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カルマというものはどう磨いてもなくならないものなのでしょうか。

お釈迦様やブッダも、カルマは残っているが、解脱して涅槃へ行けたということなんでしょうか。

全てのカルマを落とさない限り解脱や涅槃に行くことは不可能だということなんでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • カルマがある限り、解脱し涅槃に行くことは不可能なのか否か。よろしくお願いします。

      補足日時:2022/06/04 17:21

A 回答 (6件)

課留魔・架瑠摩なら


そうかもしれません。
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「カルマ」についての一般的な共通理解は、次のようなものです。



カルマ(梵: कर्मन् karman)は、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語です。カルマの元々の意味は、単なる行為(action)という意味であり、良いも悪いも、ネガティブ、罪というような暗いニュアンスもない。
善のカルマまたは悪のカルマをすれば、因果関係で、それ相応に楽しい・楽である、または苦しい・辛いという結果が出ると説明されることが多い。
仏教では、{偶然そうなった・神や仏がこうした・物理法則や自然現象でこうなった・政府や敵国やアイツのせいでこんなことになった・感染症の流行で病気になった・アイツが信号無視して私が怪我したという発想は間違いであって、自分自身がした行為・所作・意志による身心の活動・生活態度・精勤や怠惰・他人や世間に対する行為や行動・発言などの結果で起きたものである}と説明します。 で、仮に、「私は悪いことなどしてない」という場合でも、"輪廻転生"で「前世のカルマからの因果」という説明になります。 宝くじや投資で大儲けするのも、身体か健康でもてたり、才能に溢れて楽しく過ごせるのも、「前世のカルマからの因果か今の世でのカルマの因果」という説明になります。

カルマの法則は、自分のやったことで結果が生じるというだけのことです。
「カルマを消す・カルマをなくす」などということはできっこないことです。

「カルマを落とす」というのは、たぶん言葉の省略形の用法です。 「運に見放された」というのは「幸運に恵まれなくなった」の省略形の用法で、「カルマを落とす」というのは「悪いことはやめ、善いことを心がける。 悪いことをしてしまったら、次はそうしないようにする。そうやって自分が悪いことをしないようにしていく」の省略形の用法です。

「全てのカルマを落とす」 意味不明です。
今後は悪いことはしないことが徹底できたとしても、良いことはしてしまうのであれば、すべてのカルマを落とす・無くすことにはならないです。
カルマは「因果」の「因」となる行為のことなので、「果」があるってことはもっと前に「因」があったということです。 その「因」となる行為などは、昨日か先月か3年前か、前世か、前々世のことかは、分かりません。 
輪廻転生なので、基本は、涅槃にはならないのです。

解脱しなくても、煩悩を抱え、多くの罪業を重ねてきても、死ぬときに弥陀の本願に帰依すれば、涅槃を私どもは得させてもらうと親鸞は教えているという宗派もあります。
https://jodo-shinshu.info/category/shoshinge/sho …
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カルマは 乗り超えることができると思います。



過去のおこないといった意味内容なんですから。あるいは 習慣ないしクセといった身についた或る種のチカラで 思いや意志にさからって作用する場合に あしきカルマがはたらくということかも。


そのよしあしに関しては ウソ・イツハリの問題であるかと考えます。

けれども ウソによって生じた心の欠けが 自己が自己に還ることの出来たときに 埋め合わせられます。

もともとの自然本性たるわれに立ち戻ることが出来るのですから。

それが 自然治癒による〔しかない〕のだと見ます。


            *


問題は 解脱あるいは涅槃という概念――そのように提起された命題――とは何かにあると考えられます。


涅槃は もともとは息を止めた状態で――欲望から離れて――生きることといった具体的な切実な問題であるらしい。ヨーガの修行によって得られるかも知れないような。

解脱で考えるなら これは 苦(ドゥッカ)からの解放です。

この思うようにならない苦は 無明であり煩悩でありまた 人間の根本的な生存欲だとも言われます。

そして 要するにゴータマ・ブッダは 《この上なくとうといさとりの智慧》は――それを得たと宣言しておきながら 晩年の法華経で弟子のシャーリプトラからその説明をもとめられても明らかにしなかったからには ついぞ このさとりは――あきらかではなく 二千年有余さだかではありません。

四諦八正道などが説かれていますが みんな外形的なさとりです。《ただしいことを思いおこなえ》と言うのみです。

よって さとりとは何かが明らかにされるまで 放っておきます。
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なほらない心の傷はない と受け取っています。



その種の癒しは つねに自然治癒です。


カルマも めぐみ( gratia =只(無料))によってなほります。

せいぜい ほくろや しみ・そばかすなどの母斑として残るかも分かりませんが。
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カルマ、即ち『業(ごう)』というものを、何か悪いものだと誤解していないですかね。



もし、誤解しているのであれば、その時点で間違いですよ。

『業(ごう)』には、善業・悪業とありますので、特に気にしなくても良いですよ。ハードディスクみたいなものですから、全ての事が刻み込まれるだけですから。また、それがあるから悟れないと言う事でもありませんし、今現在においていえば、個の人間が悟ってもどうしようもないのです。
どういう事かと言えば、釈尊は悟ったから仏陀となったのであって、その教え、または『法』は厳然と世の中に在り、あとはそれを信じれば良いだけなのです。

簡単に譬えて言えば。電気屋さんでテレビを買ってきて、自宅にセットすればテレビ番組が受信できる、見ることができるという事と同じです。
テレビは、発明されて電気屋さんで売られているのです。
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なにかの宗教に入っているんですか?


あまり深く信じて行動すると、結果的に生きている間に楽しい人生送れませんよ。
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