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yahooの辞書で調べてみると
「仏語。前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。」
他の辞書でも似たようなものでした。

なぜ前世の責任を負わなければならないのか?俺には意味が分かりません。もし責任を負う必要があるのならばなぜ前世の記憶はなくなってしまうのでしょう??
記憶が無く、責任は残る。こんなことを信じる人の気持ちが分かりません。

また、「悪の行為」とは、所詮人の決めた身勝手な「悪の定義」ですよね?
牛は殺しても良いが人は殺してはいけない。
虫は殺しても良いがペットは殺してはいけない。等。

それでは人を殺したクマは来世ではとんでもない苦労をすることになる?ものを盗ったサルも?
「悪」と言う定義は人間が勝手に作った定義であり、所詮人間の手に及ぶ範囲にしか及ぼさない者のはずです。
それが「因果応報」と言う人間の手には及ばないものに対してまで作用するものと言うのはありえないと思います。(人間の手に負えない理由は、前世が誰だかわかる人が居ない、仮に分かったとしてもそれを裁く法律は無い)

仏教と言うすごく古い教え、今でもたくさんの人が信じている。
それにしては何かしょぼい気がします。UFO(宇宙人)、つちのこ、雪男の方が全然現実的です。
仏教の修行をしたわけではないし、真理を知っているわけでもないので「本当の因果応報」とはもっと別なものなのかも知れませんが。

なんなんでしょうか?この因果応報、前世の観念。
ただの「教え」だから、真実かどうか分からないにしてもお粗末だと思います。
こんなことを教えている人の気持ちも知りたいし、こんなことを言っている人から教えられて信じている人にも聞きたいです。

矛盾は感じませんか?なぜこんな教えを信じるんですか?

A 回答 (30件中1~10件)

No.9です。

ふらりと訪れてみて、回答者の多さに驚きました。それだけ、因果応報には様々な解釈ができる、ということなのでしょうか。

さて、人が生きてゆくには、何かと拠り所が必要だと思われます。それは宗教であったり、目標であったり、理想や地位や金銭などであったりするわけです。

ここで重要なのは、上記のような拠り所は、敵対する対象が存在しなければ、自分の生きる目標が消えてしまう、ということです。
因果応報は、自分の目標に敵対し続ける物を維持するために作られた一つの手段・方法です。現世でなすべき課題という、自分に挑戦して来る問題を作り出し、これを克服すること。
その課題を克服することを生き甲斐にすることで、生きる拠り所を持ち続けることができます。社会に生ずる様々な問題を指摘して、因果応報の考え方を当てはめることで、改めて問題提起をし、自身の考え方・拠り所の正しさを再確認する、それによって安心するわけです。

因果応報に限らず、この世界には一人で生きる寂しさや悲しさから目を逸らすために、さまざまな方法が開発されてきました。それらの方法に頼るのも、一つの生き方ではあります。
でも、大切なことは、既成の方法に頼らずに自分の勘を頼りにしっかりと生きてゆく覚悟を決めることかもしれません。なぜなら、人生を生きるのはその人であって、他の人が指定したり制約したりするものではないからです。

生きる拠り所が、家族や友人との語らいであれば、平和になるんじゃないか、と思う今日この頃です。
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 私も以前から質問者さまと同じような疑問をもっております。

以下は私の今のところ考えうる回答です。

 心理学(交流分析)では「世代間連鎖(または世代間伝達)」というものがあります。これは親の悪習(不幸の原因)が子供に代々引き継がれていくというものです。親から虐待された子供は、自分が親になったら子供を虐待してしまう。アル中のお父さんに育てられた娘さんは、なぜかアル中の男性をご主人に選んでしまう。また、親が勤労意欲がなく、働かない貧しい家庭の子供の場合、大人になってやはり怠け者になり、貧乏から脱出できない。

 一方で仏教では「眷族(けんぞく)」という考え方があります。親子、兄弟などは縁で結ばれており、生まれ変わってもやはりこの眷族どうしで家族を作るそうです。

 そうすると、今親が悪い生活習慣を持っていると、それが子に引き継がれます。そして、親が死んだ場合、その子の子供(親から見たら孫)に生まれる可能性が高く、そして祖父母からの悪い生活習慣を引き継ぐことになります。

 因果応報というのは、この悪しき世代間連鎖を指しているのではないでしょうか?

 ちなみに、なぜ眷族が生まれ変わってもまた集まるのかは良く分かりません。やはり、霊的状態が近しい人間が集まるということでしょうか。また、例えばいくら金持ちや知的エリートの家に生まれたくても(金持ちやエリートの眷族に入る?)、心の状態が以前のままではその体に入れないのでしょうか? 

 疑問はつきません。でも、こんなところでいかがでしょうか?
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確かに前世の悪行のつぐないをさせられること(前世の因縁)は有ると思うが、そんなことはどうでもよく、今をどう真面目に生きるかで現世も来世もさらには子孫の代を輝かせる事ができる。

悪い事をした熊やサルとありましたが、人間は人間にしか生まれ変わらず、動物も動物にしか生まれ変わりません。前世のことはあきらめて、来世のためによい行ない(因)を蒔き、来世や子孫の代をより良いものにしましょう(果)。これが因果です。^^良い事をすれば、良い事が回り回って自分もしくわ自分の大事な人に必ず返ってきます。悪い事をすれば悪い事で返ってくるという教えです。
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キリスト教教徒です。



キリスト教には前世がありません。
人間は地球に生きるチャンスは1回だけです。
ですから、この唯一チャンスを大切にして楽に生活することが必要になります。

悪いことをすれば、将来神様の審判が来て、あなたは神様とって、正義か罪だらけか。。。

でも因果応報という事は、聖書を読むと、多少情報があります。

生きる時悪い事をやった人の物語を読むと、死ぬ前悪い結果になった方が多いと感じます。


以上、ご参考ください。よろしく。
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すごい量の書き込みですね、質問者さんもお礼が大変かと思います。



因果応報の件ですがこれは人間が社会をまとめる為に発明した“ツール”ですから今で言う法律、宗教、道徳ですね。
当時の無知な大衆を統制するには現代のような法律を作っても文字を読める人はごく一部。まして時代や立場統治者などが変われば法律もその都度変わる。
これでは社会がうまく機能しません。

因果応報の考えは時代、統治者、国、などどんな条件下でも通用する素晴らしいツールです、大発明ですね。万能ナイフのような物です。
つまりその時々の社会を平穏に収める非常に合理的な教えなのです。

但し致命的な欠点が有ります、現代のような科学の時代に証明できるか?と聞かれた場合勿論出来ません。科学の検証にはとても耐えられる物では有りません。
従ってこの教えは幼少時知恵が付く前に刷り込めれば幼児体験となってその人の人格を形成できるわけで、後々道徳的な人間が育ちやすいでしょう。

事実かどうか?と問われれば勿論事実では有りませんが人間社会には有益な教えかと思います。勿論悪用されない範囲で。
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No.8への質問者様からのお礼中の疑問に対する回答



>因果応報の法則はその人自身の現在の善悪の基準によって働く
と言うことは、山賊、海賊、盗賊等のイメージの環境に生まれた人は”仕事=悪いこと”であるが、本人に悪いことをしたという意識が無ければ悪の行為は返ってこない。
と言うことですか。< について

この例えを考えて見ますと、
山賊、海賊、盗賊同士の世界においては、ちゃんと掟が存在します。
仲間うちでは、互いに奪ってはならない掟、犯してはならない掟があると思います。
その掟は、先進国の法律ほど、普遍的な確固たるものではありませんが、絶対的なおかしら(長)を頂点とした厳しい決まりがあると思います。
それが無ければ、賊としてのまとまりが無くなり、上手く互いに協力して仕事をすることが出来なくなってしまいます。
まとまりの無くなった集団はあっという間に敵に滅ぼされてしまうでしょう。

彼らの特徴は、掟が仲間内だけのきまりであることであり、仲間以外の人間は略奪の対象でしかないということです。

つまり、自分さえよければ良いという、自己中心的な集団なのです。部外者には、微塵も慈悲を感じない、残虐な集団です。

彼らは視野が狭いともいえます。
彼らの世界とは、部族だけであり、それ以外の他者に対しては、相手の身になって考えることが出来ないのです。

こういう場合、この視野の狭さゆえに、法則によって、視野の狭いということ(他者の身になって考えられないということ)はどういうことか・・・を体感出来ることをひきつけます。
つまり、自分が行っている無慈悲な行為を逆に自分が受けなければならなくなります。

その辛さ、苦しみから自分の行為がどういうものだったかを体験し、その残虐さを理解するようになり、次第に相手の身になって考えられる様になるのです。
今生においてその逆の体験をしなければ、来世において体験することになります。
死後、自分の足りなさを実感し、自ら過酷な環境を選ぶかもしれません。(霊的に向上したい為に)

そして、霊性が向上していきます。

(他の質問者様の疑問)
>そのゲームに関するテクニックや、癖(前世の性格)は残るでしょう。
これはゲームの記録が消えても記憶が残っているからですよね。
人に例えれば、輪廻により大人から赤ちゃんに生まれ変わっても記憶が残っている状態ではないでしょうか?
ちょっと分からないです。< について

(回答)
このことについては既に述べていますが、霊としては、勿論その記憶を持っています。
しかし、鈍重な振動数の肉体に繋がれてしまうと、霊性も鈍り、記憶が脳の中には留められなくなります。

霊的には覚えていても、肉体の脳にその記憶がないので、はっきり思い出すことが出来ません。
でも、潜在意識には残っており、何かの時には影響を与えるかもしれません。

以前にも書きましたが、前世の記憶を残している人は意外と沢山いるようです。

最近、「宗教的輪廻転生の概念の無い、ヨーロッパの子どもたちの、前世の記憶の、科学的検証の研究」に人生をかけている科学者の著書が発売されていますので、URLを貼ります。

宜しければ、参考にしてください。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4531081 …
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 意識は、どれだけ遠い過去であっても、昨日と言う同じ観念の世界として捕らえてる節があるんじゃないかなぁという考えを、前回述べてみました。


 辞書に書かれていたような前世、別人としての生があるかどうか、私にははかりかねますが、それがもしあったとして、その存在が明らかになったときは、何千年前のことも、昨日のことのように思い出されるんじゃないかと、そう思ったんです。
また来世として、何百年後の転生があったとしても、それは明日のことのように思われるのではないかなと。
 一部は全体を宿すと言う世界観があるのですが、それによって輪廻転生も、遠まわしながら説明できるかなと思いました。今と言う瞬間が、時の全てを宿しているのではないだろうか、そういう示唆を、提示したかったのです。
 難しいと言うか、分かりにくい表現で申し訳なく思います。自分が楽しいように書いてしまいました。察していただいたように、昨日が前世、今日が現世、明日が来世に対応するという意味で、前回は書きました。
 幾多の世界観を庭の飛び石のようにして、(ケンケンパですか)、身軽にジャンプしていたいなぁとおもいます。たまには。

 余談になるかもしれませんが、卵から芋虫になり、さなぎになって蝶になる、別に蛾でもいいですが、昆虫の変態に、転生のイメージの片鱗を感じることがあります。
 何故変身するのか、私は変身するか、考えてみたときに、変身において、善悪観念がどういう役割を持っているのか、ある推測を立てることができますので、述べてみます。
 芋虫の場合は、ひたすら葉っぱを食べていたのが、ある日全く食べなくなり、動きもしなくなります。そしてさなぎになります。食べると言う欲求がいつまでも働いていれば、彼はいつまでも動き回っており、芋虫はさなぎになれません。芋虫の中で、なにかしら、行動原理に変化がもたらされたから、食べることを止めた芋虫は、さなぎへと変態したのではないでしょうか。
 欲求を捨て、善を求めることは、芋虫がさなぎになるような行動原理の変化の起こるきっかけに当たるんじゃないかと推測します。これは私の仏教解釈ですが、そのようにも考えられると思います。また、善を求めることで、自然に欲が剥がれ落ちていくと捉えてもいいのではないでしょうか。
 善だけが行動原理に変化をもたらすきっかけ足りえるのか、わたしにはわかりませんし、そうではないだろうと思っています。善の希求がどのようにもたらされるのか、自発的なのか、隕石のように突然降ってくるのか、時節に感応してか、はっきり述べられません。それに、変身のみが真理に近づくことであるのかわかりませんし、真理が只一つの目的であるのか、断定できません。ですが、たまたまか、シッダールタは、善を求めて旅に出た。と現代に伝わっています。少なくともそれが、彼の変身(転生)の始まりの一要因だったのではないでしょうか。
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No.15へのお礼の中の疑問に対する回答の補足です



(質問者様の疑問)
また、法律は知らなかったではすまされませんよね? 知らずに(悪意がなく)やってもそれによって罰が与えられる。
あなたの言う「因果応報」ならば、罰則、罰金は余計な罰の場合もあるんですよね? その場合、後日それに見合うだけの幸運が訪れると言うことでしょうか?それとも、別の悪のせいで訪れた罰なんでしょうか?

(補足)
人間社会において必要な法律の知識を身につけるのは社会人としての義務でしょう。
基本的な一般的な、生活に必要な法律の知識は、大抵成人するまでに身につけられます。
それより専門的な知識は、勿論自分を守るために身につける必要のあるものは、身につけなければ損をします。

この事を怠って損をしてもそれはいたし方ありません。
努力不足による失敗です。
悪意が無くても、怠った事に対するそれ相応の結果は受けねければなりません。
法則は悪意に対してだけ働くのではありません。
怠慢、努力不足に対しても、それ相応に働きますから。
(別に罰ではありません)

この経験からもっと気をつけるようになるでしょう。
これは今生において原因があり、今生において結果が出た見本ともいえるでしょう。
もし、詐欺師によって騙される場合は、その原因は複雑で、ケースバイケースで一言では片付けられないと思います。

以前に一度、書きましたが、一つの行為に対して、一つの結果が出てくるほど、世の中単純ではないと思います。
動機や感情も大変複雑で、悪意や善意が入り混じっているのが本当だと思います。
ですから、もうこうなると、複雑すぎて私のような単純な思考からはなかなか説明できにくくなります。
ただ、いえる事は、どんなに複雑な場合でも、法則は、一分の狂いも無く結論を出すらしいということです。
行き過ぎも不足もありません。

これはおそらく、死後、何十という過去生からの自分の生き方を検討することによって、初めて実感し、理解出来ることなのでしょうね。
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NO.11です。

(お礼の中の疑問に対しての回答)

 >精神が進化していると言う考え方はちょっと変かと思います。 生まれたばかりの子供に食料だけを与えて、何の教育もせずに育てたとしましょう。
何の教育をしなくても牛は草を食うのと同様に、本来なら「進化」ですから、ある程度の精神になるはずです。
実際は動物並みの精神ではないでしょうか?
なので、精神が進化していると言う考え方はとても  受け入れられません。

この質問者様の例え話は、私ならこう考えます。

一見動物のように見える子どもでも、前世は立派な大人であったはずです。
法則の何らかの働きにより、そのような酷い待遇に甘んじてしまうこととなりました。
この子どもをそんな目に合わせた人物は、大変な負債を今生か来世で背負うことになります。
人を人として扱わないということは、必ずや、いつか自分もそういう目にあうということです。
これは恐ろしいことです。
知らぬが仏でしょうね。
少しでも気がついた大人は、一刻も早くこの子どもを救い出さなくてはなりません。

この子ども自体は、この過酷な運命の中で精一杯生きていくことによって、何かを自分の中で確立することが出来るでしょう。
この子は来世では、今回と違ってもっと恵まれた環境に生まれ、人格も前世(普通の人だった時)より、もっと向上しているでしょう。・・・

これが精神性の進化だと思います。
物質的観点からではなく、霊的な長いスパンからの観点が必要と思います。


次の疑問について
 >今生限りで来世にその行為の結果を持ち越せないならば、非常に不公平で矛盾に満ちた自然の摂理の法則に なるとおもいませんか?
いや、先ほどのゲームの例えですと、データを消して最初からやり直す際に、何らかのデータが残っていると言う状況ですよね?
そっちの方が不公平じゃないですか?

この疑問についての解答はNo.18を読まれれば分かると思いますので省略します。
(逆転の発想で考えてみてください)

               以上です
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NO.19です。

追記です。
最後の部分を少し書き換えます。
信じる信じないどちらにも偏らずに、あなた自身で調べ知る事があなたにとっての一番の答えが見つかる方法だと私は思います。

簡単に言いますと、信じるではなくただそれがあるのでは
という事です。小さい人が、考えている常識が全てではありません。人間は一番ではありません。

別の質問で「前世の報いだ」等の発言されている方々についてはよくわかりません。
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