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モラル・ハザードは個人の倫理観が欠如していることから生じる問題なのでしょうか。??

A 回答 (6件)

問題は今やヨーロッパ(日本)にモラルが存在しないということである。


それは,大衆人が新しく登場したモラルを尊重し,旧来のモラルを軽視しているというのではなく,大衆人の生の中心的な願望がいかなるモラルにも束縛されずに生きることにあるということなのである。
諸君は若者たちが「新しいモラル」を口にする時はそのいかなる言葉も絶対信じてはならない。
わたしは,今日このヨーロッパ大陸のいずこにも,一つのモラルの外観を示している新しいエトスをもった集団は存在しないと断言する。
人々が「新しい」モラルを口にする時,それは一つの不道徳行為を犯しているに他ならないのであり,彼らは,密輸入のための最も容易な方法を探しているのである。

 したがって,今日の人間に対してそのモラルの欠如を難詰するのはあまりにも無邪気な行為だというべきであろう。
今日の人間には非難は通じないばかりか,むしろ彼らをほくそえませることになるだろう。
非道徳な行為は安直の極に達してしまい,今や誰でもがこれ見よがしに非道徳な行為をする時代になったのである。

 過去の生き残りともいうべき集団――キリスト教徒,「イデアリスト」,オールド・リベラリスト等――のすべてを,この拙論でもそうしてきたようにとり除くとすれば,現在の時代を代表するすべての人々のうちに,生に対する態度が,権利ならそのすべてをもっているが義務はいっさい負っていないという信念に要約しえないような人は一人もいないであろう。
その人間が反動家の仮面をかぶっていようが革命家の仮面をかぶっていようが,それは関係ない。
能動的であろうが受動的であろうが,しばらくすれば,彼ははっきりと,いっさいの義務を無視し,自分ではなぜかは考えもせずに,とにかく自分は無制限な権利の主体であると感じることであろう。

 こうした魂の持ち主と接触するものは,それが何であっても,結局は彼がいかなる具体的なものにも服従しないための口実として利用されるという同じ結果しかもたらさないだろう。
たとえばある者が反動的で反目由主義的な態度をとったとすれば,それは,祖国を,国家を救うためには,他のいっさいの規範を踏みにじり,隣人を――その隣人が貴重な人格の持ち主であればなおさらのこと――踏み倒す権利があるのだと主張しうるためだけにそうした態度をとるのである。
そして革命家の場合にも事情は同じである。
革命家にみられる労働者や貧困や社会正義に対する熱狂的な関心も,いっさいの義務――たとえば礼節,誠実,そして特に何よりもまず卓絶せる人々に対する敬意というか尊敬の態度など――を無視していられるための仮面として役立っているのである。
わたしは知性を軽蔑し,知性の前に頭を下げなくてすます権利を自分の内部で戦いとるためだけの目的で,いずれかの労働党に加入した人々をかなり知っている。
その他の独裁制に関しては,それらが秀でていると思われる者をすべて踏みにじり,大衆人の歓心を買うものであることを,われわれはすでに十分に見てきたはずである。

 このあらゆる義務からの逃避という事実が,われわれの時代に一種の「青年」主義が形成されるにいたったというばかげているとともに破廉恥でもある現象を解明してくれるであろう。
この青年主義ほどわれわれの時代のグロテスクな面を代表しているものはないのではなかろうか。
人々は,青年は義務の遂行を成熟する日まで無期限に延ばすことができるのだから義務よりも権利を多くもっているのだと聞いて,滑稽にも,自分たちは「若い」のだと主張しているのである。
偉業をなすとか,あるいは,すでになしたとかが,青年に関して問題にされたことはいまだかつてない。
青年はつねに信用貸しで生きてきた。
この信用貸しは人間性そのものに根差しているものであり,青年でない者たちが,青年に与えたアイロニックであるとともに愛情のこもったエセ権利であったのである。
ところが,今日若者たちがその似非権利を真の権利とみなし,しかも,すでに何かを成し遂げた人にのみ属するその他のいっさいの権利を自分のものとするためにこそそうした態度をとっているということには,まったく唖然とせざるをえない。

 信じられないことのようだが,若さが恐喝に利用されるにいたったのである。
事実われわれは今日,相互に補足し合う二つの顔をもった普遍的な恐喝の時代に生きている。
その一つは暴力による恐喝であり,もう一つは皮肉な笑いを浮かべてする恐喝である。
そのいずれの場合も目指す目標は同じであり,劣等の者,凡俗な者がいっさいの服従からの解放感を味わうことである。

オルテガ
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そうだと思います。



モラルを支えているモノが、外にある
場合。
その、外にあるモノが壊れたら
モラルも壊れます。

こんなことしたら世間に笑われる。
その世間が崩れたら、モラルも
崩れるでしょう。

こんなことしたら、神の罰を受けてしまう。
神なんていない、となればモラルも
無くなります。


モラルが内面化され、外からの支えが
必要ない場合は、世間や神がどうあれ
モラルは崩壊しないでしょう。
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モラルを統一していない事が原因だと思います。



有るべき姿を理想とする人の前で勝手気ままに個人の自由を主張する場合はハラスメントになるのでしょうか?


あおり運転者は良くないけど、マトモな運転のできていないドライバーに罪は無いのですか?

倫理観を理由に人を責めるのですか?

親の躾や正しく人格形成をさせる様な義務教育に不足が有るのでは?
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「貴族」というかくもわれわれを鼓舞する力を秘めた言葉が,日常の語法においてすっかり堕落してしまったことは腹立たしいかぎりである。


墜落というのは,この言葉が多くの人にとって世襲的な「血統による貴族」を意味するにいたっては,万人に共通の一般的権利と似たものに変わってしまい,生気のないもののようにただ受け継がれ譲り渡されるという静的で受動的なものに変わってしまうからである。
ところが貴族の本来の意味というか語源は,本質的に動的なものである。
高貴な人とは「世間に知られた」人の意味であり,無名の大衆の上にぬきん出ておのれの存在を知らしめた人,すべての人が知っている人,有名な人の意味である。
したがって高貴であるということは,彼に名声をもたらしたつねならざる努力があったことを意味している。
だから,高貴な人というのは努力の人,優れた人というに等しいのである。
貴族の息子の位階や名声はもはやまったくの余禄にすぎない。
つまり,父が名声をなしたがゆえに子が有名なのである。
彼は反射によって有名なのだ。
事実,世襲貴族は一種の間接的な性格をもっている。
それは反射光線であり,死者によって基礎づけられている月光貴族なのである。
この月光貴族の中で,ただ一つ生きており,真正で,動的なのは,先祖が到達した努力の水準を保持させるように子孫に仕向ける刺激のみである。
このように弱体化した意味においてもなお,つねに「貴族には責任がある」のである。
自力で貴族となった人は自ら義務を引き受けたのだが,世襲貴族に義務を負わせているのは先祖の遺産である。
しかしいずれにしても,初めて貴族となった者からその後継者へ貴族の身分が移行することにはある種の矛盾がある。

この点では中国人の方が合理的で,彼らはこの継承の順序を逆にしている。
つまり,父が息子を貴族にするのではなく,息子が貴族となった場合,もともと下賎であった彼の家系を自分の努力によってきわだたせることによって,貴族の身分を先祖にも伝達するのである。
したがって,中国では,授爵に際しては,その位階が何代目まで遡るかによって等級が分けられており,父のみしか貴族の列に加ええない者もあれば,自己の名声を五代あるいは十代前の先祖にまで頒ち与えうる者もあるのである。
かくして中国では,祖先は,現に生きている人,その貴族性が現実に活動している人,要するに,貴族であったのではなく貴族である人によって生きているのである。

 「貴族」という言葉は,ローマ帝国以前には正式な用語としては存在しなかった。
それが使われ出したのは,まさに,すでに堕落していた世襲貴族に対するものとしてであった。

 わたしにとって,貴族とは,つねに自己を超克し,おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって,既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生の同義語である。
かくして,高貴なる生は,凡俗で生気のない生,つまり静止したままで自己の中に閉じこもり,外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼塞を申し渡されている生,と対置されるのである。
こうした人間の凡俗なあり方をわたしが大衆と呼ぶ理由はここにあるのである。それは,そうしたあり方の人間が多数であるからという理由からよりも,無気力な人間であるという理由からである。

 われわれは,成長するに従って,大部分の男たちは――そして女たちも――外的必然に対する反応というような厳密な意味での強制されたもの以外,いかなる自発的な努力もなしえないものだということをいやというほど見せつけられる。
それだけに,われわれが知り合ったきわめて数少ない,一般の人間には無縁な自発的な努力をなしうる人々は,われわれの体験の中にあって,ますます孤立化し,あたかも記念碑的存在となっていくのである。
彼らこそ,選ばれたる人,高貴なる人,行動的な唯一の人,ただ反応に生きるだけでない人であり,彼らにとって生きるとは,不断の緊張であり,絶え間ない習練なのである。
習練。つまり,彼らは苦行者なのである。
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一般に「選ばれた少数者」について語る場合,悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。


つまり人々は,選ばれた者とは,われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく,たとえ自力で達成しえなくても,他の人々以上に自分自身に対して,多くしかも高度な要求を課す人のことである,ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。
人間を最も根本的に分類すれば,次の二つのタイプに分けることができる。第一は,自らに多くを求め,進んで困難と義務を負わんとする人々であり,第二は,自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々,生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく,したがって自己完成への努力をしない人々,つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。

 このことはわたしに,正統仏教により厳格で深遠な教法とより安易で浅薄な教法があることを思い出させる。
つまりマハヤーナ――「大乗の車」あるいは「大道」――とヒナヤーナ――「小乗の車」あるいは「小道」――である。
決定的なことは,われわれがわれわれの人生をどちらの車に乗せるか,つまり,自分の人生に最大の要求を課すか,あるいは,最小の要求を課すかである。

 したがって,社会を大衆と優れた少数者に分けるのは,社会階級による分類ではなく,人間の種類による分類なのであり,上層階級と下層階級という階級的序列とは一致しえないのである。
上層階級が真に上級となった時,また実際にそうであった間は,上層階級に「大乗の車」を選んだ人が多く見られる可能性がより大きいのは当然であり,これに対して下層階級は一般に資質の劣る人々によって構成されているといえる。
しかし,厳密にいえば,それぞれの社会階層の中に大衆と真の少数者の別があるのである。
後に見るように,選別的な態度を伝統としてきた集団においてさえも,大衆と凡俗人とが優位を占めているというのが今日の特徴である。
かくして,その本質そのものから特殊な能力が要求され,それが前提となっているはずの知的分野においてさえ,資格のない,資格の与えようのない,また本人の資質からいって当然無資格なエセ知識人がしだいに優勢になりつつあるのである。
残存している男女の「貴族」グループについても同様のことがいえる。
ところがこれとは逆に,以前ならばわれわれが「大衆」と呼んでいるものの典型的な例たりえた労働者の間に,今日では,錬成された高貴な精神の持ち主を見出すことも稀ではないのである。


 ところで社会には,その本質上特殊であり,したがってまた,特殊な才能がなければ立派に遂行しえないようなきわめて多種多様な業務や活動や機能がある。
芸術や質の分野のある種の楽しみとか行政上の機能や公共問題に関する政治的判断などがその例である。
以前は,これらの特殊な活動は,天分のある――少なくとも天分があると自認した――少数者によってなされていた。
そして大衆はその中に割り込もうとはしなかった。
大衆は,もし割り込もうとすれば,自分がそうした特殊な才能を獲得しなければならず,したがって大衆であることをやめなければならないことを知っていた。
大衆は,社会の健全な力学関係における自己の役割を知っていたのである。

(…) 同じことが政治以外の分野でも,特に知的な分野でも起こっている。
ひょっとしたらこういうわたしがまちがっているのかもしれない。
しかし,今日の著述家は,自分が長年にわたって研究してきたテーマについて論文を書こうとしてペンをとる時には,そうした問題に一度も関心を持ったことのない凡庸な読者がもしその論文を読むとすれば,それは論文から何かを学ぼうという目的からではなく,実はまったくその逆に,自分がもっている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪せんがために読むのだということを銘記すべきである。
大衆を構成している個々人が,自分が特殊の才能をもっていると信じ込んだとしても,それは単なる個人的な錯覚の一例にしかすぎないのであって,社会的秩序の機乱を意味するものではない。
今日の特徴は,凡俗な人間が,おのれが凡俗であることを知りながら,凡俗であることの権利を敢然と主張し,いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。
つまり北米合衆国でいわれているように,他人と違うということ即ふしだらなことであるという風潮である。
大衆はいまや,いっさいの非凡なるもの,傑出せるもの,個性的なるもの,特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。
すべての人と同じでない者,すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされているのである。
ところが,この「すべての人」が真に「すべての人」でないことは明らかである。
かつては「すべての人」といった場合,大衆とその大衆から分離した少数者からなる複合的統一体を指すのが普通であった。
しかし今日では,すべての人とは,ただ大衆を意味するにすぎないのである。

 以上が,現代の恐るべき事実であり,そのいつわりない残酷な実相なのである。

Jose Ortega y Gasset
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大衆とは,心理的事実として定義しうるものであり,個々人が集団となって現われるのを待つ必要はないのである。


われわれは一人の人間を前にして,彼が大衆であるか否かを識別することができる。
大衆とは,善い意味でも悪い意味でも,自分自身に特殊な価値を認めようとはせず,自分は「すべての人」と同じであると感じ,そのことに苦痛を覚えるどころか,他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。

謙虚な人が自分に特殊な価値を認めようと試みる場合を想像していただきたい。
そして,自分にはこのことに対する才能があるだろうか,あるいはあのことに対する才能があるだろうか,またなんらかの分野で人より優れているだろうかと自問しながら,結局は自分になんら傑出した資質のないことに気づいたとする。
その時彼は,自分が凡庸で,平凡で,天賦の才に恵まれていないとは感ずるだろうが,自分が「大衆」であるとは感じないであろう。
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