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No.3ベストアンサー
- 回答日時:
私も、イザベラバードの『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』にそのような記述があったか記憶にありませんが、イザベラバードが訪れた当時の李氏朝鮮では、結婚して長男を出産した女性だけチマチョゴリから乳を出して生活することができました。
つまりチマチョゴリから乳を出して生活することはこの時代の朝鮮半島の女性にとっては栄誉なことでした。 当時の朝鮮では染色技術も無く、汚れた白いチマチョゴリから胸だけを出して生活していたことになります。 それを見たイザベラバードが、質問のような感想を持ったとしても不思議ではありません。
No.9
- 回答日時:
日本にわたって成功した女性の話だと、韓国では服を洗わず着たままで1年は過ごすとあったので、不潔ではあったろうね。
日本にきて在日同胞にそれを指摘されて不潔さに気付いて恥ずかしかったと述懐してましたね。
No.8
- 回答日時:
チマチョゴリというのは、
https://www.yumeichiba.jp/fs/chogori/c/g-chogori …
チマチョゴリは体のラインを綺麗に隠してくれる、女性的で美しい衣装だとお聞き致します。特にすっきりとした首のVラインや袖やチマのやわらかな曲線、チマの胸から裾にかけての優雅な広がり。チマチョゴリの魅力は1つ1つのラインの美しさかが総合的に調和されたラインとバランスの魅力だといえるでしょう。
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%9 …
女性はチマ(裳)、チョゴリを着る。女性のチョゴリは短く、胸下までである。チマはゆったりした丈長のスカートで、上部で細かくひだを寄せ胸で結び、結んだ紐を長く垂れ下げる。後ろで重ね合わせて着用するポッチマと、筒状で丈の短いトングチマとがある。この下にソクチマ(内裳)、またはタンソクコッ(単襯衣)やノルンソコッ(広袴)、ソツコッなどを下着としてはく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%9E …
三回装チョゴリは、韓服の一種で、襟、袖口、結び紐、脇に他の色の布地で装飾をつけた女性物のチョゴリのことである。回装チョゴリとも言う。半回装チョゴリは、結び紐、袖口だけ他の色で装飾して襟は年齢、または嗜好によって他の色で装飾する。回装チョゴリは婦人物の韓服に装飾性や華やかさを加えることから、特に三回装チョゴリは両班以上の身分の者しか着用が許されず、庶民たちは着用を禁止されていた。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%8 …
【チョゴリ】より …壬辰・丁酉倭乱当時で,男のチョゴリは身の丈が80cm,女子は60cmくらいであったが,現在は男は50cm,女は25cm内外である。夏はチョクサム(赤衫)とよぶ単衣を着,さらに下にソクチョクサム(内赤衫)を着る。冬は綿入れの二重(襦)を着るか刺し子(納衣(ヌビ))を着る。
朝鮮旅行案内記 朝鮮総督府鉄道局 編 出版昭和9年 P92
概説 風習 衣服
近頃、官吏・會社員・學生などで漸く洋服を着る者が殖えて來たが、大部分の者はまだ在來服即ち朝鮮服を 着て居る。朝鮮服の基本型は胴を中心として上衣と下衣とから成り、男子はその上に周衣(つるまき)を羽織り婦人は下衣の上に裳(ちま)をつけるのが普通である。上衣は袷・綿入を襦衣(ちまちょごり)、單を赤衫(ちょくさむ)と云ひ、いづれも筒袖で長けは胴までであるが婦人のものは少し短かい。左襟と右胸脇とに幅廣の長いつけ紐を付け之を結んで前を合せる。下衣は袷・綿入を袴、單を袴衣(こい)と云ひ、形は股引の樣であるが非常に寛に且つ股上りが浅く出來たもので、上は腰帶で括り裾口は足頸に纏ひ單袵(たんにむ)と云ふ平紐で緊縛する(婦人のは幅廣い襠(まち)を重ねて開くやうにしてあり、裾口は筒状に狭めてあるから縛らずそのまゝにして置く)。 周衣は一番上に着る上衣で袖は筒袖、脇入を廣くし下方に至るほど擴がり、長けは大抵脛までとし、平紐のつけ紐かボタンかで右胸脇で合せる。夏以外は袷、冬は綿を入れることもある。これは羽織に相當するもので笠(かつ)と共に男装には缺くべからざるものであるが、家庭に居る時又は仕事をする時などには着ない。 裳は婦人服裝になくてならぬ一番上に纏ふ下衣で、概ね單で作り紐下に澤山のヒダをとり裾廻りを浅くしてあるから、之を着けた姿に落付いた趣がある。
以上が朝鮮服の基本型であるが、一通りの男裝には袴の下に穿く内袴衣(そくこい)・袴(ぼち)・襦の下に着る内赤衫(そくちょくさむ)・襦衣(ちょごり) チョッキ・周衣(つるまき)が必要であり、女装には先づ下衣の肌着たる内襯衣(ねこそつ)・袴(ぼち)・袴の上に單襯衣(これは裳の下につけて裳の形を整へるもの)・裳(ちま)・上衣の肌着たる内赤衫(そくちょくさむ)・襦衣(ちょごり)がなければならん。婦人も周衣を着ないことはないが、これは防寒用としてであって冬季以外は殆んど着ない。
p94
朝鮮の人は一般に衣食住三者の中最も注意を拂ふのが服装である。從つて服地・服色・裁縫・洗濯に對する關心は一通りでない。服地としては富の程度と季節に依って異なるが、木綿・人絹・交織・絹物・麻布の順に需要せられ、メリンス・ラシャ・ジョゼットなども可なり選ばれて居る。 服色は断然白服が愛好せられ近來地方振興の一法として斷髮と共に色衣着用が獎励されて居るが、白衣の着用はまだ七割はあるだらう。 白衣以外の色服では、男子より女子、老者よりも幼少者に多く用みられ、幼少の兒童に至っては男兒・女兒の別なく殆んど同様の色物を用ゐる。現今普通男子向としての色服は、灰色・褐色・茶色・黒色などであり、婦人向としては、紛紅(薄桃色)・玉色(水色)・藍色・灰色・茶色・黒色など、而して子供向としては男女を通じ大紅(紅色)・紛紅・黄色・緑色・紫色などを用ゐる。而してその色合は、近年漸く複雑な間色・混 色で淡薄なものが迎へられるやうになったが、まだまだ色服の大部分が濃厚な單原色に近いものである。 模樣は概して地模様であり、菊・櫻・楓などの花模樣・蝶・鶴などの動物、さては喜・壽・福などの字模様が多く好まれて居る。裁縫は極めて細かく針を使ひ、洗濯には一々解いて洗って乾していて澤(つや)を出してまた縫ひあげるのであるから可なり手數がかる。まして入浴は滅多にせず白衣を常用するので始終洗濯しなければならない、從って裁縫と洗濯は家庭婦人の大仕事である。
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以上を基礎知識として、1900年前後の朝鮮の写真やイラストをみても、清潔感は感じますが、派手・コケティッシュ・色っぽくも見えず、可愛さも感じません。 しかし醜い服装には全く思えません。猥雑だとも感じません。 色や模様があしらわれ、デザインにも工夫が出てくるのが1920年代、30年代になるのかもしれません。 1930年代でも衣服の制限が実社会ではきつかったし、経済的にも階級では服装を構うことは出来なかったでしょう、また常民の大半も白しか使えない状態が普通で、現代の我々からみれば、ステキには感じないような気がします。
1920年代半ばに出版された朝鮮旅行案内記 朝鮮総督府鉄道局 編 p101
現在制度としては廃せられたが、朝鮮には昔から兩班(やんばん)・中人・常民及びの四階級があり、兩班は文武の官職につける特権を有し、中人は醫官とか譯官とか或る限定された官職にあった門地、常民は農工商を業とする所謂平民で、は・藝人・屠獣業者の類で殆んど人格を無視された者であった。階級間には、冠婚葬祭は勿論、衣服・住居乃至は言葉遣ひに至るまで厳しい區別と制裁があつた。凡て上位階級の者に對しては絶對に服從し、飽くまで尊敬しなければならなかつたものである。從つて併合以後四民平等となっても、舊態未だ革まらず交際上には依然として階級観念が幅をきかせて居る。だから階級の最上位であった兩班の言葉を對手の代名詞として使用すれば大抵の者は悦ぶので、「あなた」、「お方」と云ふ位の敬稱として「兩班」の語がしばしば用ゐられる。
No.3の回答者さんが、「当時の朝鮮では染色技術も無く、汚れた白いチマチョゴリから胸だけを出して生活していたことになります」と書かれていますが、洗濯と縫製、衣服の扱いは女性の一番の仕事であって汚れた服を着ていることは貧民やでもあまりないだろうと思います。 色物、模様物を使う文化がないので庶民用の染色技術は発達してないのが朝鮮の19世紀だとは思います。 短いチョゴリから乳を出している写真を盛んに宣伝アピールしている人たちがいますが、ネット情報検索の範囲では数少ない写真をただ転載しているだけのようです。 朝鮮旅行案内記や朝鮮雑記にもそれに触れている記載はないようで、当時の日本人にとって気になる乱れた姿はなかったものと思います。 明治時代に、日本の風俗が裸で生活していると西欧に情報が流れ、日本人が懸命にこれを否定し国内の風俗規制をはじめますが、それと似ているのかもしれません。
https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p01.html
日本人は和服を軽くひっかけるようにして着ていました。当然着物がはだけてしまいます。このような姿について、ペリーに随行した宣教師のサミュエル・W・ウィリアムは「婦人達は胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き・・・」というように半ば蔑むように語っています。このような「裸体」の風俗は日本人にとっては極めて普通のことでしたが、初めてこれを目にした西洋人達はとても驚きました。このような「文明」の視線に対し、日本を野蛮と思われるのを嫌った明治政府は「裸体」の風俗を取り締まるようになります。明治元年横浜を皮切りに、続いて明治4年に東京でも裸体禁止令が出され、その後全国に普及していきました。その流れの中で裸体や混浴を禁止する「違式詿違条例」が明治5年に東京で出され、その後各地で風俗の取締りが行われるようになりました。
西洋人イザベラバードも似た感性であったのかもしれません。
No.7
- 回答日時:
当時の写真を見ると胸丸出しのものがあるし、ヨーロッパの女性から見てこんな衣装は野蛮で見にくいものに見えたのかもしれませんね。
ただしそれは当時の西欧女性の、しかも個人の価値観による判断なので肯定も否定もできないですね。ああ、そういう考え方もあるのかということで。No.5
- 回答日時:
チマチョゴリも着る階層で色々でしょうけど、彼女のキリスト教的価値観で云えば、簡単にバストを露出させやすく、衣装を脱ぎやすいというか脱がしやすい衣装ではありますので、それを淫らに感じたのかもしれませんね。
No.4
- 回答日時:
そうかも知れませんね。
当時のチマチョゴリと現代のチマチョゴリは全く別なものです。まあ世界一といってもイザベラ・バードの主観に過ぎない話で、はあそうですかという他ないけど。No.2
- 回答日時:
彼女が朝鮮に行ったのは明治時代です。
その当時に世界中の民族衣装を紹介した本が
あったとは思えないし、彼女が世界中を訪問しても
いません。だからチマチョゴリを醜いと言ってもいいけど
「世界一」と付け加えるのは間違いです
現代でも同じです。私もすべての国に行ってもいないし、
前記の本も見たことがないです
ですから、チマチョゴリを美しいとは感じませんが、世界一醜いとは
言えません
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