いちばん失敗した人決定戦

次のように考えます。ご見解をどうぞ。

1. 神は 絶対性ゆえ 相対性としての有る無しのいづれとしても 人間が自由にまた互いに対等に忖度しうる。

1-1. かくして 同じひとつの普遍神について 《有る神》派と《無い神》派とが 平和裏に共存する。はずだ。



2. ただし 相対性としての愛憎や真偽や善悪についてそれぞれの両者が互いに自由に対等なかたちで えらばれることは出来ない。

2-1. 憎悪の神や悪の神が あり得るかに見えるけれども それらは 善の神や愛情の神と――相対的に有限なかたちで――対立するものであるに過ぎず 絶対性なる普遍神とは別である。

2-2. 普遍神は 善悪の彼岸 真偽を超えた真理 愛憎をおおきくつつむ慈愛であると忖度される。

2-3. 言いかえると 《善の神と悪の神と》というふうに つねにペアとして持ち出して決して切り離さないならば まぁ 大目に見られるかも知れない。文学における表現の問題におさまる。



3. 忖度の内容としての可能性の話であるが 《神は人間がこしらえたものだ》なる命題や《神を人間がナイフで刺してころした》なる推理は 成り立ち得ない。

3-1. こしらえたものなら 壊せる。また たしかに殺せる。――だが 絶対性をどうして相対存在である人間が(人知を超えたナゾの何ものかを 人間がその知性によって) 創造したり殺害したりすることが出来るというのか? ニーチェ葬送を早く済まそう。

A 回答 (18件中1~10件)

宗教は教えとして道教的な思想であるべき



てな感じでしょうか!

(  ̄▽ ̄)にっこり

信仰てな人にそなわってる
なにかを信じるてな能力をマヒさせてしまいますもんね

母親や父親を信じないことには
生まれたての赤ちゃんや幼児って
生きていけないのが事実であるみたいに

人はなにかを信じる生き物てな感覚を
宗教や神様ってなことで上書きすると

危険ですもんね

過信や盲信の恐さですね

人って愚かだからこそ
なにかを信じたいのか?
なにかを信じるからこそ人なのか?

ここら辺のバランス感覚が個人差あって当然な話で、その感覚を破壊したりしそうですね

依存てな言葉が独り歩きしてるような風潮にも同じ意味を感じたりもしますよ
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この回答へのお礼

★ ~~~~
宗教は教えとして道教的な思想であるべき

てな感じでしょうか!

(  ̄▽ ̄)にっこり
~~~~
☆ おおむね そのようでしょうか。(タオイズムには 中にはひどい内容のオシへもあるようですよ。政治的な議論で)。



★ 信仰てな人にそなわってる
なにかを信じるてな能力をマヒさせてしまいますもんね
☆ おお! やっと通じました。



★ ~~~~
母親や父親を信じないことには
生まれたての赤ちゃんや幼児って
生きていけないのが事実であるみたいに

人はなにかを信じる生き物てな感覚を
宗教や神様ってなことで上書きすると

危険ですもんね
~~~~
☆ おおお! おっしゃるとおり宗教は《上書き》なんです。ただし元の信仰は 基本として言葉を超えていて 非思考です。



★ 過信や盲信の恐さですね
☆ その危険に満ちていますね。組織〔における権限関係〕による縛りがそうさせます。



★ 人って愚かだからこそ
なにかを信じたいのか?
なにかを信じるからこそ人なのか?
☆ おそらく《心の明け》から来るものと思います。


心がどこへと明けられているのか? と聞かれても 《明け》が自然本性なのだと思います。言いかえると 心は《閉じていない》のだと。


中には――つまり 宗教関係者には―― 窓を閉じる場合があります。閉じていなくても あたかも窓のように世界を四角に区切ってその枠組みにおいて眺めている。


これはつまりむしろ 道徳倫理の規範によって雁字搦めになった姿だと思います。道徳(つまり オシへ)を あろうことか 信じているわけです。





したがって四角四面の行動に落ち入りがちであり――真面目ではありながら それでも――:
★ ここら辺のバランス感覚が個人差あって当然な話で、その感覚を破壊したりしそうですね



★ 依存てな言葉が独り歩きしてるような風潮にも同じ意味を感じたりもしますよ
☆ あるいはつまり オモテとウラとの二重生活に成りがち。

お礼日時:2021/06/18 04:04

そだそだ


宗教が愚かなのか?

人間が愚かなのか?

この問いも先ほどのべた

人間って愚かだと思ってしまうと

愚かな人間が造り上げた、宗教も愚かであって当然であって

何故か宗教は愚かではない
てな答えを持ってるワシの頭のなかで
自己矛盾してるんですね

たんに、宗教のあり方やら運営のしかた
が愚かなだけで

宗教てな意識をもつことは愚かではないのかな?

( ̄~ ̄;)
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この回答へのお礼

宗教にかんしては こうです。普遍的な理論だと思っています。



信仰――これは 集団では成り立ちません 個人に固有のことです――から ヒラメキをとおして得られた観想が さらに具体的に現実のものごとについての宇宙観や倫理観として表現されてゆく。

これが 宗教のオシへです。



ところが 信仰を蝉にたとえると 宗教は蝉の抜け殻に当たります。

なぜなら 信仰は個人の内面にとどまるものであり外に出たらつかみ難いのに対して オシへは外面においても集団で共有することが出来る代物だからです。


つまり 早い話が 聖書やクルアーン〔に書かれた文章〕を神として信じるの〔は じつは 思い込みであり そのこと〕と 神を――個人として内面において――信じるのとは まるっきり違います。





したがって 宗教を信じるというのは 蝉の抜け殻を蝉だと言い張る思い込みであり 道理に反する。


じっさい オシへは 人間の言葉で表現されており それはいかに立派な命題であっても 経験思想です。移ろいゆかざるを得ない相対的な思惟内容でしかない。



ですから 宗教は――実際には組織宗教は―― 考える対象であるオシへを神として信じなさいと もし説くとすればそれは 信仰というものを勘違いしています。

じっさい 精神錯乱に落ち入ったことになります。百害あって一利なしです。


(宗教は オシへが経験思想であり これは まなぶものだとして勉強会を開くなりするぶんには 問題ないわけです)。

お礼日時:2021/06/18 03:20

合理的な発想から


人の考え方を整理する

bragelloneさんの裏テーマだったんですね


気が付かなかったΣ(゜Д゜)

整理作業は進んでますか?
進めれば進めるほど、あや取りのように
こんがらがったりもするかも知れないですね

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

進んでいますよ。


【Q:神とは何か?】
【Q:一般および個別絶対性 ならびに 特殊絶対性 または 宗教への絶対的批判】

最近では 一連の《アース役》論を設問しています。

お礼日時:2021/06/18 02:40

追記



愚かだからこそ、学ぶべきであり

学ぶべき教材として

神様ってあるのかなぁ~

より良い生き方とは
どのようにあるべきなのか

いろんな環境や状況があるから
定義付けはむずかしいけど

より良く生きるべし

てなてな指針とするなら
いい言葉ですもんね

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

そうですね。

いまの場合 わたしは ほとんど合理性という論理だけで 神を定義し神をめぐる人びとの思いをいろいろ区分けし整理し みなでスキっとしよう・・・というようなお話なんですが。

お礼日時:2021/06/17 18:53

bragelloneさん


お元気ですか?
(  ̄▽ ̄)にっこり

質問からズレる回答なんですけど

ちょいと今朝しった真実てなのを聞いてくださいね

ルワンダの悲劇
ジエノサイドがあったのは、有名な話であって

ルワンダを統治した国が
ルワンダ国民を統治しやすいように
ルワンダ国内に人種差別を産み出したのが原因てな風に現代だと言われてるんですけどね

ツチ族とフツ族の対立を産み出して
お互いに感情的にさせて
国民の意識を国外に目を向けないようにてな話なんだけどね

背が高いや、肌の弱冠白いなど、見た目だけの違いから
元になる人種が違うと認識されてて
その認識から民族が違うと思われてたのが!

近年の遺伝子研究で

ツチ族とフツ族って
遺伝子的には同じ民族だったとか
((((;゜Д゜)))

たんに背が高いとか、肌が弱冠白いとか

同じ遺伝子をもった人種でありながら
環境の違いで見た目の違いが顕著になっただけの話だったはずなのに

人の思い込みってすごく怖いですね

仲良く共存してた
同じ遺伝子をもつ種族ですら

見た目や生活様式から
民族てな意識が発生して

その民族てな意識が代々受け継がれることにより

同じ種族だったことすら、忘れられてしまう

その意識を利用した国が1番最低なんだけどね
そこら辺は質問からズレ過ぎてて

この回答で答えたいことから離れすぎてるから置いておきますね

何が回答したいのか回答すると

いっ神協であろうと、多神教であろうと

もとなる神は同じであるかも知れないのに

人間の認識のしかたから

争いは絶えないですもんね

ルワンダの悲劇みたいに
ツチ族やフツ族の遺伝子を調べるように神様の遺伝子を調べる事は不可能だから
相変わらずのワシの妄想的な暴論なんですけどね

神がある派と神がない派
なんてな話なら

人間の認識の違いでしかないはずなんだけど

その違いを現代の別問題に意識を無ないように利用されたりすると

かなり危険な話かもしれないですね

神がおろかなのではなく
神を扱う人間が愚かだと

偶像崇拝を禁止してしまうイスラム的な思想って!

人の愚かさと思い込みの怖さから生まれたのかも

キリスト教てきにとらえるなら
人間は迷える子羊であるから、迷うことなかれ信じろってなりそうですね

仏教てきには、何事にもとらわれるな
なのかなぁ~

話がそれたm(._.)m

ある派・ない派
お互いに愚かな人間であるからこそ
すべての人間が愚かさについて考えるために

神はあるのか!

はたまた

ないのか!

ルワンダの悲劇を調べてたら
たどり着いた暴論なんですけどね

よかったらbragelloneさんの感想を待ってますよ

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。
そう言えば ここしばらくでしたね。

★ ~~~
ルワンダの悲劇
・・・
ツチ族とフツ族の対立を産み出して
~~~
☆ ええ。この名前をおぼえています。

★ ~~~
ツチ族とフツ族って
遺伝子的には同じ民族だったとか

★ ~~~
仲良く共存してた
同じ遺伝子をもつ種族ですら

見た目や生活様式から
民族てな意識が発生して

その民族てな意識が代々受け継がれることにより

同じ種族だったことすら、忘れられてしまう
~~~

★ ~~~
一神教であろうと、多神教であろうと

もとなる神は同じであるかも知れないのに

人間の認識のしかたから

争いは絶えないですもんね
~~~
☆ つまり 多神論の多神は 同じひとつの普遍神の分身だと捉えるわけです。

★ ~~~
神がある派と神がない派
なんてな話なら

人間の認識の違いでしかないはずなんだけど
~~~
☆ そうです。人間の認識の違いは 相対的なものゆえ 対立する二項を持つけれど 絶対性たる神はこれらをともにじゅうぶん包容するわけです。


★ 偶像崇拝を禁止してしまうイスラム的な思想って!
☆ この場合はですね。アッラーフがムハンマドの口を借りて語った言葉つまりアラビア語ですが このアラビア語が神の言葉であるから ほかの言語に翻訳できないというのが 建て前です。

つまり クルアーンが語られ書かれたアラビア語は 人間の言葉のひとつであるにもかかわらず 絶対であると見られています。つまり 言葉が偶像崇拝の対象にされています。禁止はずなのに。・・・




★ 人の愚かさと思い込みの怖さから生まれたのかも
☆ 《思い込み》でしょうね。そしてそれは 何かひとつを特別視し果ては聖別するわけです。聖域をつくるかたちですね。


★ 人間は迷える子羊であるから、迷うことなかれ信じろってなりそうですね
☆ 迷う= よしあしを考えるは 相対的。

信じるは 人間の判断するよしあしを超えたところを――非思考の庭として・つまり無条件にて――わが心に受け容れる。《有る》としてか。《無い》としてかで 自由に分かれる。

★ ~~~
ある派・ない派
お互いに愚かな人間であるからこそ
すべての人間が愚かさについて考えるために

神はあるのか!

はたまた

ないのか!
~~~
☆ どうなんでしょう!?

お礼日時:2021/06/17 18:50

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悟りを得るって、人間が完成されたことを表すのと同意じゃないですか。



人間は何歳に至っても、学びは続くものであり、完成されないのだと思われます。
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この回答へのお礼

未完成でも 完成と同じはたらきをおこなう。なら さとりを得ている。

お礼日時:2021/06/17 13:12

#10



天網恢恢疎にして漏らさず
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この回答へのお礼

漏れずに その網に掬われる。

お礼日時:2021/06/17 09:43

公言できないような理不尽な目にも遭遇しましたが、公言できないような理不尽な目にも人をあわせて居るということなので、



薄汚れた罪人だと自分をそのように評価したのです。
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この回答へのお礼

悪人正機説には 関係ないと。


まだ さとりは得ていないのですか?

お礼日時:2021/06/17 09:29

『前提として「絶対神」を想定するから神は在る』


こう云いたいわけですか?

貴方の哲学の理路ってなんですか?
結局何も云っていないやん。

相対的存在が絶対的存在を在ると確信できる理由を
論理的に教えてくださいよ。
曖昧なレトリックで煙に巻くことを「哲学的」というなら笑止。
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この回答へのお礼

★ 『前提として「絶対神」を想定するから神は在る』
こう云いたいわけですか?
☆ だいたいは――想定について―― そうですが 《有るか無いか》は前提において規定していません。



《超自然かつ超経験》 ゆえに 《絶対性》として捉えた。

絶対性は 相対的な経験事象としての《ある・ない》を超えています。

したがって 絶対なる者について いづれか一方だけで規定することは出来ません。

つまり 《神は あるとも無いとも いづれか一方だけとして規定し得ない。ということは 普遍神は 〈有る神〉か〈無い神〉かのふたつの見方があり得て 人によっていづれか一つに分かれる》・・・と言っています。



★ 貴方の哲学の理路ってなんですか?
結局何も云っていないやん。
☆ 理路ですか? 差し詰め《われも生きる。なれも生きる。かれも生きる。ともに よく生きる》です。



★ 相対的存在が絶対的存在を在ると確信できる理由を
論理的に教えてくださいよ。
曖昧なレトリックで煙に巻くことを「哲学的」というなら笑止。
☆ おおむねすでに述べたと思いますよ。


絶対性は――有無を超えているだけではなく――ものごとの因果関係から自由なんです。これが 神です。つまり重ねて言えば 《有るか無いか》を超えています。

お礼日時:2021/06/17 09:28

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