものが、なかったと思います。
孔子も紀元前5世紀の人物ですが、孔子像のようなものは、長い間造られてはいないようです。
> これってブッダに対する裏切り行為なのではないでしょうか?
地域によって事情は違うのでしょうが、絵でも図でも像でも、具体的に人物像を造ってそれを礼拝の対象にしようというのは、4世紀以降に顕著です。
「具体的に教えを熟慮・考察し、教えに照らして自分の行動や生活を律する」というのは、そういう行動やセルフコントロールに優れた資質を持つ人にしかできにくいものです。 多くの人は、セルフコントロールと熟慮と努力を継続するよりも、「礼拝して功徳だけをが欲しい」というものでしょう。 「教えや戒律の内容など知らなくても良い、礼拝して祈れば良い、時々布施をして、懺悔するので、それで良い」という「信仰・自分以外のもの(他力)に身を任せことによって救われる」という発想の方が好まれるのでしょう。
そういう意味では、「おまえは長い間わたしにつかえてくれた。わたしが教えた法が、わたし亡きあとよき師になるだろう。勤め励むのだ。怠らずらず、精進に励みなさい」というような教えは拒否するのですから、方向は真逆です。
しかし、「教えに従います。精進します」と応じたことはないのですから、裏切ってはいないでしょう。
釈迦の教えとは異なる、大乗仏教とか日本仏教のようなものを選択して信仰しているのでしょう。
No.8
- 回答日時:
法と人と
[問]
そもそも法を頼るのか人を頼るのか。
[答]
俺が悟った時など人も法も頼りにしなかった。
法を頼って、人に頼らないのは、やはり偏見である。
人を頼って、法に頼らないのも同じである。
さらにいう、もしも体気があれば、人にも法にも騙されずに済む。
根性、というものだ。
どうしてかというと、知恵を第一とするから、人や法に騙される。
もしある人を押し立てて正しいと考えるなら、その人にいかれてしまうのは必定である。
仏を勝利者だと考えるのも、いかれずには済まない。
どうしてかというと、自分のいる場所を見失って、その人を頼る信仰心が先となるためである。
さらにいう、愚人は、仏を人中の勝利者と考え、涅槃を法中の成果だと考える。
もう人と法にいかれてしまっている。
もし法性と実際は、我々の知と不知に関係しない真理であると考え、自性は生滅しないと考えるなら、これもまた自らいかれている。
-----
邪師の指導に禍されて、一生を台無しにする事を、禅宗史は常に戒める。
宗密にも臨済にも、そうした言葉が随所に見える。
邪師の批判を深めると、仏の批判に行き着く。
もちろん仏についてまわる修行者の側の問題である。
(仏を殺し祖を殺し諸小児を罵辱し三蔵経を排斥して初めて自由を得る)と、臨済は痛罵する。
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