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快楽は幸福とは違うのではないでしょうか
思い出だけが残り、幻の様に消えていく
永続性は無く、時に虚しさが残る

「苦しみを乗り越えて歓喜に至る」・・
苦行主義が幸福への条件?と思いたい?が?どう?

A 回答 (35件中21~30件)

脳の生理


緊急事態に遭遇したとき速やかにそれに対応出来るようにするため「意識(潜在意識・顕在意識)」を素早くそれに向けられるようにしています(意識の切り替え)
上記が「雑念が湧く生理的理由」です
何かにだけ集中しそれだけに意識を向ける事は「非常に危険」な事なのです
何故なら周囲に意識を全く向けていない為に周囲の変化に気づかない為危機回避の為の対応が遅れる・出来ないからです
ですから脳は常に「意識の切り替え」を行う事でそれを未然に防ぐようにしているのです
端的に言えば
脳は自己防衛の為に常に意識の切り替えを行っているという事です。
よって何かにだけに集中しそれだけに意識を向けようとすると脳は自己防衛の為に雑念を沸かして意識を散らそうとします
それでも雑念に気を取られずに集中し続けた場合
脳は自己防衛の直接的にそれを妨害して意識を散らすようにします
具体的には
意識を向けている先しか見えないよう視界の中央部のみ視覚化処理し周囲は視界に入っていても視覚化処理せずよってブラックアウト状態にする
視覚化処理速度を著しく遅くしそうする事で視界を「不明瞭」にする
等です
脳は自己防衛の為にこれらをするようにして「違和感」を抱かせそれによっていわゆる「我に返る」ようにして意識を散らそうとします
この段階が「集中の限界」です
「集中の限界」に達してなお集中し続けると脳は最終手段を実行します
それは「生体ホルモン」を一瞬に大量に分泌し脳を一瞬麻痺状態にして脳の状態を強制的にリセットするです
この一瞬の麻痺状態が「トランス状態」です。また分泌された大量の生体ホルモンによって「究極の幸福感」を感じるのです
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この回答へのお礼

集中しそれだけに意識を向ける事は「非常に危険」?
雑念は生理的理由、自己防衛の為・で「我に返る」?
ですか
分らん
雑念を良しとし、集中を危険とするのが分かりません?
雑念があれば中と半端で前に進めません、
ここで言う「我に返る」とは
単なる、挫折。やり直し、となるような気がしますが

幸福を目指している人達に
「トランス状態」を目指せ、とは言えませんね

お礼日時:2021/06/13 07:55

オマケ


私は3回トランスを経験し究極の幸福感を得ましたがその経験それ自体個人の経験で他人に一切影響を与えていません
ですから周りに不幸なんて一切与えていません
むしろ私の経験を他人に伝えることで究極の幸福感が味わえるそのキッカケを与えてますね
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この回答へのお礼

そうですか
一度、経験したいもんですね

お礼日時:2021/06/11 12:19

ついでに言えば


苦行と自覚していながらそれをしそれの無意味さに気がついてしまったら虚無に襲われ究極の不幸感に苛まれます
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この回答へのお礼

それです
快楽主義と共に苦行主義も極端だと無意味だと不幸ですよね

お礼日時:2021/06/11 12:23

トランスは病気では無いですから


まぁ〜質問者さんはトランス経験が無い人なんでしょう。故に「究極の幸福感」を知らないね
因みに苦行とかいりませんから
集中の限界に到達すれば誰でも得られますよ
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この回答へのお礼

集中の限界に到達すれば誰でも
ですか
それ、意識の異常ではないんですかね

私は仕事にいつも集中して、限界も感じ、悩み苦しい時もある
その時、私の意識は正常ですのでトランス状態にはならず
インスピレーションとか、ひらめきとかで
「そうだ、それで行こう」となるんです、

お礼日時:2021/06/12 07:25

快楽だけが幸福ってとらえると


なんか人生を否定してて
変な価値観におもえますね

快楽があるっめことは、我慢や苦労などもあってこその快楽であって

そういった一連の流れを感じれることが幸福なんだと思いますよ

苦行することによって精神に不可をかけてるのも

苦行から脱するときの達成感など

緊張や収縮からの解放や爆発みたいなかんじかともおもいますよ

ワシ的には、ごちそうを食べれるのは幸せであって

ごちそうばかり食べてたら、いつまでも幸せなのか?
てな疑問にたいしては

ごちそうしか食べれないのは、いつしか不幸せに成りそうで

粗食の時は、粗食を食べれる幸せなんかも感じますよ

粗食を不幸と嘆く人もいてるけど

なんも食べられない状態
飢えや飢餓の事をかんがえたら

食べられる事って、幸せですもんね

飢え死にや餓死

これは間違いなく不幸と
個人的には断言しちゃいますよ


結果


生きてるってことは、すべからく幸せであるはず!

なんてな暴言を残して、回答を終えたいと思いますよ

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

おっしゃる通りだと思います
私など、目が回るほど忙しくて毎日が苦行みたいですが
たまの休日に、何をしてても幸せですよ
すべからく幸せ、暴言じゃないですね


快楽主義と苦行主義というのは、
まったく対極にありながら、
双方共通している点があと思うのです。
それは物の見方、考え方の二元論的な思考が
働いているからだと思います
精神か肉体か、善か悪か、天国か地獄か、
という二元的見方と同じように
快楽主義と苦行主義とは、
一見、まったく相反するようでありながら、
物事のニ元的な捉え方において共通しており、
ともに、それは、偏見であり、極端ということに
なるのではないでしょうか

苦行的考えはインドにおいて最も体系だてて
展開されたものですが
いつの時代においても、みつけることができます
例えば
エゴは悪いか善いかを極端に決める事はできません
善悪両面に現れるからですね
快楽主義と苦行主義も同じだと思います
一元的に考えれば両方とも間違いであり不幸である
と言いたいんですが?
私が極端かもね

お礼日時:2021/06/11 12:48

「四悉壇」


ダルマの仏法は、特定の教典に基づく教義体系、つまり教判による事をせず、いずれの教典でもよい、任意の教典によって、その宗を悟る事から出発した。
問題は、宗を悟るところにある。
宗とは、詳しくいえば、四悉壇で、その教典の説き方を四つに分けて考えるもの。
第一義悉壇、対治義悉、各々為人悉壇、世界悉壇を言う。
仏陀の言葉は、すべて相手の願いと能力に応じて説き出された一種の方便である。
第一義悉壇は、そんな相手の能力を顧慮せず、ずばりと真理を説くところに特色を持つ。
入理悉壇ともいうのは、その事である。
対治以下は、いってみれば、相手の病気によるカルテである。
為人悉壇とは、個人別の対機説法、世界悉壇は社会福祉である。
時と、ところと相手によって、仏陀の言葉は違う。
そんな方便が、すべて同じ真実を表している。

要するに、教典によって、仏法の大意を知る事。
ダルマの本意は、これに尽きる。
仏法的的の大意は、一代時教の狙いが、自分一人を相手どるものであった、と分かる事の他にない。
そこには、自分と同じ仏陀がいる、仏陀と同じ自分がいた。
やがて、弟子達は教を離れて答えを求める。

   「深信について」
重要なのは深く信じる事、つまり深信である。
繰り返しいうように理入は高次の実践である。
深信は、そんな実践の内容である。
信と悟は、表裏する。
己の自覚を仏陀の言葉に譲るのが信である。
凡夫も聖人も共に同じ真実を持つ。
それが心ある人、含生の構造である。
深信とは、一種の精神現象に他ならない。
いってみれば、深信と不信を契機とする。
真実心は、客塵がやたらと被さる、そんな非本来的な日常の不本意によって、いよいよ、己を確かなものとする。
客は主ではない。
いつか、客は去っていく。
主は、そんな客と対する。
客が来たり客が去る事で、主は主である事をまっとうする。
高い真理は、常に但し書きを伴う。
のちに、六祖が本来無一物という発想も、既にここに含まれる。
惹くほうの塵埃も、惹かせぬ用意も、既に無用である。
ここから、本物の実践がはじまる。
壁観とはその事である。
壁観には、自他、凡夫の差別がない。
古典の教えを追う事もない。
人は、一切経によって病人となる。
本当は、凡も聖もないのである。
無為のところには、入ることすら無用である。
入出の分別は、既になかった。
それが、理入にほかならない。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
四悉壇のご講義、ありがたく購読いたしました、が
四悉壇とは、宗を悟るところではない
「四悉檀」とは、仏が衆生に対して、どのように法を説いたかを
四種に分けたもので、弘法の方軌を示したものなです。
本物の実践が壁観とは、まさしく陳説
動かず、学ばず、話さず、手足が腐るぞダルマみたいに

お礼日時:2021/06/11 09:29

「禅源諸詮集都序」宗密


ダルマは巧みに経文を捨てて、直ちに心のみを伝えて
暗黙の内に心という名によって、心の本質たる知(自覚)の立場を示し、壁観に譬えて諸々の外面的な繋がりを絶たせようとした。

   「捨妄帰真」
壁観は具体的には、気まぐれを止めて真実に立ち返る工夫である。
妄は気まぐれである。
本来あるはずのないものが見え隠れする。
迷いとは、その事である。
真実を見失って本当は、あるはずのないものが見える。
悟りとは、あるはずのないものを見ず、気まぐれによって失われた真実に立ち返るだけの事である。
特に新しい真実が、姿を現すわけではない。
見失ったから、気づくだけの事で、迷わなければ、改めて悟る事はない。
本来の真実は、依然として変わりがない。
帰真とは、真実に返る事だが、寧ろ真実に落ち着く事、単なる往還の帰とは違った意味を持つ。
そこが本来のところであり、今迄の方が非本来の気まぐれであった、そんな妄念を、捨てるだけでよかった。
頓悟と言われる理由である。
本来のところは、実は頓も斬もないのである。
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「涅槃経」聖行品


善男子よ、ボサツの聖行とは、こう観察するのである。
この身は、頭より足の先まで、そこにはただ髪毛、爪歯、不浄、垢穢、皮肉、筋骨、脾腎、心肺、肝胆、腸胃、生熟の二蔵、大小の便利、涕睡、目涙、肪膏、脳膜、骨髄、膿血、脳胲といった諸脈があるにすぎぬと、ボサツはかく専念し観察する。
誰が我なるものを有するのか、我は誰に属し、どこに存し、誰が我に属するのであろう・・・。
またかくも考えられる、骨が我であろうか、骨以外のものが我であろうか。
ボサツはかくて皮肉を除去して、白骨だけを観察して、こう考える。
骨の色はみな違っている、青黄赤白、および鴿色である。
そうした色の違う骨は、やはり我ではないだろう、なぜなら、我は青黄赤白、および鴿色をしていないから、ボサツは、このように心を統一し、観察し、忽ちにして一切の色欲を断除する。
更にまた、こうも考える。
この骨は因縁より生じたものである。
足の骨が踝骨を支え、踝骨が膞骨支え、膞骨が膝の骨を支え、膝の骨が髀骨を支え、髀骨は骨が臗骨を支え、臗骨が腰骨を支え、腰骨が脊骨を支え、脊骨が肋骨を支え、更にまた、脊骨の上に項骨があって、項骨が頷骨を支え、頷骨が牙骨を支え、その上に髑髏がある。
更にまた、項骨は髀骨を支え、髀骨は臀骨を支え、臀骨は腕骨を支え、腕骨は掌骨を支え、掌骨は指骨を支える。
ボサツは、このように観察して、身体の骨を全て分離する。
忽ちにして、三欲が断除される。
即ち形貌欲、姿態欲、細触欲の三つである。
身念処とは、不浄観、若しくは白骨観の事であり、肉欲の断除を目的とする。
受念処以下の三つについても方法は、ほぼ同じである。
経典は、かくて四念処を修するボサツが、完全に清浄無垢となり、大乗の教説を我が身に体する準備がととのうとし、更に四聖諦や十二因縁の観察へと説をすすめる。

   「ダルマの四行は四念処への挑戦」
ダルマの教えの新しさは、こんな伝統の教法に、サヨナラを告げたところにある。
壁観は、その出発である。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
簡略にいいます
お示しの涅槃経に
「若(も)し仏の所説に順わざる者有らば、当に知るべし
是の人は是れ魔の眷属なり」とあるように、
教外別伝・不立文字といって仏典を否定し、
仏の所説に従わないのは、魔の眷属て断定しています
それをわきまえて言えば
禅宗では 「仏祖不伝」 と言いながら、達磨は付法蔵の二十八祖と称し、
東土の六祖より相伝されていると主張されている。
また迦葉は一枝の花房を釈尊より授けられ、それを理解して
心の一法を伝えたものが禅宗の根源であるとしているが、
これとて仏祖から伝えられたものではない。
また、
「祖師無用」 と言いながら、達磨を禅祖としている。
祖師無用ならば達磨も無用なはずではないでしょうか。
また仏の教法を無用と言いながら、
朝夕に真言陀羅尼や首楞厳経や金剛経、円覚経を読誦している。
仏・菩薩を信用しないと言いながら、
禅法の中で南無三宝と行住坐臥に唱えている。
すなわち、言っている事とやっている事が、全てバラバラなのであり、
自語相違も甚だしいのではないでしょうか。
壁観で、我見偏見邪見僻見以外悟れないでしょう
壁には出口がありません

お礼日時:2021/06/11 09:03

なんかおかしいと思います。



質問者様は、もう既にそこのところはわきまえていらっしゃると思っておりましたが、、、??
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この回答へのお礼

いまだ迷っている凡夫です
ただ
ぬるま湯につかっている連中に
悪戦苦闘している方に
何か言いたいだけなんです

お礼日時:2021/06/11 08:41

快楽は幸福とは違うのではないでしょうか


 ↑
心理学では分けて考えます。
心理学での、幸福というのは、人生に
おける満足を意味します。



思い出だけが残り、幻の様に消えていく
永続性は無く、時に虚しさが残る
 ↑
美味しいモノを食べて幸せ♪
なんてのは快楽です。
だから、動物には快楽はあるけど、
幸福はありません。




「苦しみを乗り越えて歓喜に至る」・・
苦行主義が幸福への条件?と思いたい?が?どう?
 ↑
座禅を長時間続けていると
歓喜に至ります。
これは幸福ではなく、苦痛を
誤魔化すために、エンドルフィンなどの体内麻薬が
放出される結果です。

こう説明すると、禅の坊さん達は
皆、嫌な顔をするそうです。
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この回答へのお礼

ん、
なるほど
苦行の誤魔化しに注意ですね
望まなくても、苦しんでいる人と禅僧とは違うが
ホイットマンは
「寒さに震えた者ほど太陽の暖かさを感じる。
人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」
と言う
幸福の条件は「冬の寒さを知る」事ではないかと

お礼日時:2021/06/11 08:15

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