準・究極の選択

古文の係り結びの法則についての質問です。
例えば、
〜〜ぞ〜△、〜〜〇。という文があった場合△と〇のどちらが結びになるのでしょうか?
「鳥のむれいて、池の蛙をとりければ、ご覧じ悲しませ給ひてなむ」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそとおぼえしか。
この文では、最初のこそは文末のしかにかかっていて、2番目のこそは、「さてはいみ〜こそ」が思考部でこそのうしろにあれが省略されていると書いてありました。これからかんがえられることは、最初に述べた疑問は基本は〇にかかるということですよね?
ですが、よく結びの省略や消滅の説明のとき、
例えば、こそ〜〜なれば、ではこそ〜〜なれ
となるはずが助詞「ば」があるために結びが消滅しているとかいてあります。ここで、あれ?読点の前に結びが来ること前提で話しているぞとおもいました。結びの省略や消滅の時は濁点の前に結びがあるかもしれないということですか?

A 回答 (1件)

① 〜〜ぞ〜△、〜〜〇。

という文があった場合
実例が思いつかないので、なんとも言いようがない気がします。
「ぞ」でも、「いづくにぞある」「広ごりたるさまにぞ、うたてこちたけれど」「なにごとぞ」「あれぞ」のように、係り結びとは関係のない用法もあると思います。

② 人の語りしこそ、さてはいみじくこそとおぼえしか
「人の語りしこそ」の「こそ」が、典型的な係助詞の強調用法で「覚ゆ(下二:え・
・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ)」が「こそ」を受けているのでしょう。「しか」が「き(助動詞:せ・○・き・し・しか・○)」の已然形です。
「さてはいみじくこそ」の「こそ」も、同様に「覚えしか」で受けられているのでしょう。 「さてはいみじくこそ」の「こそ」の後ろに「あれ」あるいは「あらめ」が省略されていると思ってしまうと、省略しない文型がとてもおかしく感じます。 
人の言葉って、思った順にただだらだら繋げるので、文法に従って理解するとおかしくなることが多いのだと思います。 あえて言うならば、「人の語りしこそ、さてはいみじ」で終わるはずが、「さてはいみじ」と述べたためにだらだらとあとに繋がっただけでしょう。 それをことさらに全体を一文として文法的に係・受の関係で理解しようとするから、わかりにくくなるだけだと思います。

③ 助詞「ば」があるために結びが消滅している
「ば」は接続助詞でしょう。 「さこそおぼすらめば」の場合、「こそ」は係助詞が起源ではあっても、もはや係助詞の係・受の連携性はなくなって、「さこそ」でただの副詞的機能を果たすだけになっていると思います。 「ば」があるためではないでしょう。
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